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竹槍事件~陸海軍の確執

2011-02-03 | 海軍

昭和19年年2月23日。

竹槍を持って戦えと国民にはっぱをかける東条首相の声明記事と並べて
敗戦の真実を告げ、さらに「竹槍では戦えない」というタイトルを付けた
毎日新聞社の新名記者に激怒した東条首相は、この一個人を戦争に召集しました。

つまり気にいらない意見を具申する部下に対してしばしば行っていた、
前線においやるという「懲罰人事」を行ったのです。

本日画像は、先日画像メイキング説明の日に使った加山雄三扮する
映画「軍閥」の新井五郎記者。
勿論毎日新聞の新名丈夫記者がモデルです。
今日は、この新名記者をめぐって海軍と陸軍が壮烈な争いを演じた
「竹槍事件始末」についてお話しします。

新名記者は当時37歳。
大正15年、二十歳のとき徴兵検査で近視のため不合格になり、
一度は兵役免除の扱いになっていました。
映画での加山雄三は、二枚目俳優にもかかわらずまるで牛乳瓶の底のような度付き眼鏡をかけ、
兵役免除になるくらいの近視だったという荒井記者のリアリティを出しています。
加山雄三が近視だったという話はあまり聞かないのですが、
これはまじもんで度がきつい眼鏡ですね。

このような者に、それもたった一人を対象に召集令が下るというのは異常な事態で、
すぐさま海軍は新名記者を救おうと動きました。

昨日記事に書きましたが、海軍がたとえトラック島が殲滅したことを公表されても
世間に訴えたかった「飛行機が足りない」という一事を書いてくれた記者を
むざむざ前線にやるわけにはいかない、これは海軍の意地であり、
新名記者に対する感謝の印でもあったようです。

海軍が取った措置は、陸軍の召集令より遡った日付で新名記者を海軍報道班員に徴用し、
パラオに送るというものでした。
しかし、陸軍は

「こちらの召集令の方が優先される」

とそれに肯じません。
陸海軍の間に埒のあかない論争が巻き起こり、新名記者の取り合いとなります。

「どうせ陸軍に取られるくらいなら海軍省内で白昼自刃せよ。
問題を天下にさらけだすのだ」


といきり立つ士官。

「新聞記者に腹を切らせて何になる。
それより報道班員として前線に行ってペンを手にして華々しく死んだ方がいい」

と反対する士官。

中央で埒があかないので、海軍は、新名記者の故郷である高松の地方人事部長レベルで
海軍担当から陸軍担当者に申し入れをし、いったんは召集を解くことに成功しました。

しかし、帰京しようとした新名記者に再び中央から再招集がかかるのです。

どちらも意地になっていたとはいえ、一個人に対しここまで徹底的な報復を図る陸軍の、
いや東条英機という男の執念深さには―これをもって彼を全否定するものではありませんが―
背筋が寒くなるではありませんか。

すぐさま海軍は陸軍にねじ込みますが、陸軍には中央から

「新名を絶対に帰すな」

と厳命がきていたのだそうです。
海軍にはもうどうすることもできませんでした。



陸軍の指定した召集日までは、おそるべきことに新名記者が東京に着いたら
すぐにとんぼ返りで高松に引き返さなければならないだけの日にちが
ぴったりと取ってあったといいます。

映画「軍閥」では、海軍側が

「大正の兵役免除のものを一人だけ取るとはおかしいと思わないのか!」

というと、陸軍担当者が冷然と

「丸亀部隊(新名記者が招集された高松の部隊)には
他に大正の兵役免除のものばかり250名を招集した」


と言い放つシーンがあります。

それを聞き海軍将校は唖然とするのですが、実際は、この事実を
新名記者は丸亀部隊を除隊になる際、
当の陸軍軍人の告白によって初めて知ることになります。


それにしても、250名もの人間のの巻き添え。

確かに戦争末期にかけて学徒どころかいったんは免除になったものや
老人にも招集がかかる例はあり、必ずしもありえないことではなかったとはいえ、
ほとんどが家庭持ちで息子も戦線に行っているような者たちを
新名記者一人への懲罰のつじつま合わせに招集するとは・・・・・・・。



陸軍の指定の日、海軍省から駆け付けた軍務局員に見送られて、
新名記者は丸亀部隊に入隊します。

さて、この事件に見られる東条英機という男の人間性には、
何かしら独裁者ヒットラーを彷彿とさせるものがあります。

権力を自らに集中させるにしたがって、周りの意見に耳をふさぎ始める、
耳の痛い意見は退け、あえて勇気を持って意見具申するものを権力で駆逐する。
さらに細心も度を越した小心とも言うべき肝の小ささ、狭量さ。

全て伝わるヒットラーのそれと重なるものがあるという気がするのはわたしだけでしょうか。
しかし、大きく違うことがあるとすれば日本にはドイツにはいなかった
「天皇」
という絶対的な存在があり、その存在ゆえ当時の軍部が独裁政権となりようがなかったことで、
さらに東条自身が独裁者として権力を目指したものではなく、

「無私の忠義者」

であったことでしょう。


この、新名記者のために召集された250名は、
その後硫黄島に送られ、全員が戦死しました。

新名記者を前線から連れ戻したのは、ぐだぐだになっていた
陸軍内の中央に反抗する一派の動きがあったというのですが、
それについてはまた稿を別にお話しします。


「我が」海軍は、その後も新名記者に手を差し伸べ続けるのです。