らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

四国旅行(その12)善通寺市・「善通寺」(2)

2010-12-11 | 旅行

四国旅行シリーズ12回目の今日も香川県善通寺市の「善通寺」をご紹介します。
昨日もご紹介しましたように善通寺は弘法大師の誕生地と言うことで、境内のあちらこちらに大師立像が見られました。

「御影堂(大師堂)」
この「御影堂」の前にも弘法大師が立っておられます。
お大師さまは、宝亀5年(774年)6月15日、父・佐伯直田公善通(さえきあたいのたぎみよしみち)と母・玉寄御前(たまよりごぜん)の子として、四国の香川県北部にひろがる讃岐の善通寺の地に誕生しました。
この御影堂は、弘法大師が誕生した佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自作と伝わる本尊・瞬目大師像が秘蔵されているそうです。
誕生院は建長元年(1249年)行蓮上人によって創建されました。現在の建物は天保2年(1831年)に創建され、昭和11年に修築されたものだそうです。

「大師堂」とは、日本における仏堂の呼称の一つで、大師号を贈られた僧を礼拝の対象として祀るものです。「大師堂」と称する仏堂には、真言宗の開祖である空海(弘法大師)を祀るものが多いですが、円珍(智証大師)、良源(慈恵大師)を祀る堂で「大師堂」と称するものもあるようです。

・御影堂(大師堂)です。


「仁王門と回廊」
善通寺の仁王門です。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として安置しています。この仁王門を入ると御影堂まで回廊が続いています。

・仁王門と回廊です。


「護摩堂」
護摩堂とは、不動明王をお祭りするお堂です。また、不動明王へ祈りを捧げるための護摩を修する道場でもあります。
毎月28日の不動さんの縁日には、ここで護摩祈祷を行っているそうです。

・護摩堂です。


「善通寺塔頭観智院」
この観智院は807年(大同2年)に弘法大師によって創建されたそうです。当時は十善坊と号して一山の寺務を掌握して通行手形なども発行していたようです。
観智院と称するようになったのは中世になってからと言われています。
現存の建物は大正14年に再建され、ご本尊の十一面観音は高松藩主松平公の息女が庵を結ばれていた寺の本尊を遷(うつ)したと言われ、安産、子育ての守護仏(俗に子安観音)として婦女子の信仰の厚い寺となっています。



「五百羅漢」
五百羅漢とは、釈迦の滅後、その教えを広めていこうと集まった阿羅漢(あらかん)たちのことです。阿羅漢(あらかん)とは、修行を積んで悟りに達したものの称号です。

五百羅漢の由来」
五百羅漢の由来については、四種類の異なった言い伝えがあるそうです。
第一は、五百羅漢はお釈迦様が涅槃に入られた年に、十大弟子の一人であった「迦葉(かしょう)」がお釈迦様の弟子たちに集まるよう呼びかけ、「阿難(あなん)」など五百の僧侶が
    集まった事に由来するというものです。
第二は、インドのカニシカ王の時代に仏教の集会が開かれ、その時集まった僧侶の数五百に由来するというものです。
第三は、紀元前1世紀のスリランカの寺院において、パーリ語の仏典を作成するために集まった僧侶の数に由来するというものです。
第四は、当時お釈迦様に常につきしたがって説法を聞いていた弟子の数に由来するというものです。
現在は、第四番目の由来に賛成する人が多いようです


「五百羅漢」です。





四国旅行(その11)善通寺市・「善通寺」(1)

2010-12-10 | 旅行

四国旅行シリーズは今日から香川県善通寺市の「善通寺」をご紹介します。

「善通寺」は金毘羅さんのある琴平町から車で30分くらい北側に位置する善通寺市にあって、真言宗善通寺派の総本山です。
創建は平安時代初頭の807年(大同2年)で、真言宗の創始者である空海の父、佐伯善通によって開基されたお寺です。
伽藍は創建地である東院と、空海誕生地とされる西院(御誕生院)に分かれています。

「南大門」
善通寺の正門です。
金堂と同じく永禄元年(1558年)の兵火によって焼失し、長らく再建されませんでした。現在の建物は日露戦争戦勝記念として再建されたそうです。

・善通寺の「南大門」です。


現在の善通寺は「屏風浦 五岳山 誕生院 善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名され、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されていました。
そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示し、寺号の「善通寺」は父の名前である佐伯善通から採られているそうです。
この寺は和歌山の高野山、京都の東寺と並ぶ大師三大霊跡の一つとなっています。

「金堂」
善通寺の本堂です。創建時の金堂は永禄元年(1558年)三好実休の兵火によって焼失し、現在の建物は、元禄年間(1688~1704年)に再建されたものです。
ご本尊の薬師如来座像は像高3mに及ぶ丈六の巨像で、元禄13年(1700年)御室大仏師法橋運長によって造像されたそうです。

・善通寺の金堂です。


「五重塔」
この塔は香川県に現存する五重塔の中では最古のものです。三間五重、本瓦葺、総高45mにも及ぶ総欅(けやき)造りの大塔には五智如来が安置されています。
創建以来、大風や火災などにより、幾度か倒壊・焼失を経ましたが、そのたびに再建されています。現在の塔は弘化2年(1845年)に仁孝天皇の御綸旨(ごりんじ)により再建が始められ、明治35年(1902年)に完成したものだそうでで、善通寺のシンボルとして広く人々に親しまれているそうです。

・総欅(けやき)造りの五重塔です。



「常行堂(釈迦堂)」
釈迦如来を安置することから「釈迦堂」とも言います。元は延宝年間建立の御影堂でしたが、天保年間の御影堂改築にあたり、現在の場所へ移転されました。

・釈迦堂です。






四国旅行(その10)琴平町・金毘羅さん(3)

2010-12-09 | 旅行
四国旅行シリーズも10回目となりました。今日も昨日に続き、「金毘羅宮」をご紹介します。

「金毘羅宮(こんぴらさん)」は時代によって大きく変ってきたようです。
古代には大物主神を祭る「琴平宮」であり、中古から江戸時代までは神仏習合の影響から「金毘羅大権現」という仏教寺院となり、明治からは神仏分離令によって「金刀比羅宮」と再び神社になりました。

「三穂津姫(みほつひめ)社」
「金刀比羅宮」の本宮から続く南渡殿の南端に「三穂津姫社」があります。
三穂津姫は、日本書紀に登場する生産・生成・創造を神格化した神様の「高皇産霊神(タカミムスビノカミ)」の御女(娘)で、「金刀比羅宮」の御祭神である大物主神の后にあたります。
この社は、その三穂津姫神(みほつひめのかみ)が祭られており、本殿は明治9年の建築で、檜皮葺・王子造、中殿は檜皮葺、拝殿は檜皮葺・大社関棟造となっています。
5月10日に例祭、毎月1日に月次祭が行われるそうです。

・三穂津姫(みほつひめ)社です。


「賢木門(さかきもん)」
賢木門は、唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根をもち、他に類を見ない優麗温雅な様式を備えています。
門の中央に掲げられている「賢木門」の扁額は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王殿下(1835~1895)の御筆だそうです

「賢木門(さかきもん)」の由来
天正年間(1573~1592)、長曽我部元親は兵を起こして諸州を侵略し、多くの神社仏閣を焼き払っていました。ある日、元親は琴平山の隣の大麻山に陣取ったのですが、その夜、琴平山の草木が全て敵兵に見え狂乱してしまいました。
老臣らはこの出来事を、霊境付近を犯したための神罰であると考えました。そこで元親は罪を謹み、門を献納することにしました。
しかし、建築を急ぐあまり、一本の柱を逆さまにつけてしまいました。そこで、その門は「逆木門」と呼ばれるようになり、明治12年(1879)の改築の際に、「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになったそうです。

・補修中の「賢木門(さかきもん)」です。


「書院玄関」
表・奥書院からなる300年以上前に建てられたといわれる入母屋造の建物で重要文化財に指定されています。
7室からなる表書院はその内の5室で円山応挙による障壁画90面が、また奥書院では伊藤若冲の「百花図」など第1級品の美術品があるそうです。

・書院玄関です。


「四脚門」
黒門のさらに向こうに見えるのは、切妻造、平入(ひらいり)・瓦葺の四脚門です。
書院の正門で、黒門・四脚門は、社務所が書院に付属していた頃、勅使が来社される際や皇族・幣帛供進使が参向する場合に用いられたそうです。
現在、黒門・四脚門は普段は閉まっていて通ることができません。
(参考)
平入(ひらいり)とは、建物の大棟に平行な面、即ち、平らに入口のあるものを言います。

・「四脚門」です。


「鼓楼」
鼓楼は、朝夕時刻を知らせる時太鼓を備えた高閣です。この鼓楼は宝永7年(1710)に建てられました。

・「鼓楼」です。


・紅葉が美しい参道です。





四国旅行(その9)琴平町・金毘羅さん(2)

2010-12-08 | 旅行
四国の旅行シリーズ9回目の今日も、昨日に続き「金毘羅宮」をご紹介します。

「本宮」
金毘羅宮には「大物主神」と「崇徳天皇」がお祭りされています。

(参考)
「大物主神(おおものぬしのかみ)」
大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮(あんぐう:仮宮)を営まれ、中国、四国、九州の統治をされ、その行宮跡に大神を奉斎されたと伝えられています。
大物主神は、国造りの神様として、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様と言われています。

「崇徳天皇(すとくてんのう:1119~1164))」
崇徳天皇(在位1123~1141)は、鳥羽天皇の第一皇子として誕生され、後に第75代天皇として即位されましたが、即位から18年後(1156年)に起きた保元(ほうげん)の乱に敗れて讃岐の地に配流(はいる)された悲劇の天皇として、歴史の中で語り継がれてきました。
都から讃岐の地に移られて後、金刀比羅宮を深く敬われ、9年の歳月の間には幾度となく金刀比羅宮へ参拝されたそうです。
配流(はいる)されてから9年後の長寛2年(1164)に、上皇は病に倒れ、ついに帰京の夢を果たすことなく讃岐の地で崩御(ほうぎょ)されました。御年46歳でした。
崇徳上皇とのこのような深い縁から、金刀比羅宮では上皇が崩御された翌年の永万元年(1165)に上皇の神霊をひそかにお宮にお迎えしたそうです。

・「大物主命」と「崇徳天皇」をお祭りしている金毘羅宮の本宮です。


「神楽殿」
神楽殿は祭典の伶人楽や雅楽を奏する所で、この建物は入母屋造・檜皮葺となっています。


「絵馬殿」
絵馬殿には、各地から祈願報賽のために奉納された無数の絵馬が掲げられています。もともとは、生きた駿馬を神に奉納したのが始まりだそうですが、、後に、絵に描いた馬、つまり「絵馬」を奉げるようになったといわれています。
さらに、馬ばかりではなく、武者絵や美人画の絵馬も現れるようになりました。ほかにも、金刀比羅宮は航海安全祈願の信仰を集めていることから、特に船の絵馬が多くみられます。
絵馬殿の中に展示されているヨットは、昭和37年に日本人で初めてヨットで太平洋を横断した堀江謙一さんが奉納した”アルミ缶リサイクルソーラーボート”が展示されており、南米エクアドルから東京まで航海をしたと説明されています。

・絵馬やボートが展示されている絵馬殿です。


「神馬(しんめ)」
「神馬(しんめ)」は、神様がお乗りになるための馬で、神社に奉納する馬のことを言います。
生馬を奉納することができない時には「神馬(しんめ)」を鋳造したり、木や土で馬型を造り献納します。更に、額に馬の絵を描いて献納することもありますが、これが後に絵馬へと変遷したそうです。
金毘羅宮ではこの「御厩」で「神馬(しんめ)」を飼養しています。

・「御厩」に育養されている神馬の「月琴号」です。馬年齢は5歳、人間年齢推定30歳と言われています。


「桜馬場西詰銅鳥居(黄色の横幕:しあわせさん こんぴらさん)」
大門から150メートル程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれています。平坦な桜馬場を進み、青銅の鳥居をくぐって石段を数十段のぼると、正面に特に大きな鳥居が現れます。
これが「桜馬場西詰銅鳥居」です。
元は高燈籠の東側にあったものを、大正元年(1912)に力士の12代目朝日山四郎右衛門が現在の場所に移設して修復したそうです


・「桜馬場西詰銅鳥居」です。



四国旅行(その8)琴平町・金毘羅さん(1)

2010-12-07 | 旅行

四国旅行シリーズ8回目の今日は香川県琴平町の金毘羅宮をご紹介します。

金毘羅宮は琴平町の象頭山(ぞうずさん)中腹に鎮座する神社で、「金毘羅さん」の愛称で親しまれています。
明治維新の神仏分離・廃物毀釈(はいぶつきしゃく)が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれたそうです。
現在は,宗教法人 金毘羅本教の総本部で、全国の金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)、琴平神社、金毘羅神社の総本宮でもあるそうです。

(参考)
・神仏分離とは、神仏習合の習慣を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることです。
・廃物毀釈とは、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃するなどを指します。
・神仏習合とは、土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)することです。

・この建物は参道に面している「とらや旅館」です。 
 50数年前に小学校の修学旅行で宿泊した旅館で、懐かしいので立ち寄ってみました。 現在はうどんのお店になっていますが、おかみさんに聞いたところ、まだ旅館も経営しており、修学旅行生も宿泊しているそうです。


金毘羅さんは長く続く参道の石段が有名で、本宮までは785段、奥社まで登ると1368段になるそうです。

・参道の鳥居です。本宮まで785段の石段が続いています。


「大門」
金刀比羅宮の境内への入口で、威風堂々とした二重門は、1,650年に初代高松藩主の松平頼重候の寄贈によるものです。
楼上には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆による「琴平山」の額が掲げられています。

・大門です。ここからが境内になります。


金刀比羅宮への参拝は、江戸時代の庶民にとって伊勢神宮や本願寺と並んで一生に一度は行ってみたい夢だったそうです。

・長々と続く参道です。


「旭社(重要文化財)」
1837年(天保8年)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造の建物で、全体に多くの美しい彫刻が施されています。
神仏分離以前は松尾寺の金堂でした。江戸時代に清水次郎長の命で参拝した森の石松は、そのあまりの豪華さに本堂と間違えてここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられているそうです。
この社は、完成まで約40年の歳月を要したといわれており、楼上に掲げられている「降神観」の3字の額は、清国第一級の書家として知られる王文治の筆だそうです。
江戸の戯作者・十返舎一九が、「こんぴら道中膝栗毛」のなかにこの額を見たと記してあることでも有名です。

・旭社です。


「本宮」
785段の石段を上って、漸く本宮にたどり着きます。
本宮は、象頭山の中腹に鎮座する荘厳な社殿で、大物主神と崇徳天皇を祀り、海上安全をはじめ、国の繁栄や農漁業、医療など、さまざまな願いを叶えてくれる神様として、広く親しまれています。
御本殿、拝殿は桧皮茸、大社関棟造の様式になっています。

・本宮拝殿です。



・正面に主祭神の大物主命(おおものぬしのみこと)と崇徳天皇(すとくてんのう)をお祭りしています。


・南渡り殿、奥が本殿・拝殿です。
 本宮授与所の向かい側に長い廊下があり、本宮から三穂津姫社まで南北に渡っています。この廊下を南渡殿といい、長さが約40メートル、屋根は檜皮葺で、明治11年(1878)に建てられたそうです。




四国旅行(その7)小豆島・「オリーブ園」

2010-12-06 | 旅行

四国旅行シリーズ7回目の今日は、日本のオリーブ栽培発祥の地として知られている、小豆島の「オリーブ園」をご紹介します。

オリーブはモクセイ科の植物で、地中海地方が原産と言われています。
日本では、1910年頃に香川県小豆島で初めて栽培に成功し、小豆島が国内栽培の発祥地として知られています。現在では岡山県などでも栽培されているようです。

小豆島がオリーブ発祥の地と言われている経緯は次のようです。
今から100年ほど前に、魚の加工保存に適したオリーブ油を国内で試験的に生産することになりました。栽培地に選ばれたのが香川県(小豆島)、三重県、鹿児島県の3県でした。
しかし、三重県と鹿児島県は台風や虫の被害で失敗に終わり、栽培に成功したのが香川県小豆島でした。
これが、小豆島が日本におけるオリーブ栽培の発祥の地と言われている所以のようです。

・オリーブ記念館です。


・オリーブ園から眺めた瀬戸内海です。


オリーブ栽培の発祥の地にある『小豆島オリーブ園』は、日本初の民間のオリーブ園として1919年に開園しました。
このオリーブ園は、3ヘクタールの敷地に約2000本のオリーブを栽培していおり、今でも、日本で最も古いオリーブの原木が残っており、毎年多くの実をつけているそうです。

・小豆島「オリーブ園」のオリーブの木です。


オリーブの枝は、鳩とともに平和の象徴とされることが多いようです。
これは『旧約聖書』の「神が起こした大洪水の後、陸地を探すためにノアが放ったハトがオリーブの枝をくわえて帰ってきたので、これを見たノアは、洪水が引き始めたことを知った」との一節に基づいていると言われています。
このオリーブの枝のデザインは国際連合旗や、いくつかの国の国旗や国章にも使われているそうです。
またオリーブは、日本では香川県の県の木、県の花に指定されています。

(参考)
なお、ノアは、旧約聖書に登場する「ノアの方舟(はこぶね)」を建造した人で、イスラム教においてはヌーフと称され、アブラハム、モーセ、イエス、ムハマドとともに五大預言者のうちの一人とされているそうです。

・オリーブの実です。


・オリーブの実です。


「モーターパラグライダー」
「オリーブの園」のすぐそばの海岸では、モーターパラグライダーの愛好者が気持ちよさそうに飛んでいました。

モーターパラグライダーは、テレビや映画の空撮などでも使われるようになり、「パラモーター」や「パワードパラグライダー」とも呼ばれています。
通常のパラグライダーが山などの高度差を利用して飛び立つ必要があるのに対して、モーターパラグライダーは背中に背負ったエンジンユニットを利用して、平地から飛び立つことが出来るので、河原や海岸など他人に迷惑のかからない広場さえあれば飛び立てます。
更に、風向きに大きく左右されることもないのでフライト確率が高く、このようなことから最近では愛好者が増加していると言われています。

・モーターパラグライダーの愛好者が海岸から飛び立っていました。


・海に落ちないように安全に飛行してね。



四国旅行(その6)小豆島・『二十四の瞳』映画村

2010-12-05 | 旅行

今日からまた「四国の旅日記」シリーズの続編をご紹介します。
6回目の今日は小豆島の『二十四の瞳』の映画村です。

壺井栄の小説『二十四の瞳』は小豆島が舞台であり、島をロケ地として1954(昭和29年)年と1987年(昭和62年)の2度にわたって映画化されています。

・これはよく知られている「二十四の瞳」平和の群像です。
ファイル:24eyes-heiwanogunzo 01.jpg

「二十四の瞳」は1952年(昭和27年)に壺井栄が発表した小説で、映画化やテレビ映画化、テレビドラマ化された作品で、1928(昭和3年)年から1946年(昭和21年)までの瀬戸内海の海村を舞台に、赴任したばかりの若い女教師と、その年に小学校に入学した12人の児童のふれあいを軸に、昭和の激動の時代を駆け抜けた愛と感動の物語です。

・1954年高峰秀子主演の「二十四の瞳」の映画ポスターです。


「二十四の瞳」の映画村は小豆島の田浦地区の約1万㎡の敷地に、1987年(昭和62年)に映画化された時のロケで使用された「岬の分教場」と大正から昭和初期の民家、男先生の家、漁師の家、茶屋、土産物屋など14棟のオープンセットが公開されています。
他にも、小説家・壺井栄を顕彰して設立された「壺井栄文学館」や「二十四の瞳」だけを上映する映画館「松竹座」などの施設があるそうです。

・映画と文学のテーマパーク「二十四の瞳」の映画村です。この中にオープンセットが公開されていますが、私たちは入場しませんでした。


この映画村は昭和62年に監督朝間義隆、主演田中裕子で再映画化されたときに建てられたオープンセットをその当時のまま保存しているようです。
壺井栄の郷里である小豆島に建てられたこの施設は、大石先生と生徒12人のふれあいを通じて、反戦と子弟愛の深さを今も人々の心に刻んでいると書かれていました。

・映画村の中を案内している看板です。


・ボンネットバスです。映画村と岬の分教場(旧田浦尋常小学校)の間、約600mを無料で運行しています。


・「岬の分教場」の原型となった1902年に建設された旧田浦尋常小学校です。


・旧田浦尋常小学校の校舎です。


(参考)
「二十四の瞳」のあらすじ(ウィキペディアより)
 1928年(昭和3年)、大石先生は新任の女教師として小豆島の岬の分教場に赴任します。1年生12人の子供たちの受け持ちとなり、田舎の古い慣習に苦労しながらも、よい先生になろうとします。
 ある日、大石先生は子供のいたずらによる落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂し、長期間学校を休んでしまいますが、先生に会いたい一心の子供たちは遠い道のりを泣きながら見舞いに来てくれます。
 しばらくして、大石先生は本校に転勤します。そのころから軍国主義の色が濃くなり、不況も厳しくなって、登校を続けられない子供も出てきます。
 やがて結婚した先生は軍国教育はいやだと退職してしまいます。
 戦争がはじまり、男の子の半数は戦死し、大石先生の夫も戦死しました。そして母親も末娘も相次いで世を去ります。
 長かった苦しい戦争も終わり、大石先生はまた分教場に戻り教鞭を取ることになりました。教え子の中にはかつての教え子の子供もいました。その名前を読み上げるだけで泣いてしまう先生に、子供たちは
 「泣きミソ先生」とあだ名をつけました。
 そんな時、かつての教え子たちの同窓会が開かれます。その席で、戦争で失明した磯吉は一年生の時の記念写真を指さしながら全員の位置を示します。
 真新しい自転車を贈られ、大石先生は胸がいっぱいになり、涙があふれてきました。その自転車に乗って大石先生は分教場に向かいました。

 


熊取町「山の手台」の紅葉

2010-12-04 | 地元紹介

昨日までの「四国旅行シリーズ」を1日お休みして、今日は、私が住まいしている大阪南部・熊取町「山の手台」の紅葉をご紹介します
何故ならば、「山の手台」の遊歩道の紅葉は、紅葉の名所として有名な小豆島の「寒霞渓」にも、決して引けを取らない美しさだと私は思っているからです。
読者の皆様はこの山の手台の紅葉の美しさを画像でご堪能ください。

山の手台住宅地には300mほどの遊歩道があって、その両脇にはカエデの木が植えられています。
このカエデの木が、毎年、秋の紅葉シーズンには紅葉のトンネルを作ってくれます。
そのトンネルを歩くとき、まるで自分が映画の中にいる主人公のような錯覚を覚えるから不思議です。

・これは昨年12月に撮影した遊歩道の紅葉です。


今年も、この遊歩道のカエデを、紅葉の始まりから見ごろになるまでの推移を撮影しました。

・11月8日時点でのカエデです。道路側(西側)のカエデが、一部紅葉し始めたところです。


・11月14日時点では、遊歩道の北の方(手前)はまだ緑の葉が殆どでした。


・11月18日、太陽の関係でしょうか?道路側(西側)のカエデは紅葉が目立つようになりましたが、遊歩道の右側(東側)のカエデはまだ殆どが緑のままです。


・11月24日、遊歩道の右側(東側)も少し色づき始めました。


・11月24日、道路側(西側)は順調に紅葉が進んでいるようです。


・11月27日、西側のカエデを道路側から撮影しました。素晴らしい紅葉が出現しました。


・11月27日、最初に紅葉し始めたカエデはすっかり赤くなり、見事な姿を見せてくれていますが、東側はまだ黄色の状態です。
 昨年(最初の画像)と比べて、今年は東西のカエデに紅葉の時期にずれが生じています。 これも異常気象の関係でしょうか?


この遊歩道の東側にあるカエデは、今年はきれいに紅葉することなく、昨日の突風で無残にも飛び散ってしまいました。



四国旅行(その5)小豆島・寒霞渓(2)

2010-12-03 | 旅行

四国の旅日記シリーズ、5回目の今日も昨日に引き続き「寒霞渓(かんかけい)」の紅葉をご紹介します。

寒霞渓は、1600万年前の火山活動・地殻変動や1300万年前の火山活動、その後の火山活動により角礫岩(かくれきがん)を含んだ凝灰岩が堆積し、浸食作用によって誕生したそうです。
日本三大渓谷美の一つとも言われており、表・12景、裏・8景からなる自然が創りあげた岩山には、50種類もの紅葉植物が自生しているそうです。

私が訪れた11月21日は、秋空のブルーと紅葉が見事に調和しており、日本の秋の自然美を満喫してきました。

・山上駐車場から寒霞渓の展望所に行くにはこの道を通ります。右奥は三笠山への登り口で、途中には「阿豆枳辞摩(あづきじま)神社」拝殿などがあります。


・大渓谷の中を上ってくるロープウェイです。


・当日は、遠方は霞んでいましたが、近場の紅葉は素晴らしいものでした。


・三笠展望台からの眺めです。



・こちらも三笠山からの眺めです。


「阿豆枳辞摩(あづきじま)神社」拝殿
阿豆枳辞摩(あづきじま)神社は国魂神(くにたまがみ)をお祀りする神社で、本社は東方約1.5kmの星ケ城東峰・西峰にあります。この拝殿は両者を遥拝する拝殿(おがみど)だそうです。

(参考)
国魂とは、神道の観念の一つで、国または国土そのものを神格化したもの、或いは、大国主神の別名に「大国魂神」があるので、国魂神を大国主に習合させたものと考えられているそうです。
ここの阿豆枳辞摩(あづきじま)神社にお祀りしている国魂神(くにたまがみ)は前者なのか後者なのかは確認していません。

・「阿豆枳辞摩(あづきじま)神社」拝殿です。


・「寒霞渓経塚」です。経塚は、経典を永く後世に伝えるために、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚をき築いたものです。





四国旅行(その4)小豆島・寒霞渓(1)

2010-12-02 | 旅行
四国の旅日記シリーズ、4回目の今日は、紅葉が美しい香川県小豆島の「寒霞渓(かんかけい)」をご紹介します。

小豆島は瀬戸内海の東部、播磨灘に浮かぶ島で人口は約32,000人です。古くは「あづきしま」と呼ばれ、日本書紀にも「阿豆枳辞摩(あづきじま)」の記述が見られるそうです。
香川県では高松港から土庄港行き、草壁港行きフェリーが出ており、私が乗った草壁港行きのフェリーでは約50分を要する海上にあります。

・「寒霞渓」のPRには必ず出てくる眺望です。紅葉シーズンだったためロープウェイの乗車には40分以上の待ち時間があったようです。私は山頂まで車で上りました。


今日ご紹介する「寒霞渓(かんかけい」は、小豆島東部にあって、東西7㎞、南北4㎞の大渓谷です。
この「寒霞渓(かんかけい」は、古くは『日本書紀』に応神天皇が岩に鉤(かぎ)を掛けて登ったとの記述から、鉤掛山(かぎかけやま)、神懸山(かみかけやま)と呼ばれており、後に、明治の儒学者・藤沢南岳が「寒霞渓」と命名したそうです。

・瀬戸内海国立公園 「寒霞渓」を示している石碑です。


瀬戸内海国立公園に含まれている「寒霞渓」は、大正12年(1923年)に「神懸山(寒霞渓)」として国の名勝に指定され、瀬戸内を代表する景勝地となっています。
1983年(昭和58年)には「21世紀に残したい日本の自然100選」にも選ばれています。

・国の名勝に指定されている「寒霞渓」です。紅葉と奇岩が素晴らしい眺めでした。


小豆島は、古代王権中期の3世紀頃には応神天皇が小豆島を行幸し、各地にはその伝説が残っているそうです。
この頃は吉備国(現在の岡山県)児島郡に属しており、その後、備中倉敷代官所に支配されたり、津山藩(現:岡山県)の領地になったりしましたが、明治維新の廃藩置県で倉敷県に属し、その後、香川県や愛媛県に属すなど所属が転々としましたが、明治21年に現在の香川県に属したそうです。

・落葉の絨毯を踏みしめながら、紅葉した林の中を歩いてきました。まるで映画のシーンの中を歩いているような感じでした。


・寒霞渓からの眺望です。紅葉と奇岩、そして瀬戸内の海が望める大パノラマは素晴らしいものでした。