三月、昭義郗士美、横海程權が成徳軍に敗北した。
四月辛卯,唐鄧節度使李愬及吳元濟軍を嵖岈山で破る。
もちろんたいした勝利ではない。愬は壊滅した唐鄧軍に、中央軍
より援軍を受け、將士や家族を撫育し、衆を持って寡を破ること
で小勝を重ねて自信を回復させていった。また淮西将呉秀琳や
李祐等を降して登用し、淮西の内情をつぶさに調査した。呉元濟
は弱体の唐鄧軍や実績の無い愬を軽視し警戒せず、主力軍を北部
戦線に集中していた。
四月乙未,李光顏が郾城に淮西軍を破った。
決定的な戦闘ではないが、光顏は本気に戦うようになってきた。
呉元濟は勇将董重質に主力軍を与えて郾城戦線に唐朝軍と対峙さ
せた。
五月丙子,河北行營[王承宗征討]を罷め、征討軍を歸鎭させた。
敗北が続き成果があがらず、費用だけがかさむ成徳・淮西征討に
対して、宰相李逢吉をはじめとした官僚群は中止を求めた。憲宗
は成徳をあきらめて淮西に専念することにした。
七月丙辰,宰相裴度が淮西宣慰處置使として出陣した。
淮西戦線の戦況はやや好転したとは言え、征討使韓弘は消極的で
あり、李光顔や烏重胤などは地域的には勇戦するが、勇敢な淮西
軍を圧迫するのがやっとであり、到底平定できる見通しがなかっ
た。朝廷でも李逢吉や王涯など財政的疲弊から非戦論派が有力と
なり、憲宗皇帝は憂慮していた。そこで強硬派の筆頭である宰相
裴度が自ら現地へ赴き、全軍の指揮を執ろうとしたわけである。
しかし韓弘に遠慮して名目としては宣慰使である。
八月癸亥,烏重胤が淮西軍に賈店で敗北した。
九月丁未,非戦論派宰相李逢吉が罷免された。
逢吉は淮西征討も止めるように進言し、憲宗の怒りをかった。
十月、宰相裴度は自ら前線へ出て督戦したが、淮西兵に逆襲され
て敗走した。淮西軍は強く、唐朝の大軍に圧迫されながらも勇
戦し、しばしば勝利した。戦線は膠着し唐朝の勝利にはほど遠
かった。
四月辛卯,唐鄧節度使李愬及吳元濟軍を嵖岈山で破る。
もちろんたいした勝利ではない。愬は壊滅した唐鄧軍に、中央軍
より援軍を受け、將士や家族を撫育し、衆を持って寡を破ること
で小勝を重ねて自信を回復させていった。また淮西将呉秀琳や
李祐等を降して登用し、淮西の内情をつぶさに調査した。呉元濟
は弱体の唐鄧軍や実績の無い愬を軽視し警戒せず、主力軍を北部
戦線に集中していた。
四月乙未,李光顏が郾城に淮西軍を破った。
決定的な戦闘ではないが、光顏は本気に戦うようになってきた。
呉元濟は勇将董重質に主力軍を与えて郾城戦線に唐朝軍と対峙さ
せた。
五月丙子,河北行營[王承宗征討]を罷め、征討軍を歸鎭させた。
敗北が続き成果があがらず、費用だけがかさむ成徳・淮西征討に
対して、宰相李逢吉をはじめとした官僚群は中止を求めた。憲宗
は成徳をあきらめて淮西に専念することにした。
七月丙辰,宰相裴度が淮西宣慰處置使として出陣した。
淮西戦線の戦況はやや好転したとは言え、征討使韓弘は消極的で
あり、李光顔や烏重胤などは地域的には勇戦するが、勇敢な淮西
軍を圧迫するのがやっとであり、到底平定できる見通しがなかっ
た。朝廷でも李逢吉や王涯など財政的疲弊から非戦論派が有力と
なり、憲宗皇帝は憂慮していた。そこで強硬派の筆頭である宰相
裴度が自ら現地へ赴き、全軍の指揮を執ろうとしたわけである。
しかし韓弘に遠慮して名目としては宣慰使である。
八月癸亥,烏重胤が淮西軍に賈店で敗北した。
九月丁未,非戦論派宰相李逢吉が罷免された。
逢吉は淮西征討も止めるように進言し、憲宗の怒りをかった。
十月、宰相裴度は自ら前線へ出て督戦したが、淮西兵に逆襲され
て敗走した。淮西軍は強く、唐朝の大軍に圧迫されながらも勇
戦し、しばしば勝利した。戦線は膠着し唐朝の勝利にはほど遠
かった。