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第35期飛行学生戦闘機班

2011-02-21 | 海軍
「大野中尉の画像発見」に続く
「文句があるなら俺に言え!」シリーズその2です。タイトルはたった今作りました。

光人社刊の「写真 大空のサムライ」には、この笹井中尉を含む戦闘機班の集団写真が掲載されています。
しかし、笹井少尉と林谷忠少尉を除いて名前が書いてありません。


そこで!
「わかったからそれがどうしたシリーズその2」でもあるのですが、全員の名前を特定することにいたしました。
結果は・・・写真を載せられないのがつらいところですが、もしお持ちの方は見比べて
エリス中尉のこの人物特定が正しいかどうかチェックしてみてください。

いや、興味がある方だけで結構です。

しかし、この写真を見ながら一人一人の絵を描いているとき、マフラーの巻き方、飛行服の襟の開け方、
軍帽のかぶり方、そして同階級の集団写真で「どこで写真を撮られるか」・・・
一人一人の性格が断片的に伝わる人物像とあいまって、色々と妄想をたくましくしていたのですが。

このなかで貫禄たっぷりの荒木少尉(少尉の階級章が似合っていない・・・)、
ど真ん中でまるで教官を囲む学生のような構図に見えてしまっていますが、この荒木少尉は、おそらく
この中でハンモックナンバーは一番上の秀才でした。(15分隊の伍長だった)
頼もしいリーダー格だったのかもしれませんね。

この荒木少尉が南太平洋の空戦で不時着し海中を漂流していたとき、見張りが
「敵搭乗員が漂流している」と報告するのをたまたま67期の駆逐艦の時津風水雷長が双眼鏡で見ると
それはクラスメートの荒木中尉で、慌てて救出した、ということがあったのですが、見張り員には
その彫りの深い顔立ちと長髪がアメリカ人に見えたのだそうです。

そして、思ったことをぽんぽん言ってしまう多芸多才の川真田少尉も、ちゃんと前列真ん中に。
控えめで穏やかな性格だったと云われる林谷、川添、
そして自分がハンサムでMMであることを「全く自覚していなかった」山口(定夫)、
この辺りの学生の占める位置も、妥当な気がします。

飛行服の着こなし一つでも見えてくる雰囲気はあって、
きっちりボタン全部止め・・・川添、林谷、荒木、山口(馨)
さりげなく第一ボタンをはずしマフラーを目立たせる・・・川真田、渋谷、岩崎
ボタンをはずしなおかつ襟を立てる・・・・笹井

と・・・まあ、これをどう性格に結び付けるかは皆さんの判断に任せるとして。




以前川真田中尉を確定した後、どなたからも異論が出なかったので、おそらくこれは正しいものと断定。

あとは、何枚か残る、台南空や兵学校時代の写真と見比べて確定しました。
航空隊所属と戦死の状況も掲載しました。

右端から順に参ります。

馬場政義   3空→22空→鹿屋空
       昭和17年10月23日
       ガダルカナル攻撃の際敵戦闘機と交戦、戦死

渋谷清治   台南空→元山空→252空→築城空→204空
       昭和18年1月23日
       ソロモン諸島コロンバンガラ島北東10マイルの海上上空にて敵機と交戦、戦死

川真田勝敏  台南空→6空→204空
       昭和17年11月3日
       ガダルカナル島よりショートランド島に向かう輸送船団上空哨戒中、
       チョイセル島北東30マイルにおいて悪天候のため雲中に入り行方不明、戦死認定

山口馨   呉空→台南空
       昭和17年5月17日
       ポートモレスビー攻撃の際、同地上空の戦闘中戦死

笹井醇一   台南空
       昭和17年8月26日
       ガダルカナル攻撃中、攻撃掩護のためラボウル発ガダルカナル上空にて空戦戦死

荒木茂   大分空教官→春日丸乗組→瑞鶴乗組
       昭和18年11月11日
       ラボウル航空基地上空にて邀撃(ようげき)戦に参加、戦死

栗原克美   横須賀空→千歳空
       昭和17年7月20日
       ポートモレスビー攻撃後ラボウル帰還中天候不良のためクレチン岬附近にて行方不明、戦死認定

川添利忠   3空→582空→大村空分隊長兼教官→第三艦隊司令部附→601空
       昭和19年6月19日 
       中部太平洋にてア号作戦第一機動部隊第一攻撃隊として大鳳発進、
       全員突撃せよと下命後消息不明、戦死認定

岩崎信寛   大分空附兼教官→24空司令部附→4空
       昭和17年3月14日
       ニューギニア ホーン島空襲の際、敵戦闘機と交戦、戦死

山口定夫   3空→202空→204空→横須賀空分隊長兼教官
       昭和19年7月4日       
       硫黄島基地来襲の敵グラマン戦闘機と交戦、戦死

林谷忠    佐世保空→4空→1空→台南空
       昭和17年8月8日
       ツラギ在泊敵船団雷撃陸攻隊掩護中敵と交戦、戦死
 


かれら兵学校67期は、戦闘機専修生がそれまでの数人から11人に枠が広げられたクラスでした。
その11人に選ばれた彼らは、飛行専修学生のなかでも、特に戦闘機を熱望していたメンバーです。

遠洋航海後霞ヶ浦航空隊附発令後、土浦で約一か月、67期飛行学生は航空実習に励むのですが、
この間「なぜか行われた」(学生談)希望調査で、戦闘機志望に対し
「否」中には「大熱否」を書いたものがありました。
これに怒った先輩の大尉、中尉クラスに卒業後初めて全員が鉄拳を食らった、という話があります。

しかしその中で彼ら11人は(そして受け入れられなかった何人かは)そのなかでも
「熱望」であったわけです。
(でも彼らも殴られたんですね(T_T)
専修が決定した瞬間、中でもおそらく「大熱望」と書いたに違いない笹井少尉が小躍りして喜んでいた様子を
ある級友が書き遺しています。
(そんな笹井少尉も殴られたんですね(T_T)

あ号作戦で戦死した川添少尉はどちらかというと闘志満々の精悍なタイプの多い戦闘機よりのんびりした雰囲気で
「中攻向きに思われ」、戦闘機にきまったときは皆が以外に思ったそうです。
しかし、熱烈な戦闘機志望とまではいかないものの専修発表のときは「にやにやと嬉しそうだった」。
内心は密かに期していた様子だったということです。



67期は卒業後わずか一年三カ月で中尉に進級。
このスピード進級を彼らは「蒋介石進級」と称していました。
(スピード出世に引っ掛けたものでしょう)
飛行学生になったものは、二手に分かれ、その先発隊がこの35期です。
艦載機操縦専修が慎重を期すためと思われますが訓練中にもかかわらず、かれらは前線に赴きます。

67期で航空関係最初の戦死者になったのが左より三人目前列の岩崎中尉(昭和17年3月14日)です。
父上が「名もなき死にざまでは浮かばれませぬ」と嘆くのを、同級生が
「ネイビーであることを誇りにしていた岩崎君はクラスのホープだった」と慰めたそうです。

山口馨中尉の最後は「大空のサムライ」にも描かれています。
空戦中被弾した機でオーエンスタンレー山脈を越えることができず、山中に不時着したのですが、
公式の戦死状況は「戦闘中戦死」となっています。
「空戦中戦死」の扱いの方が本人と遺族にとって良であるという配慮から、
台南空の司令部がそのように戦死の公報を作成したものだったかもしれません。


そして、19年7月4日の山口定夫大尉を最後に、終戦まで一年を待たずクラス全員が戦死しました。