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嶋田大将の最後の戦い その2

2011-02-25 | 海軍

嶋田大将は、この裁判において共同謀議、対米、対中、対英、対蘭全ての訴追に対し有罪で、
当初から極刑になるのは間違いないと言われていました。

開戦に至るまで、単純に言うと暴走する陸軍に拮抗する意味での海軍の存在は、
政治への干渉を良しとしない「沈黙の海軍」としての立場が逆手に取られたとも言え、
平時は美徳であったこれらの体質が、陸軍の暴走が始まったとき、歯止めになり得ませんでした。

嶋田海相は海軍の不戦論を資源調達のため撤回し、東条陸将の陸軍に
「(東條陸将の)嶋田副官」とか「東條のの男妾」とまで言われるほどの協調をみせ、
開戦に同意したということになっています。
 
つまりこの裁判における訴追原因の1、「共同謀議」です。

しかしながら実態は当時の日本上層部に、訴追側のいうように「世界侵略を共謀した」
と言えるほどの意見の統一があったのでしょうか。
良くも悪くも日本はドイツやイタリアのように独裁政権ではなかったのです。

ナチと一緒に挙国一致。超党派的に侵略計画を立てたという。
そんなことはない。
軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ南だと国内はガタガタで、
おかげでロクな計画もできず戦争になってしまった。
それを「共同謀議」などとはお恥ずかしいかぎりである。



この賀屋興宣元大蔵大臣の証言が、そもそも戦犯として国家指導者を裁くことの矛盾を物語っています。


さて、この軍事裁判には、開戦時軍令部総長で、真珠湾攻撃の最高責任者であった永野修身海軍大将も
いわゆるA級戦犯として出廷しています。


居眠りの名人と言われ、「目から出血するほど」眠ったという永野元帥が審判の最中獄中で病死して以降、
嶋田大将は、海軍の名誉は自分の発言に、さらに言えば自分の一人の双肩にかかっているということを
強く感じていたもののようです。


真珠湾攻撃の通告が一時間前の予定であった(が事後通告になってしまった)ことについての
真偽を問う個人反証段階で、この嶋田大将と当時の外相であった東郷茂徳が
法廷で激しくぶつかり合いました。

この東郷被告の供述書は軍人はもとより文官被告の間でさえ
「自分の立場だけを主張し過ぎ」として眉を顰める者さえいました。
鈴木企画院総裁のごときは
「自己の責任を他人に転化するの心事、実に劣等なり。
彼は元来朝鮮人の帰化人の種とて・・・」
と、口をきわめて東郷をこき下ろしています。


まず、奇襲を最初から予定していたのではないかという検事の質問に対し、
嶋田大将はこのように強く述べています。

「帝国海軍は伝統として国際法を順守することを日露戦争以来の誇りとしております。
我々は国際法を破って敵の裏をかくようなケチな考えは毛頭持たない。
永野、伊藤(軍令部総長)はもとより、その他の誰からも、海軍の誰からも、
そんな汚い考え方を持ったのを聞いたことがありません」

これに対して東郷は
「海軍は真珠湾を最初から奇襲しようとしていた、
自分の責任を逃れるつもりはないが、効果をあげるためにぎりぎりまで日米交渉を続けることを要求され、
しかも、永野、嶋田の両人が裁判開廷中奇襲について口外するなと脅迫をした」
と証言しました。
これを聞いたときの嶋田大将の怒りはすさまじいものでした。

「私どもは奇襲を口外するなと言ったことはなく、
間違った点を正すという意味で注意したのであって、
脅迫などというバカげたことを言い出すのは
よほど彼自身にやましい点があるからでしょう」


ここで、嶋田大将、海軍ならではの皮肉を繰り出します。
東郷は自分が助からんがために法廷で虚偽の申し立てをしたのか、という検察の問いに答えて
「彼は、外交的手段、つまりイカが墨を吐いて逃げる手段を使ったのです」


嶋田大将は東郷元外相の「脅迫」発言の後、しばらくこれについて熟慮するようでしたが、
ことは海軍の名誉にかかわることと判断し、個人反証終了後になって特別に発言を求めたということです。

個人弁護といえば、冒頭にも書いたとおり嶋田大将の極刑は、早い段階から東條英機と並んで
想像されていました。
訴追原因も最初から一つも除外されませんでした。
しかし各国判事による投票結果は5対6。
わずか一票差です。

死刑賛成国は英、中、フィリピン、ニュージーランド、オランダ。
反対国は米、カナダ、オーストリア、ソ連、フランス、インド。
このうち豪、ソ、仏、印4カ国は全員に死刑反対を唱えていたので、
アメリカの死刑反対が彼の運命を決したということです。
真珠湾攻撃が奇襲でなかった、と嶋田大将が表明したこととこの結果は無関係でしょうか。


東條のように最初から結果が決まっていた被告は別として、
裁判の流れによって命を「拾った」被告もいました。
それが嶋田大将で、嶋田大将が極刑を逃れた原因の一つが、
反証段階のこの対東郷を含む弁論の論理の明快さにあったからと言われています。


その供述は裁判長のウェッブ卿を感心させ、それを人づてに聞いた嶋田大将は
嬉しかったと素直に語っています。


海軍内で「ズべ」(ズべる、というのは海軍隠語で「サボる」と同意)とあだ名され、
形式主義者で、情報収集力に問題アリと、なにかと人物評価の低い嶋田大将ですが、
よく言えば質素で生真面目、悪く言うと融通の利かない面白みの無さのせいでしょうか。

この裁判での大将を見ていると、勲章を付けた肖像写真の頃よりすっきりとスマートで、
どうやら背広も超一流の仕立てであるらしく、軍服の陸軍グループより文官に近い雰囲気を放っています。
阿川弘之の「井上成美」に

「海相兼軍令部総長時代、海軍兵学校の生徒に訓示をする機会があって、
参謀飾緒なしで海相訓示をした後いったん引っ込んで、
参謀飾緒を付けて出直してきて軍令部総長訓示を行なった」
というものがあり、これが大将の形式主義を表わすエピソードとなっています。

なんだか「お洒落」とか「お茶目」とか「TPO」なんて言葉が浮かんできて微笑ましい気がするんですが。
こういうヒト、個人的には嫌いじゃないんですが、ダメですかね。


祖国の戦争突入のときに海軍大臣でそれを決断する立場にあったというのは、
この頭抜けた人望を持つともいえない大将にとって、
ある意味星の巡りあわせの悪さ以外の何物でもない、という不運を感じます。

さればこそ嶋田大将にとって、東京裁判で「帝国海軍の名誉」のために証言した、というのは
まだしも海軍軍人として以て瞑すべしというものだったのかもしれません。
真珠湾攻撃の通告の遅れが大使館の不手際によるもので、それが意図した奇襲ではなかったことが
この裁判を通じて証明されることになったからです。



大将は、海軍軍人として、自分の生命と海軍の名誉をどちらも守る最後の戦いに、
つまり勝利したのだと言ってもいいのではないでしょうか。





参考:東京裁判 児島譲 中公新書
   秘録 東京裁判 清瀬一郎 中公文庫
   井上成美 阿川弘之 講談社