今日は岡山の「吉備津神社(きびつじんじゃ)」についてご紹介します。
吉備津神社は「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」を主祭神とし、、その異母弟の「若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)」と、その子「吉備武彦命(きびたけひこのみこと)」等、一族の神々を合わせ祀っています。
「大吉備津彦命」は、第7代「孝霊(こうれい)天皇」(在位:起源前290年2月~起源前215年3月)の皇子で、元の名前を「五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)」と言い、武勇の誉れ高い方と伝えられています。
・吉備津神社の回廊です。
一説によれば、第十代「崇神(すじん)天皇」(在位:起源前97年2月~起源前29年1月)の御世になり、天下が漸く収まってきたものの、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数いたようです。
そこで天皇は即位十年に当たる崇神天皇10年(起源前88年)に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け、四道(地方)に派遣して討伐することにしました。
四道(地方)とは、北陸道、東海道、丹波(後の山陰道)、西道(後の山陽道)のことで、北陸道には大彦命(おおひこのみこと)」、東海道には武渟別命(たけぬなわけのみこと)、丹波(後の山陰道)には丹波道主命(たにはにみちぬしのみこと)、そして西道(後の山陽道)には大吉備津彦命が派遣されることになりました。
四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣されることになった大吉備津彦命は、異母弟の「若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)」と協力して吉備を平定しました。
その子孫が吉備の国造りをおこない、吉備臣を名乗った豪族と伝えられています。
吉備津神社の社伝によれば、吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなり、中山山頂に葬られたと伝えられています。
吉備津神社は吉備津彦の5代の子孫の「加夜臣奈留美命(かやのおみなるみのみこと)」が茅葺宮に社殿を造営して吉備津彦を祀ったのが始まりと伝えられています。
・吉備津神社の回廊で、岡山県の重要文化財に指定されています。
吉備津神社の「比翼入母屋造り(ひよくいりもやつくり)」の社殿は足利義満が造営したもので国宝になっています。(現在の本殿と拝殿の修繕は平成20年(2008年)9月に行われました。)
比翼入母屋造り(ひよくいりもやつくり)は、日本の神社建築様式の一つで、「比翼造り」、または「吉備津造り」などと呼ばれているようです。
構造は、内部を仏殿形式とした本殿と前部の拝殿からなっています。
特に、本殿の屋根が「比翼入母屋」の形状で、平行に並べた2棟の入母屋屋根と同じ高さの棟の屋根で連結し、一棟としています。
このため、入母屋破風(いりもやはふ)が2つ並んでいます。
・入母屋破風(いりもやはふ)が2つ並んでいる本殿です。
・吉備津神社の拝殿です。
「宇賀神社」
宇賀神社は吉備津神社と道路を挟んで西側の神池の中島にあり、明治時代以降、吉備国の最古の稲荷神を祀っており、五穀豊穣をもたらす神様と言われているそうです。
・吉備津神社の西側の神池にある宇賀神社です。
この池の垂れる「しだれ松」と「しだれ桜」はとても優美といわれています。
私達が訪れた4月3日は、丁度桜が満開の時期であり、ピンクの桜と松の緑、それに神社の朱色が池の水面に映えて、まるで絵葉書を見ているような美しさでした。
・池に垂れる「しだれ松」と「しだれ桜」が美しい宇賀神社です。