らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

芽キャベツ

2010-12-21 | 家庭菜園
今日は久しぶりに野菜についてご紹介します。

いきなりで恐縮ですが、下の野菜何だと思いますか?
キャベツ? いいえ、葉はキャベツによく似ていますがキャベツではありません。 実はこの野菜は今日ご紹介する「芽キャベツ」なのです。
読者の方の中には、ご存じない方もおられるのではないでしょうか?

「芽キャベツ」は、アブラナ科の一年草で、キャベツの変種の一つです。
別名はヒメカンラン(姫甘藍)、コモチカンラン(子持甘藍)と言われ、 原産地はベルギーのブリュッセル郊外とされています。
地中海沿岸に原生しているケールが祖先と言われています。

・葉はキャベツによく似ていますが、キャベツのように大きくなりません。


芽キャベツは、その名前から「キャベツの若芽」という印象がありますが、若芽ではなく、茎にそってビッシリと生える脇芽です。

・葉の一つ一つの付け根から脇芽が出ていますが、これが「芽キャベツ」です。


我が家の「芽キャベツ」の茎は40~50センチと小さいですが、品種によっては90センチくらいの茎になり、直径3~4㎝の小さな「芽キャベツ」が1株で50~60個付きます。

・茎の下の方は既に収穫した跡です。土の上に葉が出来るとそこからすぐに脇芽がつきます。


日本食品標準成分表によれば、芽キャベツ100g中の成分はエネルギー50Kcal、水分83.2%、たんぱく質5.2%、脂質0.1%、炭水化物9.9%、灰分1.1%を含んでいるそうです。
ビタミンCを多く含み、柔らかくゆでて、シチューや和え物、煮物、バター炒め、サラダなどにして食べるとおいしくいただけます。

・収穫した我が家の芽キャベツです。直径3センチ前後の比較的小さいものが殆どです。





明石海峡大橋

2010-12-20 | 旅行
11月29日から昨日まで20回にわたって「四国旅行シリーズ」をご紹介してきました。
今日は、四国からの帰路に通行した「神戸淡路鳴門自動車道」の淡路サービスエリアから眺めた明石海峡大橋をご紹介します。

明石海峡大橋は神戸市垂水区と兵庫県淡路市を結ぶ世界最長の吊り橋で、全長3,911m、中央支間1,991m、主塔の高さは海面上298.3mです。
当初計画では全長3,910m、中央支間1,990mでしたが、阪神淡路大震災で地盤がずれて1m伸びたそうです。
1998年(平成10年)4月5日に共用開始となりました。

・淡路サービスエリアからの素晴らしい眺望です。


これより3枚は2008年(平成20年)に海上から撮影した雄大な明石海峡大橋の画像です。
これらは神戸からのクルージングの船上から撮影し、同年11月25日の当ブログで紹介しているものです。

・明石海峡大橋の全景です。(左側が神戸市、右側が淡路市です)


メインケーブルは片側1本の計2本を使用しています。ケーブル1本に36,830本のワイヤーを使用し、1本のケーブルの直径は112.2cmで、約6万トンの加重を支えるそうです。

・橋の中央付近からの明石海峡大橋です。(見えている町は神戸市です)


・真下から見た明石海峡大橋の底面です。補鋼桁が均等に組まれて見事な幾何学模様を造りだしています。





四国の旅行(その20)徳島市・眉山

2010-12-19 | 旅行

四国旅行シリーズ、20回目の今日は徳島市の眉山(びざん)をご紹介します。

眉山(びざん)は徳島市の中心街にある標高は280mくらいの山で、どの方向から眺めても眉の姿に見えることからその名がついたと言われており、徳島のシンボル的存在として親しまれているそうです。
頂上からは中心市街を始め、遠くは阿讃山脈、瀬戸内海、紀州の山々を望むことができる絶景地となっています。

・紅葉とともに徳島市街と紀伊水道の眺望が素晴らしい眉山の山頂です。


眉山(びざん)は、古くは万葉集に次のように詠われています。

 「眉(まよ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて榜(こ)ぐ舟 泊(とまり)知らずも」 (船王:ふねのおおきみ)(万葉集6-998) 
  (訳)「眉のように遥かに見える阿波の山 その山を目指して漕ぐ船 停泊する港はどことも知れないのだ」

この歌は734年(天平6年)3月、聖武天皇の難波行幸に従駕した時の作とされており、「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」が「眉山」であるとされています。

・真っ赤に紅葉した眉山山頂のモミジです。眺望とともに紅葉が楽しめました。


山頂にはテレビ塔が立ち並んでおり、訪れた時には紅葉が綺麗でした。

・紅葉が美しい眉山山頂公園です。


山頂一帯は眉山公園となっており、慰霊塔パゴダ・モラエス館・展望休憩施設などがあります。

・眉山から眺めた徳島市街です。


「ガゼボ」
このガゼボは徳島市と姉妹都市縁組を結んでいるアメリカのサギノー市から、徳島市制100周年を記念して寄贈されたもので、アメリカで人気の高い古典的建築様式を生かした洋風あずまやだそうです。
建築面積は12.8平方メートルの六角形、直径4.9メートル、高さ6.25メートル、屋根は杉板葺、頂部の円形ドームには風見鶏が取り付けられており、部材はアメリカ産の輸入杉を使用しているそうです。
(参考)
ガゼボとは、ヨーロッパの風景式庭園で、園内につくられた装飾的な小さな建物のことです。休憩施設や見晴らし台として利用され、和風庭園で言う「あづまや」に当たるものです。

・眉山山頂公園にある「ガゼボ」です。


「パゴダ(仏塔)」
1958年(昭和33年)、徳島県ビルマ会が第二次世界大戦で戦没した多くの戦友たちの霊を慰めるために、ミャンマー(旧ビルマ)の首都ヤンゴンにあるシュエダゴン・バゴダの形を参考に建設したそうです。
このバゴダには、ビルマから贈られた仏舎利が納められているそうです。

・これも眉山山頂公園にある「パゴダ(仏塔)」です。


「モラエス像」
モラエスは1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれ、1889年に初来日、ポルトガル領事館が開設されると神戸副領事として赴任し、後に総領事となった人です。
また、神戸在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになりました。1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞して引退し、ヨネの故郷である徳島市に移住しました。
徳島に移り住んだ彼は、ポルトガルの新聞に日本を紹介するとともに、日本に関する作品を数多く残しました。
しかし、徳島での生活は楽でなく、スパイの嫌疑をかけられたり、西洋乞食とさげすまれたりして辛い生活を送り、1929年、徳島市で孤独の内に没したそうです。

・「モラエス像」です。この像も眉山山頂公園に設置されています。





四国の旅行(その19)徳島市・徳島城跡(2)

2010-12-18 | 旅行

四国旅行シリーズ、19回目の今日も昨日に続き、徳島市の「徳島城址」をご紹介します。

「天下普請(てんかぶしん)」
徳島城(別名 渭津城)は、阿波に入国した蜂須賀家政が、吉野川河口付近の中州に位置する標高61mの城山を中心に築かれた屋形造りの平山城です。
この築城に当って、豊臣秀吉は小早川隆景や長宗我部元親らに援助を申しつけていますが、これが後に、徳川幕府が江戸城や大阪城、名古屋城などを将軍の命令で西国大名に命じた「天下普請(てんかぶしん)」の走りとも言われているそうです。

「阿波踊り」
蜂須賀家政は築城に従事した大工らを労(ねぎら)うために祝儀として酒を振る舞い、更に城下にも「城の完成祝いとして好きに踊れ」というお触れを出し、酒を振る舞いました。
武士はその席に連なるのを禁じたので、町民たちは遠慮することなく狂気乱舞し騒ぐことができ、7月15日~16日の2日間にわたって踊り狂ったと伝えられており、これが阿波踊りの始まりと云われているそうです。
明治4年の廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945年)7月4日の徳島大空襲によって焼失し、現在、徳島城は公園になっています。

・この絵図がかつての徳島城です。


「本丸跡」
創建当時の天守は元和年間(1615年~1624年)に取り壊されたと云われており、後に、城山の中腹にある東二の丸に御三階櫓が構えられました。
本丸は標高約61メートルの城山頂上に置かれ、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。
本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていたようです。
藩主は城山麓の御殿で暮らし城山に登る事は稀でしたが、このお座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。
本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門」)があり、大名の非常時に対する備えがあったそうです。

・本丸跡の広場です。


「蜂須賀家政公銅像」
蜂須賀家政(藩祖)は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正14年(1586年)に一宮城から中世に築造された「渭津城(いつじょう)」を修築して徳島城とし、藩政の中心地としました。
入国の後は、藍、塩など、それまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし、日本中に売り広めたそうです。
蜂須賀公の銅像は、戦前には野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていましたが、戦時中に供出されてしまい、戦後の昭和40年(1965年)に現在の裃姿の家政公の銅像に生まれ変わったそうです。

・蜂須賀家政の銅像です。


「東二の丸跡」
東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般には、天守は城郭の最上部に建てられますが、徳島城では天守破却後に天守の代用として、本丸から一段下がった同地に置かれていました。
当時は御三階櫓と呼ばれていたものですが、なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではなく、景観バランスを整えるためとか、城の防備上の都合によるものなどが考えられているそうです。
構造は3重3階建てで、櫓台はなく、下から7間四方、5間四方、3間四方で、外観は望楼型といういわゆる復古型などと呼ばれるものだそうです。

・「東二の丸跡」です。現在は跡地に草が生えている広場です。立地については、前記の徳島城絵図をご参照ください。


「西二の丸跡」
西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓が設けられていました。

・西二の丸跡です。こちらも草が生えた広場で、西二の丸跡を示す石碑があるのみです。


「西三の丸」
西三の丸は西二の丸の西方にあって、材木櫓と平櫓が設けられていたそうです。

・西三の丸跡です。現在は水道配水池が設置されています。





四国の旅行(その18)徳島市・徳島城址(1)

2010-12-17 | 旅行

四国旅行シリーズ、18回目は徳島市の徳島城址をご紹介します。

「徳島城址」
徳島城の由来は、1385年(至徳2年)足利尊氏に仕えた武将・細川頼之が城山に小城を築いたものです。そして、この地の風光を中国の渭水(いすい)に例えて、通称、渭津城(いつじょう)・渭山城と呼ばれています。
渭津城(いつじょう)は、永禄年間(1558~1570年)には森高次が居城しましたが、1582年(天正10年)に阿波を平定した長宗我部元親は、吉田康俊を城代としました。
その後、1585年(天正13年)、豊臣秀吉の股肱(ここう)の臣となった蜂須賀小六正勝は四国征伐の功により、秀吉から阿波一国を与えられようとしますが、老齢を理由に固辞し、嫡男・蜂須賀家政が、播磨龍野(兵庫県龍野市)5万石より阿波18万石の国主として入封しました。

徳島城(別名 渭津城)は、阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城です。
幕藩時代を通じ、蜂須賀家が十四代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国の25万7800石を支配しました。
明治4年の廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945年)7月4日の徳島大空襲によって焼失しました。

・徳島城のお堀です。見えている橋が数寄屋橋で、その奥の石垣が旗櫓があった所です。


・数寄屋橋です。この橋から表庭園に入ります。「城山の貝塚」はこの突き当たりにあります。


「城山の貝塚(3号貝塚)」
「城山の貝塚」は、古代人が食料とした魚類・鳥獣類の残滓(ざんし)や生活に使用した土器や石器など、いろいろなものを処分した「ゴミ捨て場」であり、時には死者を埋葬する墓地にもなったそうです。
この貝塚は約4000年~2300年前の縄文時代後期から晩期を中心とする岩蔭・洞窟遺跡であり、この3号貝塚の他、1号貝塚、2号貝塚が存在しているそうです。
1922年(大正11年)に鳥居龍蔵博士らによって発掘調査が行われ、縄文時代後期の土器片やほぼ完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土しているそうです。

・「城山の貝塚」です。


「清玄坊」
清玄坊の由来については次のように記されています。
 清玄坊の元祖は清和源氏で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜りました。
 後に修験者となり三好家とともに、阿波に移って城山に祈祷所を建てていました。
 蜂須賀公が阿波に入国し、築城に際して付近の全寺社に移転を命じましたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じないため、公は一計を編み、換地を与えると言って
 城下に連れ出し、紙屋町を通行中に後ろから弓で射て謀殺しました。
 途端に蜂須賀家には変事が続出したので、公は清玄坊の祟りに違いないと前非を悔いて石碑を建て、末代まで供養することを誓ったところ、この変事はピタリと
 止まったと言われています。
 以来、紙屋町の住民は毎年お祭りを続けているそうです。

・本丸跡の隅に鎮座している「清玄坊神社」です。


「子供平和記念塔」
徳島城の表庭園に「子供平和記念塔」が建っていました。この塔は世界の平和がいつまでも続くようにと願って昭和23年に作られたもので、塔に埋め込まれている石は、全国の小中学生やアメリカの子供たちから送られてきた特色のある石や化石が使われています。
その中には皇太子殿下(今上天皇)から贈られた石(那智の名石2個)もあるそうです。

・「子供平和記念塔」です。



明日も「徳島城址」の2回目をご紹介します。




四国の旅行(その17)徳島・吉野川市 「川島城」

2010-12-16 | 旅行

四国の旅行シリーズは、美馬市の「うだつの町並み」と「寺町」を見学した後、国道192号線を吉野川沿いに徳島市まで下りました。
その途中、吉野川市川島町に差し掛かった時、美しいお城が目に飛び込んできました。
今日はこのお城をご紹介します。

「川島城」
このお城は「川島城」と記されていました。
川島城は中世の山城跡で、元亀元年(1572)の川島合戦で三好氏の家臣であった篠原長房が滅ぼされた後、細川家の家臣・川島兵衛之進がこの地に1000石を領して城を築いたものです。
後に、川島兵衛之進は天正7年(1579年)12月の岩倉合戦で一族もろともに討ち死にしてしまいましたが、その後、1585年(天正13年)の蜂須賀氏の入国に伴い、阿波九城の1つとして再興され、家臣である林能勝(林道感)が城主となり、300人の守備兵が置かれました。
しかし、、寛永15年の一国一城令により1638年に廃城となりました。その跡に徳島藩の奉行所が置かれ、明治になるまで存続しました。
1981年(昭和56年)、二の丸跡に、観光用に模擬天守閣が建設されました。それがこの美しい川島城です。
現在は「レストハウス川島城」になっているそうです。

・美しい川島城です。


「川島神社」
川島城の傍に「川島神社」が鎮座していました。
川島神社は天武2年の創建といわれ、稲田家の武運長久の祈願所でもあったことから、武運長久、商工業、学問の神様として信仰されています。
川島神社には、吉野川の改修工事で社地移転を余儀なくされた浮島八幡宮を中心として、旧川島町内の神社のご祭神・誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと:応神天皇)・天日鷲命(あめのひわしのみこと)・菅原道真公を始め三十三柱が祀られているそうです。

毎年10月22日の例大祭には、「75膳の神事」があります。
「75膳の神事」とは、古からの特殊神事で、氏子から奉納された、おごく(炊いたご飯)、酒、穀物、魚、海藻、野菜、果物などのありとあらゆる食べ物を75台の三方(さんぼう)に載せ、本殿にお供えして農事百般の豊穣に感謝する行事です。




四国の旅行(その16)徳島・美馬市・寺町(2)

2010-12-15 | 旅行
四国の旅行シリーズ16回目の今日も美馬市の「寺町」を紹介します。

美馬市は、古墳時代には徳島県下で最大級の古墳が造られ、奈良時代の白鳳期にはいち早く仏教が伝わり、四国でも最も早い時期に本格的な寺院が建てられました。
堂々たる山門、伽藍を持つ寺がいくつも建ち並ぶ「寺町」は、静寂の中に凛とした空気を感じさせる町です。

「西教寺」
西教寺は浄土真宗・本願寺派の寺で、山号・院号は、至心山・千葉院「西教寺」と言います。
江戸時代初期の1609年(慶長14年)に安楽寺の第10代住職・千葉正宗の隠居寺として建立されたと伝えられています。このことから俗に隠居寺とも呼ばれています。
この寺は、安楽寺と同様の格式を持ち、阿波や讃岐に十カ寺の末寺を有していました。
2008年に本堂、経蔵、山門の3件が国の登録有形文化財に指定されています。

「山門」
1843(天保14)年建立の山門は、「医者が使う門」「矢の攻撃を食い止める門」との由来がある「薬医門」の構造が特徴だそうです。雲の彫刻を施した板軒が使われており、風格を感じさせる山門となっています。

・山門です。


「本堂」
本堂は1858(安政5)年の建立で、構造は、木造平屋建(240㎡)、入り母屋造りの本瓦葺となっています。
正面に張り出した向拝(こうはい)に施された竜虎の彫刻や、側面上部を装飾的に築いた妻飾りなどが目を引きます。

・本堂です。


「経蔵」
本堂の南に位置する経典などを収める経蔵(47㎡)は、1930(昭和5)年建築と比較的新しい建物です。
約30センチの厚みのある土壁で囲われた土蔵造りで、正面の唐破風(からはふ)造りと相まって重厚な雰囲気を漂わせています。

・経蔵です。


「林照寺」
林照寺も浄土真宗本願寺派の寺で、山号・院号は光暁山・智明院「林照寺」といいます。
寺伝によると、室町時代末期の1520(永正17)年 安楽寺の第8代住職・願証の弟の林証が開基したと伝えられています。
総欅造りの向唐門(1964年:昭和39年建立)の山門から境内に入ると銀杏の大木があり、寺院建築と相まって見事に映えます。

・向唐門(山門)です。


「本堂」
・1985年(昭和60年)に再建された本堂です。


・鐘楼です。






四国旅行(その15)徳島・美馬市「寺町」(1)

2010-12-14 | 旅行

四国の旅行シリーズも15回目となりました。今日は美馬市の「寺町(その1)」を紹介します。

美馬市には、「安楽寺」、「林照寺」、「西教寺」、「願勝寺」、「常念寺」等、遙か昔から、人々が安全で平穏な生活を、御仏に祈って来た悠久の時間が流れる「寺町」があります。
今日はその中から「安楽寺」と」「願勝寺」をご紹介します。

「安楽寺」
安楽寺」は、江戸時代には四国における浄土真宗の最古、最有力の寺であったそうです。豪壮な山門が朱塗りであることから、[赤門寺]の名で近郷近在の人々に親しまれ、寺のシンボルとなっています。
この朱塗りの重層門は、徳島県下で「五大門」の一つに数えられているそうです。

(参考)
 重層門とは、二層・三層の重層構造の門をいい、徳島県の「五大門」とは次の門を言っています。
  ・徳島市の「丈六寺」〈曹洞宗〉の三門
  ・土成町の「熊谷寺」〈真言宗 四国霊場8番〉仁王門
  ・山川町の「高越寺」〈真言宗〉の山門
  ・池田町の「箸蔵寺」〈真言宗〉の大門
  ・美馬町の「安楽寺」〈浄土真宗〉の山門

・国登録有形文化財に指定されている丹塗りの二重門で、江戸時代中期に建築された朱塗りの山門です。鮮やかな朱色が目を引きます。



安楽寺は浄土真宗・本願寺派のお寺で、千葉山・妙音院「安楽寺」といいます。
このお寺は、鎌倉時代には天台宗の真如寺(平安時代頃建立)でしたが、鎌倉中期の1259年(正元元年)に関東の豪族であった千葉彦太郎常重が入寺し、浄土真宗の安楽寺に改められました。
更に、阿波の守護職、小笠原氏・細川氏・三好氏の各国主と姻戚関係を結び、庇護をうけて寺勢を拡張し、阿波・讃岐・淡路の各地に寺院を創立して四国における最古、最有力の真宗寺院として栄えたそうです。
現在の本堂は昭和13年に再建され、隣接している本格的な能舞台では毎年秋に能が演じられているそうです。

・本堂です。


・鐘楼です。





「願照寺」
「願照寺」は真言宗・御室派のお寺で、宝壷山・真城院「願勝寺」といいます。
お寺の由来については次のように伝えられています。
 奈良時代に忌部五十麿(いんべいそまろ)が祖父の菩提を弔うために、阿波上郡に方壺山維摩寺(ゆいまじ)を建立しました。
 平安時代、藤原信西(しんぜい)の娘 阿波内侍(あわのないじ)が崇徳天皇に仕えて、大変可愛がられていましたが、 第77代後白河天皇(崇徳天皇の弟)の御代に保元の乱(1156年)が起こり、崇徳上皇側が破れ、
 崇徳上皇は讃岐(香川県)に流されて1164年の8月、讃岐の地に46歳で崩御された。
 阿波の内侍はこれを聞いて悲嘆にくれ、仏門に入り比丘尼(びくに)となり、館を改め寺とし、上皇のご冥福を祈りました。その寺が京都の願勝寺であったそうです。
 内侍尼は了海上人(りょうかいしょうにん)に託して、京の願勝寺を母の生国である阿波に移し、維摩寺改め願勝寺としました。 これが現在の願勝寺の始まりと言われています。
 
 (参考)
  比丘尼(びくに)とは、出家して具足戒を受けた女子のことで、いわゆる尼僧のことです。

・願勝寺の山門です。


・願勝寺の本堂です。この裏には有名な「枯山水の庭園」が見られます。





・願勝寺の鐘楼です。





四国旅行(その14)徳島・美馬市「うだつの町並み」

2010-12-13 | 旅行
四国旅行シリーズは今日から徳島県に入ります。
金毘羅さん、善通寺を参拝した後、国道438号線を南へ進み、讃岐山脈を越えて徳島県美馬市に入りました。
美馬市には「うだつの町並み」や「寺町」などがあると聞いていたので訪ねてみました。

今日は美馬市の1回目として脇町にある「うだつの町並み」についてご紹介します。

「うだつ(卯建)」は最近では見ることができない貴重な建築様式です。その街並みが美馬市脇町に残存しています。
この脇町は藍で「うだつをあげた町」のようです。
その経緯は、蜂須賀家政が1585年阿波藩主として入国した時、筆頭家老の稲田植元を阿北の要衝である脇城の城代として配しました。
稲田植元は阿波藍を奨励し、藍商を中心とした商人の町としました。
この藍作りは江戸時代から明治にかけての阿波の代表的な産業として広がり、交通の要衝と吉野川の水運に恵まれた脇町は藍の集散地として栄え、藍商・呉服商の商人が栄華を極め、商人の町に変貌したそうです。
商家では、防火の目的で「うだつ」と呼ばれる袖壁をつけた家屋を建てました。その古い商家の面影を伝える町並みが残存していものです。

・この通りが「うだつ(卯建)」の町並みです。


「うだつ(卯建)」とは、二階の壁面から突き出した漆喰塗りの袖壁(そでかべ)で、火よけ壁とも呼ばれ防火の役目をしていました。
江戸時代には、裕福な商家はこの「うだち」をあげた立派な家を競って造りました。そのようなことから、この「うだつ」は家格の象徴ともなっています。
諺に、いつまでもぐずぐずしていて一向に出世のできないことを「うだつが上がらぬ」と言いますが、この語源はここからきています。
(参考)
 袖壁とは、門や出入り口等の両脇の小さい壁のことを言います。

・妻壁(三角形の壁面)の下に張り出した小さな屋根つきの袖壁が「うだつ」です。


美馬市脇町の「うだつの町並み」は、東西に通じるメインの道路の長さが430メートルあり、風雅な格子戸や白壁の土蔵と相まって今なお江戸期の藍商人たちの在りし日の隆盛を物語っています。
この地区は昭和63年12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたそうです。

・切妻の三角壁と「うだつ」が裕福な商家の象徴でした。


現在、うだつの街並みに建ち並んだ建造物は本瓦葺の大屋根に、壁は厚い塗籠(ぬりこ)めで漆喰仕上げの重厚な造りと当時の繁栄を物語る「うだつ」や「むこし窓(虫籠窓)」、「出格子」などを備えた建物が軒を連ねて当時の状態で残されています。

・隣家との境の二階の壁面には「うだつ」という火よけ壁をもつ家が多く、日本でも珍しい古い町並みです。


二階の黒壁に挟まれた白い窓を「むこし窓(虫籠窓)」といいます。格子のような窓のことで、木を使った窓や、練り土に漆喰を塗って堅牢に造られています。
当時は盗難除け、部屋の明かりとり、風邪通しをよくするために作られましたが、時代とともに装飾的な面も兼ねるようになったようです。
1階には、格子が造られています。
格子造りとは、細かい角木を縦横に間をすかして組み合わせ、窓や出入り口に取り付ける建具のことで、出格子などは旧商家が威勢を表す建築様式です。

・「むこし窓(虫籠窓)」と格子造り





四国旅行(その13)善通寺市・「善通寺」(3)

2010-12-12 | 旅行

四国旅行シリーズ13回目の今日も香川県善通寺市の「善通寺」をご紹介します。

「善通寺」は東西二つの院に分かれ、東院を伽藍、西院を誕生院と呼んでいます。
東院の伽藍には、金堂・五重塔・鐘楼などがあり、西院には御影堂を中心に諸堂が建ち、重ねた罪を取り除く「戒壇めぐり」の場もあるそうです。


・西院(誕生院)にある「大師堂」です。


「鐘楼」
この鐘楼は、江戸時代末期に造られたもので、木造2階建て、瓦葺で建築面積は23㎡あるそうです。
金堂の西側に建っており、桁行三間、梁間二間、袴腰付き、入母屋本瓦葺です。この鐘楼は鐘楼門であった痕跡をとどめるもので境内の景観を引き立てています。


「大楠」
この老楠の木は弘法大師誕生の時より繁茂していたと言われ、樹齢千数百年を経た大楠だそうです。
大楠は地上1.5mの所で幹囲11mに及び、東北、南東に三大枝を出し、枝葉は東西24m、南北29mに拡がり、樹高は30mに達するそうです。


「智慧の文殊菩薩」
文殊菩薩は仏の智慧(般若)を象徴する菩薩で、特に般若経で説かれています。諸菩薩の上首とされ、普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍で、獅子に乗って仏の左側に侍しています。
 説明文によれば、
   『弘法大師は幼い時、人々から神童と云われ、また、智慧文殊の化身だと言われました。その通りで、後にも先にもお大師様のように智慧が優れて世のため人のために尽くされた方はおられません。
    皆さんお大師さまにあやかり立派な人になってください。』と書かれています。
このようなことから、善通寺の境内に「智慧の文殊菩薩像」を祀られているものと思われます。


「御影池」
佐伯家の人々が住んでいた頃は邸宅の庭にあった池でした。
弘法大師が入唐留学の折り、この池の水面に自身を映し、自像を描いて母に差し上げたと伝わっていることから、この池の名前を「御影池」と云うそうです。
現在は弘法大師と両親の像が祀られています。