唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

辰溪巫錦業都団練守捉観察使

2012-07-15 12:09:21 | Weblog
・大暦元年[766年]西川で崔寧が乱し、節度使郭英乂が敗死した時、劍州牙將李昌夔も蜂起した。
・8月派遣されてきた副元帥杜鴻漸は寧に勝てず、慰撫する政策に転換し、昌夔も劍州刺史とした。
・その後寧に西川を与え、大暦4年[769年]昌夔に黔中の東部を割いて辰溪巫錦業都団練守捉観察使とした。
・これは湖南の西原蠻や桂管の騒乱に対する防備のためであった。
・大暦8年[773年]昌夔は桂管防禦観察使に転じた。
・新書方鎭表での辰錦観察使の廃止は大暦12年[777年]であるが、9~12年の観察使は不明である。
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蘷き忠ばい涪都防禦使 鎭江節度使

2012-07-14 14:17:15 | Weblog
・廣徳2年[764年]荊南節度使内の蘷州に蘷忠涪都防禦使が設置された。
・荊南節度使が呂諲・李峴といった宰相出身者から武将衛伯玉に代わった影響と思える。
・荊南観察使の隷下であるため独立方鎭とは言えない。
・途中の萬州が管轄下でないため蘷州と忠・涪州は隣接していない。
・涪州は大暦元年[766年]に荊南に復帰し、蘷忠都防禦使のはずだが新書方鎭表では変化はない。
・防禦使の人名記録はまったくないが組織上は天祐3年[年]まで存在したのかもしれない
・天祐3年[906年]王建は蘷忠涪州をもって鎭江節度使[治所は忠州]を置いた。
・誰が任ぜられたかは不明であるが王宗阮の可能性が強い。
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虁 き州 虁 き峽節度使

2012-07-13 15:37:19 | Weblog

・至徳元年[756年]安史の乱に際して蘷州に防禦守捉使が置かれた。
・至徳2年.永王璘が江陵[荊南]で反したことと、南陽が陥落し襄陽包囲戦となったため、蘷峽萬忠歸の五州をもって
蘷峽節度採訪處置防禦等使が置かれたようである。
・衛尉少卿嗣道王鍊が任ぜられた。但し実体があったかどうかは不明である。
・乾元元年[758年]以前に荊南節度使に統合されたもよう。

 

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隴州 保勝軍節度使

2012-07-09 10:34:38 | Weblog

・鳳翔李茂貞が配下の為に私造した方鎭である。
・天復元年[901年]隴州に保勝軍節度使が立てられ茂貞仮子李繼岌[桑弘志]
が任ぜられたようである。
・五代に続き、貞明二年[916年]頃までは存在した。

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隴州 奉義軍節度使

2012-07-08 10:33:17 | Weblog

・建中4年[783年]10月宗皇帝は朱に逐われて奉天城に籠城する
ことになった。
・鳳翔節度使張鎰は將李楚琳に逐われ、属州の隴州刺史郝通は州を棄てて
楚琳のもとに奔った。
・隴右營田判官韋皋はの誘いを拒否し隴州を唐朝に保った。
・11月隴州を奉義軍とし,皐を節度使として守らせた。
・興元元年[784年]8月皐は金吾大将軍となり奉義軍は廃止され鳳翔節度
の管轄に戻った。

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乾州 威勝軍節度使

2012-07-07 10:32:23 | Weblog

・新唐書方鎭表では乾寧元年[894年]に乾州に威勝軍節度使が置かれたと
いう記載がある。しかし威勝軍は光啓3年[887年]に浙東義勝軍の改称に使
用されており、乾寧3年[896年]に浙東が鎭東軍に改称されるまでは重複する。
・乾州も新唐書地理志では乾寧2年京兆府奉天・好畤・武功・盩厔・醴泉縣に
より形成されているが、同時記載の覃王[鳳翔節度使]が李茂貞を伐つため
に出鎭したのは乾寧4年であり存在自体が不明確である。

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宿泗都団練観察使

2012-07-06 10:31:37 | Weblog

・咸通3年[862年]8月浙東より凱旋してきた王式は武寧軍節度使となり、
率いていた軍を使い専横な牙軍主力数千を誅殺した。
・武寧軍は廃止され、徐州は団練使となり、兗海節度に隷し、。
濠州は淮南節度へ、、宿州に宿泗都團練觀察使を置いた。
・しかし誰が観察使かは不明で有り実体は不明である。徐州地域は失業
した兵士による群盗が蜂起し治安は極めて悪化した。
・咸通4年[863年]11月[新唐書方鎭表では5年に記載]に廃止され徐州は
観察使となり、徐濠泗宿四州が附属した。

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濠泗観察使

2012-07-05 10:26:31 | Weblog

・貞元16年[800年]5月徐泗濠節度使張建封が卒した。建封はよく軍を治め
淄青と対抗しつけいられることがなく、將士もよく懐いていた。
・唐朝は代わりに蘇州刺史韋夏卿を送り込んだが、牙軍は建封の子愔を自立させた。
・淮南節度使杜佑や近隣刺史に命じて伐たせたが敗北が続いた。
・そこで6月徐州から濠泗二州を切り離して濠泗観察使を置き、淮南杜佑に
兼任させることにし、徐州は愔に継承させることとした。
・元和元年[806年]11月徐州武寧節度使張愔は病の為鎭を返上することを
求め、唐朝は東都留守王紹を送り込むことに成功した。手土産として濠泗二州
を武寧軍に与えた。將士は増領を喜び交替を受け入れた。
これにより濠泗観察使[新唐書方鎭表では2年に記載]は廃止された。

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奉天節度使

2012-07-04 12:37:45 | Weblog

・中和2年[882年]黄巣に占領された京師を回復するために京兆府各地に残存する神策軍系の軍鎭を
束ねるために設置された。
・3月右神策將軍齊克儉が左右神策軍內外八鎮兼博野奉天節度使となる。
・12月齊克儉は使相となった。。
・中和3年4月京師が回復され、節度使は廃止されたらしい。。
・克儉については兗海齊克譲の縁故であるとしか記録はない。。

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天徳軍[豐州] 歸義軍節度使

2012-07-03 20:33:05 | Weblog

・新紀方鎭表では豐州天徳軍が會昌2年に歸義軍と賜號され、尋廃止されたことが記されている。
・會昌元年[842年]黠戛斯に敗れて崩壊した回紇国よりその一族嗢沒斯が、
可汗を見捨てて多くの部衆をひきいて天徳軍に投降してきた。
・唐朝は會昌2年5月左金吾大將軍、懷化郡王とし、6月その軍を歸義軍とし嗢沒斯[賜名されて李思忠]
を軍使とした。8月可汗が残党を率いて唐朝に救援を求めて天徳に現れた。
・會昌3年[843年]正月唐朝はこれを伐ち、回紇可汗軍は潰滅した。2月歸義軍を停止し、
回紇を諸道に騎兵として分割配置した。回紇はこれにより消滅した。
・方鎭表の謝りであり、節度使として起鎭されたことはなく、一時的に天徳軍に並置された軍と判断される。

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深冀節度使

2012-07-02 09:21:01 | Weblog
・長慶元年[821年]7月成徳節度使田弘正が乱殺された後、唐朝は成徳を
恒趙と深冀に分割しようとした。
・8月深州刺史牛元翼を深冀節度使とした。実質は深州刺史だけである。
・自立した王廷湊は幽州朱克融とともに深州を包囲攻撃した。
・10月元翼を成徳節度使として廷湊の継承を認めない強硬姿勢に転じたが、
元翼は深州に籠城したままであった。
・しかし無能な穆宗皇帝と消極的な宰相達は戦闘継続を望まず、長慶2年2月
元翼を山東節度使に移し。廷湊の継承を認めた。
・廷湊は深州包囲を解かず、3月に入ってやっと強行突破して逃れることができた。
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深趙都団練観察使

2012-07-01 09:05:24 | Weblog
・李寶臣没後の成徳節度使を三分割(恒冀・易定滄・深趙)しようとした方鎭である。
・建中2年[781年]寶臣の子惟岳の継承を認めない唐朝は討伐に成功し、建中3年正月惟岳を誅した。
・唐朝は2月初期から帰順していた趙州康日知を深趙都團練觀察使とした。
・深州は幽州朱滔が強く求めていたのであるが遠隔地の徳棣二州を与えられ不満が高まった。
・同じく不満の恒冀王武俊が反すると、4月朱滔も反して趙州を攻めた。
・日知はよく防戦し屈しなかったが、形勢不利をみた唐朝は興元元年[784年]正月日知を同州に
移し、9月武俊に趙州を引き渡した。
・深州は初期に失われており、実質は趙州だけを統治した方鎭といえる。
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