四年六月戊申,宰相魏扶が卒し、崔龜從が宰相となった。
八月,幽州盧龍軍亂,逐其節度使張直方,衙將張允伸自稱留後。
旧唐書・通鑑では三年十一月であり、立ったのは張允伸ではなく、周綝
が嗣ぎ、綝が卒したのが四年九月で跡を継いだのが允伸である。
十月辛未,令狐綯が宰相となった。
宣宗の信任が厚く昇進が早い、白敏中も既に穴を掘られる立場である。
十一月,黨項羌が邠寧を侵した。
当時、神策軍人上がりの辺境の節度使達は、貪欲であり辺境の部族を収奪
するものが多かった。親衛軍である神策軍は宦官達が食いものにして、京
師の富裕層[商人達]から収賄して編成していたので形骸化し、ただ利得
を求めたり、徴税を逃れる連中で構成され。出身の節度使達も贈賄により
任命されるのが当たりまえだった。辺境民達は不満が蓄積していた。
五年三月,宰相白敏中為司空,招討南山平夏黨項行營兵馬都統。
憲宗時代の裴度の淮西征討にならったが、所詮二度目は茶番である。
令狐綯等が敏中を追いはらうために画策したものだろう。
敏中は出征中に鄭顥に讒言されることを懼れて、宣宗に申し出た。宣宗
は上奏箱を示した。そこには既に顥から敏中批判の文書が山積していた。
四月,赦平夏黨項羌。八月乙巳,赦南山黨項羌。
本気で征討などしなくても、節度使達の不正な処置を止めることを約束
するだけで、黨項達は歸順するのである。もちろんこの後もろくな節度
使はおらず長く不安定は続いた。平定後も敏中の中央復帰は阻止され、
十月西川に転出させられた。
十月,沙州人張義潮以瓜沙伊肅鄯甘河西蘭岷廓十一州歸唐朝。
安史の乱で吐蕃に奪われた河西・安西節度使領域が帰順してきた。現地の
豪族達の君主替えにすぎず、唐朝の治政が及んだわけではない。歸義軍節
度使が沙州に置かれ義潮が任ぜられた。
十月,戊辰,魏暮が宰相となる。
またまた唐初の魏徴の末裔である。宣宗は名家の末が好きである。ただや
はり末は二流でしかないのが実情であった。
八月,幽州盧龍軍亂,逐其節度使張直方,衙將張允伸自稱留後。
旧唐書・通鑑では三年十一月であり、立ったのは張允伸ではなく、周綝
が嗣ぎ、綝が卒したのが四年九月で跡を継いだのが允伸である。
十月辛未,令狐綯が宰相となった。
宣宗の信任が厚く昇進が早い、白敏中も既に穴を掘られる立場である。
十一月,黨項羌が邠寧を侵した。
当時、神策軍人上がりの辺境の節度使達は、貪欲であり辺境の部族を収奪
するものが多かった。親衛軍である神策軍は宦官達が食いものにして、京
師の富裕層[商人達]から収賄して編成していたので形骸化し、ただ利得
を求めたり、徴税を逃れる連中で構成され。出身の節度使達も贈賄により
任命されるのが当たりまえだった。辺境民達は不満が蓄積していた。
五年三月,宰相白敏中為司空,招討南山平夏黨項行營兵馬都統。
憲宗時代の裴度の淮西征討にならったが、所詮二度目は茶番である。
令狐綯等が敏中を追いはらうために画策したものだろう。
敏中は出征中に鄭顥に讒言されることを懼れて、宣宗に申し出た。宣宗
は上奏箱を示した。そこには既に顥から敏中批判の文書が山積していた。
四月,赦平夏黨項羌。八月乙巳,赦南山黨項羌。
本気で征討などしなくても、節度使達の不正な処置を止めることを約束
するだけで、黨項達は歸順するのである。もちろんこの後もろくな節度
使はおらず長く不安定は続いた。平定後も敏中の中央復帰は阻止され、
十月西川に転出させられた。
十月,沙州人張義潮以瓜沙伊肅鄯甘河西蘭岷廓十一州歸唐朝。
安史の乱で吐蕃に奪われた河西・安西節度使領域が帰順してきた。現地の
豪族達の君主替えにすぎず、唐朝の治政が及んだわけではない。歸義軍節
度使が沙州に置かれ義潮が任ぜられた。
十月,戊辰,魏暮が宰相となる。
またまた唐初の魏徴の末裔である。宣宗は名家の末が好きである。ただや
はり末は二流でしかないのが実情であった。