唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

湖南都団練観察使 武安軍節度使 その3

2012-04-13 10:58:43 | Weblog
・中和元年[881年]江西から安南に派遣されていた將閔頊が帰還の途中に乱し、
觀察使李裕を逐い自立したが、京師陥落後の唐朝は対処の方法がなかった。
・中和二年[882年]唐朝は閔勖を權充鎮南節度使[江西]とした。これは江西も又鐘傳により占拠されて
いたため、乱將どうしを咬み合わせて討伐しようとしたものである。勖は受けなかった。
・中和三年[883年]唐朝はあきらめて湖南観察使を欽化軍節度として勖を任命した。
・光啓二年[886年]衡州刺史周岳は潭州を攻めた。勖は秦宗權將黄皓を招いて防守しようとしたが、
皓に殺された。岳は潭州を落とし皓を殺した。岳は欽化軍の改名を求め、武安軍節度となった。
・景福二年[893年]勖の旧將邵州刺史處訥は潭州を攻め岳を殺し自立した。
・乾寧元年[894年]楊行密により淮南から逐われた孫儒將の劉建鋒と馬殷の大軍が潭州になだれ込んできた。
處訥は敵せず和そうとしたが殺され、建鋒が自立した。
・乾寧三年[896年]建鋒は部下に殺され、馬殷が擁立された。
・当時は湖南各州は割拠した武将に支配され、潭州のみが管轄であった。そのため殷は光化元年[898年]
邵、衡、永三州を征討して回復した。
・さらに光化二年[899年]道・郴・連州を落とし湖南全域を制圧した。
・光化三年[900年]桂管諸州を平定し、淮南楊行密と対峙し岳州を争い、朱全忠と結んだ。