二月甲辰,征討使嚴綬は淮西軍に磁丘で大敗した。
相変わらず唐朝軍は弱く、綬は將才が無かった。大敗であり淮西軍は東都
周辺まで侵掠した。
三月庚子,忠武軍節度使李光顏が吳元濟軍を臨潁等で破った。
要は光顏が奮戦して侵攻軍を撃退したという程度である。
六月癸卯,強硬派の宰相武元衡が京師で入朝時に賊に襲われ殺害された。
李師道や王承宗などが派遣した暗殺団が、強硬派の元衡や
裴度を、入朝時に襲撃し元衡の殺害に成功した。京師は震駭したが、
真犯人を捕まえることもできなかった。
乙丑,憲宗は強硬派の裴度を宰相とした。
激怒した憲宗皇帝はあくまで成德征討を貫くことを示すため、
負傷した強硬派の裴度を元衡の後任に登用した。
七月甲戌,武元衡殺害の犯人は王承宗とされ征討されることになった。
真犯人は李師道の配下ではあったが、憲宗は承宗配下と思い込んだ。
丁未,淄青李師道の將訾嘉珍が東都で蜂起したが鎮圧された。
東都の兵備が虚弱なことを知った師道は、乱を起こし唐朝を恫喝
しようとした。なんとか鎮圧はでき、淄青李師道も討伐の対象と
なった。
九月癸酉,宣武韓弘が淮酉行營兵馬都統となった。
弘は敗北した嚴綬に代わり征討使となったが、消極的であった。
十一月壬申,李光顏、烏重胤が淮西軍を破った。
侵攻してきた淮西軍を撃退した程度のものである。
十二月甲辰,武寧將王智興が淄青軍を平陰に破った。
淄青李師道が徐州に侵攻したのを撃退。もちろんたいした勝利
ではない。撃退程度である。
相変わらず唐朝軍は弱く、綬は將才が無かった。大敗であり淮西軍は東都
周辺まで侵掠した。
三月庚子,忠武軍節度使李光顏が吳元濟軍を臨潁等で破った。
要は光顏が奮戦して侵攻軍を撃退したという程度である。
六月癸卯,強硬派の宰相武元衡が京師で入朝時に賊に襲われ殺害された。
李師道や王承宗などが派遣した暗殺団が、強硬派の元衡や
裴度を、入朝時に襲撃し元衡の殺害に成功した。京師は震駭したが、
真犯人を捕まえることもできなかった。
乙丑,憲宗は強硬派の裴度を宰相とした。
激怒した憲宗皇帝はあくまで成德征討を貫くことを示すため、
負傷した強硬派の裴度を元衡の後任に登用した。
七月甲戌,武元衡殺害の犯人は王承宗とされ征討されることになった。
真犯人は李師道の配下ではあったが、憲宗は承宗配下と思い込んだ。
丁未,淄青李師道の將訾嘉珍が東都で蜂起したが鎮圧された。
東都の兵備が虚弱なことを知った師道は、乱を起こし唐朝を恫喝
しようとした。なんとか鎮圧はでき、淄青李師道も討伐の対象と
なった。
九月癸酉,宣武韓弘が淮酉行營兵馬都統となった。
弘は敗北した嚴綬に代わり征討使となったが、消極的であった。
十一月壬申,李光顏、烏重胤が淮西軍を破った。
侵攻してきた淮西軍を撃退した程度のものである。
十二月甲辰,武寧將王智興が淄青軍を平陰に破った。
淄青李師道が徐州に侵攻したのを撃退。もちろんたいした勝利
ではない。撃退程度である。