淮西陥落により情勢は劇的に改善された。残る河北淄青の情勢は
◎成徳王承宗 当面は停戦中だが、北を劉總、南を田弘正、東を程權、西を郗士美や河東・義武軍に包囲されている。従来は不熱心だった討伐軍は、淮西陥落と聞いて積極的に活動するようになった。承宗は滅亡の危機を感じて焦燥していた。
◎淄青李師道は成徳との間を魏博・横海に遮断され、淮西との連携がなくなり孤立しているが、師道は自藩の力を過信して危機感が乏しかった。しかし宣武韓弘は淮西での失態を恥じて淄青圧迫を強化し、淮西戦線から李光顔・烏重胤・李愬が続々転用され、さらに南部から楚州兵を率いた李聴が迫っていた。
正月乙巳,李遜が淄青李師道を宣慰した。
憲宗は武元衡暗殺の主犯は王承宗と信じていたし、成徳問題が戦乱の
起点であったので、師道には融和的であった。そこで淄青十二州のう
ち、海沂密三州を上納させ、師道の子を人質として京師に送るならば
赦そうという姿勢であった。師道の幕僚もその条件での妥協を望むも
のも多く遣使となったわけである。しかし優柔不断な師道は決断でき
なかった。
二月戊戌,入京した李鄘は宰相を固辭した。
二月乙巳,橫海節度使程權は滄景二州を上納した。
情勢をみて自立不能と判断した程權は、一族を引き連れ入朝した。
橫海將士は動揺したが最終的には小鎭のため収まった。これにより
唐朝は河北のうち義武易定二州、横海滄景二州を直轄下においたわ
けである。
四月甲寅,魏博田弘正は、王承宗の子知感、知信を京師に護送し、成徳が德棣二州の支配権を唐朝に返納してきたと通知した。
承宗は横海が帰朝し、淄青李師道が帰順を画策しているのを見て
非常に懼れ、魏博の田弘正にすがって憲宗に謝罪した。憲宗は赦
したくはなかったが、弘正の何度もの請願を拒みきれず、二子を
人質にすることと、懸案の德棣二州の回収、租稅を納める、地方
官の任免権を引き渡すなどとの条件で妥協することになった。
憲宗にとってもはや淄青を赦免する必要はなくなった。諸将は功績を求めて争って参戦を求め、官僚達も領域収復を期待して異論を出さなくなった。
◎成徳王承宗 当面は停戦中だが、北を劉總、南を田弘正、東を程權、西を郗士美や河東・義武軍に包囲されている。従来は不熱心だった討伐軍は、淮西陥落と聞いて積極的に活動するようになった。承宗は滅亡の危機を感じて焦燥していた。
◎淄青李師道は成徳との間を魏博・横海に遮断され、淮西との連携がなくなり孤立しているが、師道は自藩の力を過信して危機感が乏しかった。しかし宣武韓弘は淮西での失態を恥じて淄青圧迫を強化し、淮西戦線から李光顔・烏重胤・李愬が続々転用され、さらに南部から楚州兵を率いた李聴が迫っていた。
正月乙巳,李遜が淄青李師道を宣慰した。
憲宗は武元衡暗殺の主犯は王承宗と信じていたし、成徳問題が戦乱の
起点であったので、師道には融和的であった。そこで淄青十二州のう
ち、海沂密三州を上納させ、師道の子を人質として京師に送るならば
赦そうという姿勢であった。師道の幕僚もその条件での妥協を望むも
のも多く遣使となったわけである。しかし優柔不断な師道は決断でき
なかった。
二月戊戌,入京した李鄘は宰相を固辭した。
二月乙巳,橫海節度使程權は滄景二州を上納した。
情勢をみて自立不能と判断した程權は、一族を引き連れ入朝した。
橫海將士は動揺したが最終的には小鎭のため収まった。これにより
唐朝は河北のうち義武易定二州、横海滄景二州を直轄下においたわ
けである。
四月甲寅,魏博田弘正は、王承宗の子知感、知信を京師に護送し、成徳が德棣二州の支配権を唐朝に返納してきたと通知した。
承宗は横海が帰朝し、淄青李師道が帰順を画策しているのを見て
非常に懼れ、魏博の田弘正にすがって憲宗に謝罪した。憲宗は赦
したくはなかったが、弘正の何度もの請願を拒みきれず、二子を
人質にすることと、懸案の德棣二州の回収、租稅を納める、地方
官の任免権を引き渡すなどとの条件で妥協することになった。
憲宗にとってもはや淄青を赦免する必要はなくなった。諸将は功績を求めて争って参戦を求め、官僚達も領域収復を期待して異論を出さなくなった。