十月辛未,唐鄧節度使李愬は淮西の張柴柵を陥した。
將士達は単なる通常の偵察戦と思っていた、愬はそこで呉元濟の本拠地
蔡州を襲撃すると布告した。唐朝軍にとって三十年以上も不入であった
蔡州への進攻と聞いて、監軍以下の將士は戦慄したが、愬の威權は確立
しており従うしかなかった。降将李祐の先導により極寒の中進軍した。
十月癸酉,李愬克蔡州。
主力を董重質に任せ、裴度軍と対峙していた淮西は、蔡州城にはわず
かな守兵しかおらず、容易に呉元濟を捕えることができた。
落城を聞いた董重質は愬に降り、忠武李光顔は対峙していた勇猛な淮
西軍を慰撫して接収し自軍に加えた。
十月辛巳,裴度は淮西節度使として蔡州に入り、軍民を赦した。
淮西経済は長年の戦乱により疲弊していて、唐朝の慰撫にしたがい帰
順することになった。
十月、淮南節度使李鄘が宰相に任用された。
李鄘は宦官吐突承璀の推薦であることを聞き喜ばなかった。
十二月壬戌,裴度は凱旋し、馬總が淮西節度使となった。
その後淮西節度使[蔡光申三州]は解体され、蔡州は忠武、光州は
淮南、申州は鄂岳へと分離された。淮西の再結集を懼れての處置で
ある。
將士達は単なる通常の偵察戦と思っていた、愬はそこで呉元濟の本拠地
蔡州を襲撃すると布告した。唐朝軍にとって三十年以上も不入であった
蔡州への進攻と聞いて、監軍以下の將士は戦慄したが、愬の威權は確立
しており従うしかなかった。降将李祐の先導により極寒の中進軍した。
十月癸酉,李愬克蔡州。
主力を董重質に任せ、裴度軍と対峙していた淮西は、蔡州城にはわず
かな守兵しかおらず、容易に呉元濟を捕えることができた。
落城を聞いた董重質は愬に降り、忠武李光顔は対峙していた勇猛な淮
西軍を慰撫して接収し自軍に加えた。
十月辛巳,裴度は淮西節度使として蔡州に入り、軍民を赦した。
淮西経済は長年の戦乱により疲弊していて、唐朝の慰撫にしたがい帰
順することになった。
十月、淮南節度使李鄘が宰相に任用された。
李鄘は宦官吐突承璀の推薦であることを聞き喜ばなかった。
十二月壬戌,裴度は凱旋し、馬總が淮西節度使となった。
その後淮西節度使[蔡光申三州]は解体され、蔡州は忠武、光州は
淮南、申州は鄂岳へと分離された。淮西の再結集を懼れての處置で
ある。