唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和五年 西暦 810 和暦 大同5年 2

2020-02-06 10:07:03 | Weblog
七月乙卯,幽州節度使劉濟が、次子總に毒殺された。
 征討軍の中で唯一戦果を上げていた濟[中書令を加えられた]だが、長男緄に
幽州の留守を任せていた。次男總は側近と共謀して緄が自立して、唐朝もそれを
認めたという流言を巻き、狼狽した濟を毒殺した。そして緄をも反したとして殺
し自立した。

九月辛亥,吐突承璀は左軍中尉に復した。
 宰相官僚はその失策を弾劾したため軍器使に格下げになった。
 しかし憲宗のお気に入りである承璀はまもなく復位する。

九月丙寅,太常卿權德輿が宰相となった。
 文人としては優秀だが政略はなかった。

九月、義武軍節度使張茂昭は易定二州を唐朝に奉還し、一族を率いて入朝した。
 易定二州は貧しく、巨大藩鎭の間に自立していくのは困難であった。成德征
 討でも戦果を上げられず、その限界を感じた茂昭は、張氏の将来を唐朝に託
 した。成德・魏博両鎮は驚愕して制止しようとしたが、直前まで対立関係に
 あったため、義武牙軍に対する影響力が乏しかった。張氏一族は以降武官と
 して優遇された。

後任として文官の任迪簡が行軍司馬として赴任した。
 迪簡は徳人として有名であり、義武軍を撫したが、不満派の楊伯玉や,張佐元
 は蜂起して迪簡を捕らえた。しかし牙軍主流派は反乱軍を討った。やがて資
 財が到着し、將士を賞賜することができ迪簡は節度使に就任した。以降義武軍
 は唐朝からの供給を頼りとしその管轄下に定着した。易定二州が唐朝に入るこ
 とは成德王承宗にとって河東・昭義・義武の三方から包囲されることになり極
 めて苦しい状況にであった。

十一月庚申,宰相裴垍が疾により辞任した。
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