唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十二年 西暦 817 和暦 弘仁8年 2

2020-02-14 09:50:09 | Weblog
十月辛未,唐鄧節度使李愬は淮西の張柴柵を陥した。
 將士達は単なる通常の偵察戦と思っていた、愬はそこで呉元濟の本拠地
 蔡州を襲撃すると布告した。唐朝軍にとって三十年以上も不入であった
 蔡州への進攻と聞いて、監軍以下の將士は戦慄したが、愬の威權は確立
 しており従うしかなかった。降将李祐の先導により極寒の中進軍した。

十月癸酉,李愬克蔡州。
 主力を董重質に任せ、裴度軍と対峙していた淮西は、蔡州城にはわず
 かな守兵しかおらず、容易に呉元濟を捕えることができた。
 落城を聞いた董重質は愬に降り、忠武李光顔は対峙していた勇猛な淮
 西軍を慰撫して接収し自軍に加えた。

十月辛巳,裴度は淮西節度使として蔡州に入り、軍民を赦した。
 淮西経済は長年の戦乱により疲弊していて、唐朝の慰撫にしたがい帰
 順することになった。

十月、淮南節度使李鄘が宰相に任用された。
 李鄘は宦官吐突承璀の推薦であることを聞き喜ばなかった。

十二月壬戌,裴度は凱旋し、馬總が淮西節度使となった。
 その後淮西節度使[蔡光申三州]は解体され、蔡州は忠武、光州は
 淮南、申州は鄂岳へと分離された。淮西の再結集を懼れての處置で
 ある。
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元和十二年 西暦 817 和暦 弘仁8年

2020-02-13 10:07:07 | Weblog
三月、昭義郗士美、横海程權が成徳軍に敗北した。

四月辛卯,唐鄧節度使李愬及吳元濟軍を嵖岈山で破る。
 もちろんたいした勝利ではない。愬は壊滅した唐鄧軍に、中央軍
 より援軍を受け、將士や家族を撫育し、衆を持って寡を破ること
 で小勝を重ねて自信を回復させていった。また淮西将呉秀琳や
 李祐等を降して登用し、淮西の内情をつぶさに調査した。呉元濟
 は弱体の唐鄧軍や実績の無い愬を軽視し警戒せず、主力軍を北部
 戦線に集中していた。

四月乙未,李光顏が郾城に淮西軍を破った。
 決定的な戦闘ではないが、光顏は本気に戦うようになってきた。
 呉元濟は勇将董重質に主力軍を与えて郾城戦線に唐朝軍と対峙さ
 せた。

五月丙子,河北行營[王承宗征討]を罷め、征討軍を歸鎭させた。
 敗北が続き成果があがらず、費用だけがかさむ成徳・淮西征討に
 対して、宰相李逢吉をはじめとした官僚群は中止を求めた。憲宗
 は成徳をあきらめて淮西に専念することにした。

七月丙辰,宰相裴度が淮西宣慰處置使として出陣した。
 淮西戦線の戦況はやや好転したとは言え、征討使韓弘は消極的で
 あり、李光顔や烏重胤などは地域的には勇戦するが、勇敢な淮西
 軍を圧迫するのがやっとであり、到底平定できる見通しがなかっ
 た。朝廷でも李逢吉や王涯など財政的疲弊から非戦論派が有力と
 なり、憲宗皇帝は憂慮していた。そこで強硬派の筆頭である宰相
 裴度が自ら現地へ赴き、全軍の指揮を執ろうとしたわけである。
 しかし韓弘に遠慮して名目としては宣慰使である。

八月癸亥,烏重胤が淮西軍に賈店で敗北した。

九月丁未,非戦論派宰相李逢吉が罷免された。
 逢吉は淮西征討も止めるように進言し、憲宗の怒りをかった。

十月、宰相裴度は自ら前線へ出て督戦したが、淮西兵に逆襲され
 て敗走した。淮西軍は強く、唐朝の大軍に圧迫されながらも勇
 戦し、しばしば勝利した。戦線は膠着し唐朝の勝利にはほど遠
 かった。
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元和十一年 西暦 816 和暦 弘仁7年

2020-02-12 10:08:59 | Weblog
正月己巳,宰相張弘靖が河東節度使となった。

正月乙亥,幽州節度使劉總は王承宗軍を冀州武強に破り陥した。
 幽州軍は成徳軍より強い、總は武強を制圧してそこで停止した。
 唐朝軍のお手並み拝見というところである。
 
二月庚子,王承宗が蔚州を攻撃した。

二月乙巳,李逢吉が相となった。融和派である。

四月、李光顏、烏重胤が淮西軍を、劉總軍や昭義軍や義武軍が
王承宗軍を破る。
 いずれも小競り合いであり意味はない。諸将はわずかな功績を
 過大申告して恩賞をねだるだけである。

五月、李光顏、烏重胤はまた勝ったと上奏。

六月,甲辰,唐鄧節度使高霞寓が淮西軍に鐵城で大敗する。
 唐鄧節度は山東節度を二分割し、軍事行動担当の高霞寓[唐鄧]
 と、補給担当の李遜[山東]に分割したものであり、霞寓は宦
 官受けのする神策軍の将軍である。この敗北は本物で唐鄧軍は
 壊滅してしまった。後任唐鄧節度にまた融和派の袁滋が登用さ
 れた。

七月壬午,宣武韓弘が淮西軍を破ったそうである。

八月壬寅,宰相韋貫之が解任される。
 成徳・淮西征討に反対したため罷免された。

十一月、容管で黄洞蠻が蜂起する。

十一月、憲宗は大軍の征討軍の將達がろくな戦果を上げず、徒食することを怒って、宦官梁守謙を派遣し恩賞を与えると同時に譴責した。

十二月丁未,財務官僚の王涯が宰相となった。
 戦費調達のため財政官僚が重視されるようになっていった。

十二月、義武節度使渾鎬が王承宗に大敗し、軍乱が発生した。
 旧義武軍の將陳楚が急派され沈静化した。鎬は名将渾瑊の子
 であるが軍才はなく、偵察なく猪突して敗北した。

十二月甲寅,李愬が袁滋に代わり唐鄧節度使となった。
 袁滋はひたすら淮西呉元濟にすりよって、その攻撃を避けよ
 うとしたため罷免された。現実には唐鄧軍は崩壊していて袁滋
 はどうしようもなかったわけであるが。愬は名将李晟の子であ
 り、兄弟には聴[夏綏節度使]や愿[武寧節度使]など有名な
 将がが多い
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元和十年 西暦 815 和暦 弘仁6年

2020-02-11 18:41:44 | Weblog
二月甲辰,征討使嚴綬は淮西軍に磁丘で大敗した。
 相変わらず唐朝軍は弱く、綬は將才が無かった。大敗であり淮西軍は東都
 周辺まで侵掠した。

三月庚子,忠武軍節度使李光顏が吳元濟軍を臨潁等で破った。
 要は光顏が奮戦して侵攻軍を撃退したという程度である。

六月癸卯,強硬派の宰相武元衡が京師で入朝時に賊に襲われ殺害された。
 李師道や王承宗などが派遣した暗殺団が、強硬派の元衡や
 裴度を、入朝時に襲撃し元衡の殺害に成功した。京師は震駭したが、
 真犯人を捕まえることもできなかった。

乙丑,憲宗は強硬派の裴度を宰相とした。
 激怒した憲宗皇帝はあくまで成德征討を貫くことを示すため、
 負傷した強硬派の裴度を元衡の後任に登用した。

七月甲戌,武元衡殺害の犯人は王承宗とされ征討されることになった。
 真犯人は李師道の配下ではあったが、憲宗は承宗配下と思い込んだ。

丁未,淄青李師道の將訾嘉珍が東都で蜂起したが鎮圧された。
 東都の兵備が虚弱なことを知った師道は、乱を起こし唐朝を恫喝
 しようとした。なんとか鎮圧はでき、淄青李師道も討伐の対象と
 なった。

九月癸酉,宣武韓弘が淮酉行營兵馬都統となった。
 弘は敗北した嚴綬に代わり征討使となったが、消極的であった。

十一月壬申,李光顏、烏重胤が淮西軍を破った。
 侵攻してきた淮西軍を撃退した程度のものである。

十二月甲辰,武寧將王智興が淄青軍を平陰に破った。
 淄青李師道が徐州に侵攻したのを撃退。もちろんたいした勝利
 ではない。撃退程度である。
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元和九年 西暦 814 和暦 弘仁5年 

2020-02-10 10:01:35 | Weblog
二月癸卯,宰相李絳が解任された。
 絳は李吉甫や宦官勢力と激しく対立していた。絳がやめると宦官吐突承璀は
 ただちに神策軍中尉に復職した。唐朝の皇帝は宦官に育てられるために親近
 感が強い、反面その専権に対する怒りを持つという二面性を持つが、官僚達
 もまた信用できないグループであるため、結局宦官に依存する。

六月壬寅,名門貴族張弘靖が宰相となった。
 祖父嘉貞、父延賞と宰相が三代続く名門貴族である。それなりに有能である。

閏八月丙辰,淮西節度使吳少陽が卒し,子の元濟が自立した。
 少陽は兵備を整え、周辺を寇掠するなど反抗的な姿勢を示していたが、簒奪し
 た立場上すぐ反旗を翻すことはできなかった。淮西は強兵を擁していたが領地
 は貧しいため拡大傾向は強かった。

閏八月辛酉,河陽節度使烏重胤を懷州から汝州へ移した。
 東都を魏博節度から防禦する河陽軍を、対淮西征討のために移転させた。魏博
 田弘正への信任を示し、実戦能力を持つ河陽軍の転用を図っている。

九月丙戌,山東節度使袁滋を荊南節度,荊南節度使嚴綬を山東節度使へ交代。
 袁滋は統治には優れていたが融和派で淮西への征討に反対していた。

九月丁亥,山東節度使嚴綬が忠武軍李光顏、李文通、烏重胤を率いて淮西を討った。
 嚴綬は高名ではあるが軍才は無い、すでに河東節度でしくじっているが、他の
 光顏、文通、重胤等は新進で大将とはなれない。忠武軍は「山棚」などの山岳
 民を含み、唐朝としては強兵である。

九月丙午,宰相李吉甫が卒し、韋貫之が宰相となった。
 対吐蕃防衛では行き詰まり、淮西征討を主唱していた吉甫が死去した。貫之は
 融和派である。
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元和八年 西暦 813 和暦 弘仁4年

2020-02-09 10:00:24 | Weblog
正月辛未,宰相權德輿が解任された。
 宰相として李吉甫と李絳は論争することが多いが、文人德輿は能力不足で関与
 できず解任された。失脚したわけではなく以降も禮部尚書・東都留守と任用さ
 れている。

二月丁酉,宰相于頔が恩王傅に左遷された。
 頔は山東節度より入朝し、高位にはあるが実権はなにもないため、宦官梁守謙
 に贈賄して節度使に任命してもらおうとした。ところが詐欺師梁正言[守謙の
 親族と称した]や僧鑒虛に騙され、大金を巻き上げられただけに終わった。
 それを怒った子の敏が、正言の奴隷を残虐に殺害し遺棄したことが露見したた
 めである。また他の子季友[公主の婿]の不行跡も露見した。

三月甲子,西川節度使武元衡が宰相に復帰した。
 李吉甫が李絳との政争の援軍として復帰させた。
 
十二月庚寅,振武將楊遵憲が乱して、節度使李進賢を放逐した。
 憲宗は激怒して、夏綏節度使張煦に河東軍を指揮させ鎮圧させた。しかし内情は
 進賢が士卒を虐待し、遵憲をまともな資財を与えず派遣したことによる。
 実情を知る監軍は士卒に衣糧を与えて慰撫することを上奏したが処罰された。
 当時、対吐蕃防衛に設定された軍備は形骸化し、供給は諸将に横領され、將士は
 奴隷のような状態であった。宰相李絳はしばしば問題点を指摘して争ったが、
 神策軍を率いる宦官勢力は利権を貪って改善しようせず、李吉甫も絳との政争から
 宦官側についていた。
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元和七年 西暦 812 和暦 弘仁3年 2

2020-02-08 10:09:48 | Weblog
[河北三大藩鎭+淄青の特徴]
◎.幽州 奚や契丹や新羅という蕃族に接していて、交易で大きな利益を上げる反面、
 常に緊張状態を維持していた。そのため主帥である節度使は、幼少な者や無能な者
 は排除されていく傾向が強い。

◎.成德 有力蕃族騎兵軍の連合体の色彩があり、家系が重視される。幼少のものも
 許される。主帥の王氏は契丹系である。

◎.魏博 田承嗣が徴兵により編成した巨大な牙軍[親衛軍で代々継承している]が
 支配し、節度使の権力は強くない。無能な主帥の場合はすぐ軍乱が発生する。ただこ
 の時点では田氏が継続支配している。

◎.淄青 安史の乱に遼東半島にあった平盧軍が移動してきた高句麗系の軍閥。朝
 鮮系の李氏の統制が強い。牙軍はさほど力を持たず、富裕で安定している[唐朝に
 所属することを望んでいない]

魏博田懷諫は幼弱で、その臣蔣士則が専権し、唐朝も継承を保留したため、牙軍の
不満は増し、親族で信望が高い田興[賜名されて弘正]を擁立した。興は唐朝に従
う旨を上奏し承認を求めた。

宰相李吉甫・宦官梁守謙は、傍系である興をまず留後として遇し、牙軍の推戴をみ
て節度使にすることを提案したが、李絳は牙軍の推戴に関係なくいきなり節度使に
継承させることで興を感激させるべきと主張した。

甲辰,興[以降弘正]を魏博節度使とした。

十一月辛酉,裴度が魏博を宣慰し、軍士に厚賞を与え、六州の税を一年免除した。
 牙軍は喜び弘正の権威は確立した。成德や淄青の軍士は動揺することになった。
 この時淄青李師道は魏博へ干渉派兵を試みたが、宣武韓弘に威嚇されて断念した。
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元和六年 西暦 811 和暦 弘仁2年 

2020-02-07 10:02:28 | Weblog
正月甲辰,呉少陽が淮西節度使となった。
 成德征討に失敗した唐朝は少陽の自立を追認するしかなかった。少陽は積極的な反
 抗はしなかったが、協力しようともしなかった。

正月庚申,淮南節度使李吉甫が宰相に復帰した。
 やはりいろいろと問題はあるが剛腕の宰相がひつようであった。吉甫は自派の人材
 を次々と登用し、財政再建と対藩鎭強硬策をねりなおそうとした。

二月壬申,宰相李藩が罷免された。
 吉甫と合わない藩が排除された。

十二月己丑,吉甫派の李絳が宰相となった。

閏十二月辛亥,皇太子寧が卒した。

元和七年 西暦 812 和暦 弘仁3年 

六月癸巳,宰相杜佑が老齢により辞めた。

七月乙亥,遂王宥を皇太子とした。
 後の無能な「穆宗」である。しかし生母は元老故郭子儀の孫という名門
 なので選ばれた。

八月戊戌,魏博節度使田季安が卒し、子の懷諫が自立した。
 本来は魏博征討のチャンスではあるが、唐朝にはまだその力がなく、まだ
 11才の懷諫の自立を追認しなければならない状況であった。
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元和五年 西暦 810 和暦 大同5年 2

2020-02-06 10:07:03 | Weblog
七月乙卯,幽州節度使劉濟が、次子總に毒殺された。
 征討軍の中で唯一戦果を上げていた濟[中書令を加えられた]だが、長男緄に
幽州の留守を任せていた。次男總は側近と共謀して緄が自立して、唐朝もそれを
認めたという流言を巻き、狼狽した濟を毒殺した。そして緄をも反したとして殺
し自立した。

九月辛亥,吐突承璀は左軍中尉に復した。
 宰相官僚はその失策を弾劾したため軍器使に格下げになった。
 しかし憲宗のお気に入りである承璀はまもなく復位する。

九月丙寅,太常卿權德輿が宰相となった。
 文人としては優秀だが政略はなかった。

九月、義武軍節度使張茂昭は易定二州を唐朝に奉還し、一族を率いて入朝した。
 易定二州は貧しく、巨大藩鎭の間に自立していくのは困難であった。成德征
 討でも戦果を上げられず、その限界を感じた茂昭は、張氏の将来を唐朝に託
 した。成德・魏博両鎮は驚愕して制止しようとしたが、直前まで対立関係に
 あったため、義武牙軍に対する影響力が乏しかった。張氏一族は以降武官と
 して優遇された。

後任として文官の任迪簡が行軍司馬として赴任した。
 迪簡は徳人として有名であり、義武軍を撫したが、不満派の楊伯玉や,張佐元
 は蜂起して迪簡を捕らえた。しかし牙軍主流派は反乱軍を討った。やがて資
 財が到着し、將士を賞賜することができ迪簡は節度使に就任した。以降義武軍
 は唐朝からの供給を頼りとしその管轄下に定着した。易定二州が唐朝に入るこ
 とは成德王承宗にとって河東・昭義・義武の三方から包囲されることになり極
 めて苦しい状況にであった。

十一月庚申,宰相裴垍が疾により辞任した。
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元和五年 西暦 810 和暦 大同5年 1

2020-02-05 10:00:03 | Weblog
正月、幽州節度劉濟は自ら王承宗軍を討ち、深州饒陽、束鹿県を抜いた。
 河東、河中、振武、義武の四軍は定州に集合し成德へ侵攻しようとしていた。

丁卯,河東將王榮は洄湟鎮を抜く。
 征討が成功しているようだが、実情は宦官吐突承璀は統帥力がなく、敗戦が続き、
 実戦の大将である酈定進が敗死する状況であつた。

三月己未,以吳少陽を淮西留後とした。
 成徳征討が進まないので、二正面となる淮西征討は困難であったため。

昭義節度使盧従史は、成徳征討を主唱したにもかかわらず、承宗に通じていて
はかばかしい攻撃をしなかった。そのため承宗軍には余裕があった。怒った憲宗
は従史を解任し捕らえて京師に送らせた。

四月丁亥,河東范希朝、義武張茂昭軍は承宗軍を木刀溝に大破した。
 実情は、勝利はしたのだろうが大勢に影響なしである。

五月乙巳,従史の党である昭義軍三千餘人が魏州に逃亡した。
 征討どころではなく、ボロボロである。

幽州劉濟が深州安平県を抜いた。
 濟だけが着々と戦果を上げている。

七月庚子,王承宗が遣使して盧從史に全責任を押しつけて、表面上は謝罪した。
 淄青李師道なども取りなし、征討軍は敗北し、昭義軍は動揺しているので、
 宰相達は妥協を求めた。憲宗も含め強硬派は後退するしかなかった。

丁未,承宗を赦し、成德軍節度使とし、德棣二州も帰属させた。
 唐朝の完敗である。承宗は捕らえていた薛昌朝を釈放する条件だけであった。
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元和四年 西暦 809 和暦 大同4年 3

2020-02-04 10:02:52 | Weblog
当時の成德以外の方鎭の状態は以下のようである。

[自立藩鎭]
幽州 劉濟 唐朝を利用して南下し勢力拡大を図る
魏博 田季安 承宗を支援する、牙軍は強力だが本人に軍才はない
義武 張茂昭 唐朝方だが勢力は弱い
横海 程執恭 唐朝方、弱小で地理的に不利な状態。
淄青 李師道 承宗を支援するが、継承後でまだ不安定
宣武 韓弘 唐朝方、淮西や淄青を牽制はするが積極性はない
淮西 吳少誠 承宗を支援するが当時は病気で動きにくい。

[唐朝方鎭]
河東 范希朝 軍人.過大評価されている面がある。
河中 王鍔 軍人というより政將的色彩が強い
武寧 王紹 文官
昭義 盧従史 半文官.承宗に通じている
淮南 李吉甫 文官
西川 武元衡 文官
山東 裴均 文官.財政官僚

保義劉澭は二年十二月、邠寧高崇文は四年九月に卒している。

十月癸未,宦官である左神策軍護軍中尉吐突承璀が神策軍等の兵を率いて王承宗を征討へ。
 ろくな将軍がいない唐朝であるが、監軍ならともかく主将が宦官というのは、玄宗時代に反乱
 した諸蠻族を討った楊思勗以来である。当然官僚は騒然となり反対論が噴出した。
 しかし憲宗は押し切り、周辺の藩鎮に成德征討を下命した。

 魏博田季安は当然成德を支援し、幽州劉濟は討伐に協力する姿勢を見せた。

十一月己巳,淮西節度使呉少誠が卒し、麾下の將の吳少陽[少誠の親族ではない]が自立した。
 成德王承宗問題が解決しない間に、新たに淮西継承問題が勃発した。しかし少陽は少誠の親任
 が厚かったとはいえ、反唐的な少誠の子元慶を殺して自立したため、唐朝は微妙な立場となっ
 た。少陽も当然唐朝にすり寄る立場を示した。
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元和四年 西暦 809 和暦 大同4年 2

2020-02-03 10:05:47 | Weblog
四月、成德王承宗の継承問題の論議が本格化した。
 一般には宦官は唐朝を弱体化させたと言われているが、個々の利権はともかく集団としては寄生する
 王朝権力が強化されることを望み対藩鎭強硬派である。
 大荘園を所有する文官貴族は、戦乱を望まず融和派となる。宰相裴垍達は財政の悪化を怖れて継承を
 認めようとしたが、宦官の代表である吐突承璀は憲宗の意向もあって、討伐に積極的であった。そこ
 へ両端に通じた昭義軍節度使盧従史が、みずからの留任のためにと征討を唆した。

六月、朔方靈鹽節度使范希朝を河東節度使に移した。
 成徳征討の準備である。

八月、成德王承宗は徳棣二州を唐朝下にすることを願い継承を求めた。
 戦乱を嫌う宰相達、迷いのある憲宗、弱気になった承宗による妥協である。

九月、王承宗を成德軍節度恆冀深趙州觀察使、德州刺史薛昌朝[河北の旧相衛節度使薛嵩子、王士真の
 娘婿]を保信軍節度德棣二州觀察使とした。
 大鎮を分割する実利と、功績がある王氏一族を遇する妥協案であり、憲宗は不本意であるがこれで解
 決すると思っていた。

承宗德州に派兵、昌朝を捕らえ、朝命を奉ぜず。
 王氏一族はともかく、領州を失う牙軍は同ぜず、同様の処置を懼れる魏博節度使田季安の協力を得て
 拒命し反旗を翻した。
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元和四年 西暦 809 和暦 大同4年 1

2020-02-02 10:04:27 | Weblog
二月丁卯,凡庸な宰相鄭絪が解任されて閑職の太子賓客となり、強硬派の李籓に代わった。
 
元和四年三月
乙酉,河東節度使嚴綬を左僕射とし、鳳翔節度使李鄘と交代させた。
 長期間在任して宦官に頤使されていた綬を、文官強硬派の李鄘に交代させた。河東は昭義節度使
 と並び河北収復への策源地である。

三月乙酉,成德軍節度使王士真が卒し、子の承宗が自立した。
 士真は父武俊(朱滔を破る大功があり、中書令になった)が卒したとき、既に徳棣觀察使として
 任用されていて、その継承は当然であった。しかも士真は堅実に統治し唐朝にも融和的であった
 ので在職中はゆるぎなかった。しかし強硬派が主流となり、西川・浙西問題も解決した唐朝は承
 宗への継承をなかなか承認しようとはしなかった。

閏三月丁卯,憲宗長子の鄧王寧を皇太子とした。
 寧は即位できず元和六年十二月に卒した。賢愚は不明。

閏三月辛未,帰服してきた勇猛な沙陀族を河東軍に配属した。
 沙陀は突厥の一族でその崩壊後、吐蕃に帰属していたが、勇猛なため常に先陣に酷使されることに
 不満を持ち、途次多くの犠牲を払いながらも唐朝に亡命してきた。この配属により河東騎兵軍は飛
 躍的に強化された。唐末 李國昌・克用などが活躍し五代の「後唐」の基になった。
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元和二年 西暦 807 和暦 大同2年 2

2020-02-01 10:00:45 | Weblog
十月丁卯,宰相武元衡が門下侍郎平章事西川節度使として赴任した。
生粋の軍人高崇文は西川節度使になったが、文盲でもあるので典礼や文治に辟易し、辺境の防衛に
戻してくれることを請願した。西川の順地化は唐朝の急務であるので信任厚い元衡を派遣して統治
させることとした。単なる宰相解任ではなく現役の門下侍郎を付帯した使相という形をとった。
崇文は対吐蕃前線の同平章事邠寧節度使諸軍都統として優遇された。

元和三年 西暦 808 和暦 大同3年 1
九月庚寅,山東節度使于頔が司空同平章事として入朝した。
反抗的な淮西吳少誠と隣り合う山東節度使として德宗時代には横暴を極めた頔だが、憲宗に代わり、
劉闢・李錡が討伐され、伊愼や韓全義が入朝するのをみて不安を感じた。そして子季友が憲宗の公主
(娘)と結婚することを期に帰朝することとした。位階は高いが実権のない宰相職として遇せられる
ことになった。代わって山東にには実務派の財政官僚裴均が赴任した。

十一月戊戌,宰相李吉甫が中書侍郎平章事淮南節度使として赴任した。
吉甫は有能であり、強硬派として憲宗の親任は厚かったが、他の宰相等との折り合いが悪く問題を
生じていた。そこで李錡後の江淮地域の安定のため派遣されることになった。元衡の例で現役待遇
である。後任宰相には裴垍があてられた。

淮南節度使として巨富を築いた王鍔が入朝し、贈賄して宰相となることを求めたがならず、河中節
度使に転じた。

十一月甲午,橫海軍節度使程執恭が入朝した。
義武張茂昭についで二人目であり、唐朝の河北への影響力が増大していった。

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