・8月派遣されてきた副元帥杜鴻漸は寧に勝てず、慰撫する政策に転換し、昌夔も劍州刺史とした。
・その後寧に西川を与え、大暦4年[769年]昌夔に黔中の東部を割いて辰溪巫錦業都団練守捉観察使とした。
・これは湖南の西原蠻や桂管の騒乱に対する防備のためであった。
・大暦8年[773年]昌夔は桂管防禦観察使に転じた。
・新書方鎭表での辰錦観察使の廃止は大暦12年[777年]であるが、9~12年の観察使は不明である。
・至徳元年[756年]安史の乱に際して蘷州に防禦守捉使が置かれた。
・至徳2年.永王璘が江陵[荊南]で反したことと、南陽が陥落し襄陽包囲戦となったため、蘷峽萬忠歸の五州をもって
蘷峽節度採訪處置防禦等使が置かれたようである。
・衛尉少卿嗣道王鍊が任ぜられた。但し実体があったかどうかは不明である。
・乾元元年[758年]以前に荊南節度使に統合されたもよう。
・鳳翔李茂貞が配下の為に私造した方鎭である。
・天復元年[901年]隴州に保勝軍節度使が立てられ茂貞仮子李繼岌[桑弘志]
が任ぜられたようである。
・五代に続き、貞明二年[916年]頃までは存在した。
・建中4年[783年]10月宗皇帝は朱に逐われて奉天城に籠城する
ことになった。
・鳳翔節度使張鎰は將李楚琳に逐われ、属州の隴州刺史郝通は州を棄てて
楚琳のもとに奔った。
・隴右營田判官韋皋はの誘いを拒否し隴州を唐朝に保った。
・11月隴州を奉義軍とし,皐を節度使として守らせた。
・興元元年[784年]8月皐は金吾大将軍となり奉義軍は廃止され鳳翔節度
の管轄に戻った。
・新唐書方鎭表では乾寧元年[894年]に乾州に威勝軍節度使が置かれたと
いう記載がある。しかし威勝軍は光啓3年[887年]に浙東義勝軍の改称に使
用されており、乾寧3年[896年]に浙東が鎭東軍に改称されるまでは重複する。
・乾州も新唐書地理志では乾寧2年京兆府奉天・好畤・武功・盩厔・醴泉縣に
より形成されているが、同時記載の覃王[鳳翔節度使]が李茂貞を伐つため
に出鎭したのは乾寧4年であり存在自体が不明確である。
・咸通3年[862年]8月浙東より凱旋してきた王式は武寧軍節度使となり、
率いていた軍を使い専横な牙軍主力数千を誅殺した。
・武寧軍は廃止され、徐州は団練使となり、兗海節度に隷し、。
濠州は淮南節度へ、、宿州に宿泗都團練觀察使を置いた。
・しかし誰が観察使かは不明で有り実体は不明である。徐州地域は失業
した兵士による群盗が蜂起し治安は極めて悪化した。
・咸通4年[863年]11月[新唐書方鎭表では5年に記載]に廃止され徐州は
観察使となり、徐濠泗宿四州が附属した。
・貞元16年[800年]5月徐泗濠節度使張建封が卒した。建封はよく軍を治め
淄青と対抗しつけいられることがなく、將士もよく懐いていた。
・唐朝は代わりに蘇州刺史韋夏卿を送り込んだが、牙軍は建封の子愔を自立させた。
・淮南節度使杜佑や近隣刺史に命じて伐たせたが敗北が続いた。
・そこで6月徐州から濠泗二州を切り離して濠泗観察使を置き、淮南杜佑に
兼任させることにし、徐州は愔に継承させることとした。
・元和元年[806年]11月徐州武寧節度使張愔は病の為鎭を返上することを
求め、唐朝は東都留守王紹を送り込むことに成功した。手土産として濠泗二州
を武寧軍に与えた。將士は増領を喜び交替を受け入れた。
これにより濠泗観察使[新唐書方鎭表では2年に記載]は廃止された。
・中和2年[882年]黄巣に占領された京師を回復するために京兆府各地に残存する神策軍系の軍鎭を
束ねるために設置された。
・3月右神策將軍齊克儉が左右神策軍內外八鎮兼博野奉天節度使となる。
・12月齊克儉は使相となった。。
・中和3年4月京師が回復され、節度使は廃止されたらしい。。
・克儉については兗海齊克譲の縁故であるとしか記録はない。。
・新紀方鎭表では豐州天徳軍が會昌2年に歸義軍と賜號され、尋廃止されたことが記されている。
・會昌元年[842年]黠戛斯に敗れて崩壊した回紇国よりその一族嗢沒斯が、
可汗を見捨てて多くの部衆をひきいて天徳軍に投降してきた。
・唐朝は會昌2年5月左金吾大將軍、懷化郡王とし、6月その軍を歸義軍とし嗢沒斯[賜名されて李思忠]
を軍使とした。8月可汗が残党を率いて唐朝に救援を求めて天徳に現れた。
・會昌3年[843年]正月唐朝はこれを伐ち、回紇可汗軍は潰滅した。2月歸義軍を停止し、
回紇を諸道に騎兵として分割配置した。回紇はこれにより消滅した。
・方鎭表の謝りであり、節度使として起鎭されたことはなく、一時的に天徳軍に並置された軍と判断される。