嶋田繁太郎、海軍大将。
日露、日清、そして大東亜戦争に従事し、第二次世界大戦開戦時の海軍大臣として極東軍事裁判、東京裁判で戦犯として起訴される。
終身禁錮刑の判決を受け、1955年まで7年間服役後仮釈放され赦免。
1975年死去。
児島譲著「東京裁判」は高校生の頃最初に読んでから何度か買い替えて手許にある文字通り座右の書ですが、
小林正樹監督作品の映画「東京裁判」は、それに実写映像のついた、まさに目で見る歴史フィルム。
画像はその「東京裁判」で、証言台に座る嶋田繁太郎元海軍大臣です。
「東京裁判のことなら何でも聞いて!」
というくらい高校生時代から「東京裁判おたく」を自称するエリス中尉。
やはり耳目を奪われるのは廣田弘毅であり、東条英機であり、
あるいはキーナン検事、ウェッブ裁判長、そしてパル判事といった「裁く側」の人間だったのですが、
海軍に興味を持って以降、もう一度本を読みなおし、映画を見て、
今回は嶋田大将と永野修身元帥に注目することにしました。
「東京裁判史観」という言葉が昨今でこそ公に語られるようになったのですが、東京裁判開廷当時は日本国の誰も
この国が今後どうなっていくかなど思いもよらず、ただ戦争によって受けた自らの痛みを「誰かのせい」にすることで
やり場のない怒りを昇華させようとしていました。
映画「東京裁判」では、当時の裁判後半の様子をニュースで伝えるアナウンサーの言葉には
国民の怨嗟すら感じさせる響きがあります。
「東京裁判はいよいよ問題の核心に迫りました。
日本侵略主義者の驚くべき陰謀が今まさに明るみに出ようとしています!」
シリアスなクラシックの効果音とともに不安をあおるような語調。
この響きを聞いて、北朝鮮の岩石のようなおばはんアナウンサーが
「パンニハムハサムニダ!」
と怖ろしい声で唸っているあの映像をつい思い浮かべてしまうのはエリス中尉だけでしょうか。
昨日までやれ一億玉砕だ軍神だと戦争を煽っていたマスコミが、一夜にして手のひらを返したように
戦勝国の側に立って「戦争犯罪人」を糾弾していることの不思議さに何とも言えない気持ちです。
しかし、こういう感慨も歴史を知るものからは何とでもいえるわけで、当時の人々は、
裁かれる「戦争遂行者」たちはもちろん、これからの自分たちの運命など予想することすらできなかったのです。
戦争に勝った者が負けた者を裁く。
この、世紀の茶番ともいえる裁判を当初から
「復讐にすぎない」
とし、さらにそこで裁かれることを潔しとせず自決した人たちがたくさんいました。
杉山元陸軍大将。(司令部で拳銃自殺)
小泉親彦陸軍軍医中将。(自邸の茶室で自刃)
橋田邦彦文相。(青酸カリを含み「さあ出かけましょう」と靴をはきかけたところで絶命)
近衛文麿元首相。(自宅で服毒)
そして東条英機。
撃った弾はかすかに心臓をそれたのですが、このため東条元首相は
「自決もできない男」
という悪意のある雑言を国民からも浴びせられます。
そして、本日の話題、嶋田繁太郎大将の逮捕の日がやってきました。
「トウジョウ・ショック」はごめんだ、不祥事を防止するため全力を挙げよ、と指示を受けていた米官憲が
そのためにしきりにせきたてると
”Be quiet. I don't suicide."(静まれ、自殺はしない)
と一喝しました。
嶋田大将は前日の東条自決を知っており、スーツケースに着替えと手回り品を入れて官憲を待っていたのでした。
この裁判に出廷し、証言することが軍人としての最後の戦いになる、
と嶋田大将は覚悟を決めていたものと思われます。
わけても自分のこの裁判における一挙一動が海軍そのものの名誉を負うものだと自覚していたのでしょう。
戦犯指名された元指導者たちは、当初横浜刑務所に収監されました。
ここでの待遇は被告たちが眼を見張るほどのものでした。
「ホットケーキは何枚でも食べろ、蜂蜜もたっぷりかけろ、ハムエッグは出るしコーヒーは飯合でお代りをくれる。
20人くらいだから別扱いも面倒なので米軍の兵食を出しただけなんだが・・・」
その後彼らは大森刑務所に移ります。
横浜刑務所に比べ一段劣るとはいえ、要求すればある程度のことは叶えられる生活だったそうです。
ここでリーダー格だったのが嶋田大将でした。
おそらくこれは英語が喋れることに加え、性格でもあったのでしょう。
米軍側のものであった横浜刑務所と違い、大森刑務所はバラック建てで
食事は日本側の賄いによるものでしたから被告たちは当初こそ失望したのですが、
始まってみればそれほど悪いものではなく、嶋田大将が(←注目)要求すると、
床の張り替え、明るい電灯との交換、風穴ふさぎなど、看守は何でもやってくれました。
ここで大将を満足させたのは、なんといっても軍人がその敬称で呼ばれたことでしょう。
呼ばれただけでなく、待遇そのものも階級に応じました。
嶋田大将は、なんと机、椅子をそなえた二畳の小部屋を割り当てられ、他の将官も一人部屋を与えられます。
佐官以下、閣僚以外の文官は雑居でした。
高級軍人が優遇されたのは
「管理人の米軍人たちが、日本軍の戦闘における実力をよく知っている歴戦の勇士であったからだろう」
というのが嶋田大臣の解釈です。
日本軍の実力に敬意を表して、というのは嶋田大将の自負に基づく希望的観測にすぎず、
もしかしたら単にアメリカ側は規定通りに扱っただけだったのかもしれませんが、
この言葉からは、大将が海軍そのものを背負って牢獄の中ですら気負っているらしいのが
うっすらと見えるような気がします。
嶋田海相(当時)は開戦前、不戦論を撤回し、陸軍に同調したため、海軍内で
「東条の茶坊主」「東条の男妾」などといわれます。
先日竹槍事件の項でさんざん語った映画「軍閥」の中では、血気にはやる海軍軍部の若手将校たちが
「嶋田を切る!」と叫ぶシーンがあります。
そんな元将校たちにすれば、あのとき陸軍に協力なぞするから今頃戦犯として引っ張られるんだ、
と言ったところだったでしょうか。
ともあれ、嶋田大将はこの裁判を遂行することによって、海軍軍人として海軍の名誉を守ったのち、
堂々と死ぬつもりでいたようです。
新聞記者のインタビューに対し
「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、
この日が来るのを心静かに待っていた」と語ったということです。
実際の裁判における嶋田大将の戦いについては後半にお話しします。