前回のあらすじ:結婚記念日に連れ合いとは全く別行動でにここ約一年にわたる憧憬と渇望の終着駅、
海軍兵学校に潜入を果たしたエリス中尉。
はたして、その聖地でエリス中尉は何を見るのか。
というわけで、兵学校にやってまいりました。
どこで降りるかは制服の自衛官に続いて降り、後をついていけばよし、ということで、
バス停から徒歩2分、そこはすでに海軍兵学校。高鳴る胸。
ああ・・・・あのままだ。
実にすごいと思うのですが、写真の講堂といい、赤煉瓦の建物といい、100年は経っているはずなのに
どうしてこんなに美しいまま威容を保っているのでしょうか。
アメリカやヨーロッパでは、100年以上の建物をいつまでも使い続けますが、
日本ではそういう建物自体が稀です。
ご存知のように、現在でも海上自衛隊の士官候補生によってこの場所は現役で使われているのです。
そこに立つと、まさに海軍兵学校として使われていたそのままの姿が。
これだけでもう、胸がいたくなるほどの感激でした。
ここである者は「恩賜の短剣」を授与され、そうでない皆もヘンデルの「勝利を讃える歌」の奏楽に送られて
卒業していったのです。
昔は菊の御紋章をくりぬいたところに皇族方のお座りになる玉座があったそうです。
そして、菊の上部にあるモチーフは「フクロウ」。
ギリシャ神話で知恵の女神ミネルヴァのペットだったことから、知恵を与える象徴とされているためです。
この石造りの床も、勿論当時のまま。
このブログで語ってきた兵学校卒士官たちが実際その脚で踏みしめた、そのままのものです。
誰もいない講堂は非常に反響がいいのですが、音響を調節するため、壁の内部には
「和紙」が塗り込まれているのだそうです。
卒業式のとき、父兄が観覧するバルコニーは、とても高いところにありました。
ここには、本日冒頭画像の方の入口から入り、階段を上るようです。
ところで、校内を案内してもらう見学ツアーは一日三回、現地に行けば参加できます。
昔自衛官でここを卒業したというリタイア組のおじさんが、おやぢギャグ満載の楽しい解説をしてくれます。
たとえば・・・・えー・・・
忘れてしまったのでそのギャグについては書きませんが、とにかく、ちょっと
「江田内に軍艦『平戸』がありましたね」などとひとこと言おうものなら、
即座に資料専門らしい自衛官のところに連れていってくれ、
「眞継さん(カメラマン)の写真に平戸から生徒が(訓練で)飛び込んでいる写真がありましたよ」
と教えてくれたり、本当に色々として下さいました。
平日の昼間でも、結構コンスタントに見学者はあるようです。
なので別にこのおじさんの解説に何も不満があったわけではないのですが、先発隊に、
団体で見学を申し込んだ女性ばかりのツアーがいて、彼女らを率いるのが配慮なんだかどうかわかりませんが
黒い制服白い軍帽の若いぴちぴちの現役士官で
決して「陸奥なのに主砲が四つとはこれいかに」(思い出しちゃった)
みたいな解説が嫌なわけではありませんが、こっちの解説もぜひ聞いてみたかったなあ、と・・・。
現役のポスト。しかしこれは戦後できたそうです。
松の木が邪魔ですが、これが古鷹山。
弥山とは兵学校を挟んで逆の方向に見えています。標高394m。
兵学校出身者は、必ずこの登山の後に映した全員の写真を持っています。
写真だけではいかにもハイキングの後っぽい雰囲気だったんですが、この山の急峻さを見て、思わず
「これは、すごすぎる・・・」
この山は、昔兵学校、今自衛隊の訓練以外にはまったく使用されていないそうで、つまり
「あのいかにも心臓破れそうな山に登ることを我が兵学校の行事としよう!」
と誰かあえて訓練に艱難辛苦を求めるマゾヒストが、いや
辛苦によって自らを珠に磨かんとする求道者があるときこのようなことを思いついてから
伝統的に行われているようです。
弥山(標高500m)ではさらに駆け上がりタイムを競うというさらにサディスティックな、
いや究極の自己鍛錬であるところの登山が行われ、
あの大野竹好生徒はこの弥山競技のメダル保持者だったそうですが、全く、
頭脳といい、体力といい、元々優秀なところに持ってきてこの鍛えっぷり。
この「楽な方の」古鷹山を見ただけで、その凄さが実感できます。
現在、士官候補生は、登頂後この山の山頂で必ず「同期の桜」を大合唱するそうです。
すると、山から見下ろす兵学校の、いや自衛隊術科学校のグラウンドでは、彼らに見えるように
日本の旗を押し立てて駆け回り、彼らの健闘を讃えるメンバーがいるのだとか。
ところで、この煉瓦の話を少し。
説明の方が「煉瓦を触ってみてください」とおっしゃるので触れてみるとなんと、
表面は「つるっつる」なのです。
たまたまひび割れを見つけたので、画像に撮ってみましたが、実に100年経過しているとは
とても思えない美しさだと思いませんか?
これは、イギリスで一つ一つ手で焼かれたものを、これも一つ一つ包まれて送られてきた
特注の煉瓦であることは皆さんすでにご存知かもしれません。
この一つ一つ微妙に形の違う、いかにも手作りの肌目の細かい表面が、雨水の沁み込みを防ぎ、
このようにカビは勿論雨の跡さえ附かず、今日までの美しさを維持しているというわけです。
このアップ画像を見ても、何世紀か後でもこのままではないかと思わされますね。
士官がママチャリで移動していたので思わずシャッターを切ってしまいましたが、
この後ろに見えている校舎は、大講堂の「イタリア風」生徒館の「イギリス風」教育参考館の
「ギリシャ風」に対し、「アメリカ風」の生徒館(新館)です。
何日か前、笹井醇一生徒の記事の日に、窓際に並ぶ同分隊のメンバーの画像をアップしましたが、
あの写真はこの窓の(画像とは別の向きの)もの。
昭和13年にできたそうですから、昭和11年入学の67期は、できたばかりの校舎に
最初に入った生徒たちだったということになります。
窓をアルミサッシに変えていますが、これも70年経つとは思えないですね。
それにしても、この光あふれる校内には、何とも言えない清浄な気が満ち満ちています。
神社仏閣でもないのに、思わず背筋を伸ばしたくなるような、しかし峻厳なだけではない
明るさに包まれているのです。
訪れたこの日が2月なのにうららかな、4月を思わせる陽気で、美しい空の色をしていたからだけでもなく、
100年の昔から防人の志を受け継ぐものたちが、ここで青春の意気も溌剌と互いを磨き合ってきた
そのパワーが、この地をしてその空気さえも特別なものにしているのでしょうか。
そこに立つだけで何か自分自身が高められるような、何とも言えない不思議な力を感じたのは、
あながちわたしが特に海軍兵学校に思い入れを持っているせいだけでもなさそうです。
というわけで、テンションの高さのわりに意外と冷静にお伝えしてきましたが、やっとこれで三分の一です。
↑やっぱり