・その後も白敏中・魏暮・杜悰・夏侯孜・蕭鄴と宰相級が続く。咸通年間[860-873年]に入ると
南詔が安南・邕管・西川に侵攻を始めた。
・咸通8年[867年]李師望の提言により、対南詔前線として卭州に定邊軍節度使を置き、
嶲眉蜀卭雅嘉黎七州を分離した。ところが咸通9年[868年]その失政から南詔の大侵攻を招き、
咸通10年[869年]には成都も陥落寸前となった。唐朝は諸道の軍を派遣して
咸通11年[870年]になんとか撃退した。定邊軍節度使は廃止され復領した。
・その後も南詔の侵攻は続き、乾符元年[874年]には安南で南詔軍を大破した高駢を節度使とした。
・高駢は成都の城郭を整備したが、すぐ荊南・鎭海・淮南と転任し、廣明元年[880年]には宦官
田令孜の兄陳敬瑄が赴任した。
・黄巣の乱で僖宗皇帝は令孜に奉ぜられ成都に奔った。敬瑄はそれを擁護するとともに京師回復に努めた。
南詔が安南・邕管・西川に侵攻を始めた。
・咸通8年[867年]李師望の提言により、対南詔前線として卭州に定邊軍節度使を置き、
嶲眉蜀卭雅嘉黎七州を分離した。ところが咸通9年[868年]その失政から南詔の大侵攻を招き、
咸通10年[869年]には成都も陥落寸前となった。唐朝は諸道の軍を派遣して
咸通11年[870年]になんとか撃退した。定邊軍節度使は廃止され復領した。
・その後も南詔の侵攻は続き、乾符元年[874年]には安南で南詔軍を大破した高駢を節度使とした。
・高駢は成都の城郭を整備したが、すぐ荊南・鎭海・淮南と転任し、廣明元年[880年]には宦官
田令孜の兄陳敬瑄が赴任した。
・黄巣の乱で僖宗皇帝は令孜に奉ぜられ成都に奔った。敬瑄はそれを擁護するとともに京師回復に努めた。