KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

分かれ道

2009-06-06 | KOFUKU日記
私は時おり演劇教師として、その道を歩みたい人の前に立たせて頂くことがあります。
オーディションで人を選ばなくてはならない時もあります。

たぶん、趣味的に芝居を学んだり、体験する為の先生としては、結構受け入れられ喜ばれているんじゃないかと思います。

ところが、これが「本気の導きおねがいします!」って事になると、かなり嫌な奴ではないかと思うんですね(^^;)

私は真実を求めなくてはいけない人に嘘がつけない。
相手が本気である以上、なお更です。
バカ正直に真剣に答えます。

でも、真剣であればあるほど、その世界を求めている訳で、自分の持つ答えが、その人の求めている答えのマ逆にある場合など、伝えるのは本当に心が痛い。

私だって好きで好きで仕方のないものだから、誰よりもわかる。
でもだからこそ、中途半端な励ましなんて出来ない。
わたしの答えは相手の魂の歩みにふかく深く関わってるのだから。
ああ、でも痛いよう~、って感じなのですよ、いっつも~。

好きであるという事は、全ての可能性に繋がることも確かだけれど、芸事の世界って、不思議だけどそれだけでは出来ないわけで。。。。
厳しいけど、いろんな意味で「才能の世界」なんだと深く実感しています。

ぶっちゃ気て言えば、オーディションで実技を見なくっても、この子は受かるなって子は受かるもの。

かくいう私も某劇団研究所時代の親友も、オーディション時は履歴も技術もたいしたことなかったが、オーディション受ける前に事務員の人に
「きっと春には会えるわよ。だってあなた、受かるもの」
と言われ、その通りになった人です。

親友は200人くらいがひしめく会場で、楽譜を握り締めて立っているだけでしたが、
「ああ、あの人が残る」
と訳もなく解った。生まれ持った華とか才能って言うのはそういうもの。

決して努力が無意味なんて思わない。それはものすごい力だから。
ただやっぱり、残る人にはそれなりの何かがある。
それは努力だけでは培えないもので、それがあって、初めてその場に立って努力する力が問われるんではないか?
そんな気がするくらい。

そういうものがこの世界には確実に存在して、そういうものがないのはある意味。。。。
本当にここは厳しい世界です。

もちろん、わたしの判断やチョイスを確実とはいえない。
単にわたしの感覚的な判断でしかないから。
でも選ぶべき立場だったり、言葉をかけなくてはならない立場だとすると、それを伝えることが相手に一番誠実であると感じているから、そうするしかなく。。。

これがな~、カウンセラーやセラピストならば、こうする事でこんな風な対策が取れますよ~、とかって可能性を伝えることも出来るのかもしれないが、ここはそれで生きてくか、どうかって言う究極の選択なんである。。。
そんなところに関わらなくちゃいけないってのは、厳しい。

コーラスラインのディアナは演劇学校で学び、全く役者に向いてないといわれるが、それを棄てて役者になったわ、と歌う。
そういう事もあるわけですからねえ、実際。

某劇団在団中の頃、私の同期はいろんな意味でエリートが多かった。
でも、年に3回ある試験の時、肩書きのいい人から切られていった。
ある時、A先生に直接聞いてみた。
「なんで、私みたいなのが残って皆が落ちたんでしょう??」と。
そうしたら、先生が言った。

「あの子たちには芝居のほかに才能があるんだよ。
その才能でこの世の中を渡っていける。
芝居で生きて行けないのならば、自分に与えられた才能で幸せになって欲しい。
俺はこの劇団に来て、芝居で生きていけないと判断された奴には、みんなこの機会に芝居を諦めて止めて行って欲しいと願っている。
才能がないのに、それを求めてやり続けるなんて酷だ。
間違ってると思ったら教えてやる。それが俺の親心なんだ。
オーディションで残る奴ってのはこの世界で生きていくだけの才能の芽が確実にあるもの。
その後に残っていくのは、この世界から必要とされる者とこの世界でしか生きていけないものなんだ。
おのずと選ばれるんだよ、その世界から。解るだろう?」

私はこの言葉を決して忘れない。

無名塾でも、才能がないと判断されたものは、塾長からこんこんと他の世界に進めと諭されて辞めさせられたと聞く。
何千人の中から、数名しか残れなかった中にもそういう淘汰はある。
才能って言うのは一言ではどんなものか言い表せないが、その存在は大きい。

夢の街では外で演技や歌やダンスを教えている方がたくさん来てくださっていた。
それで、「才能ってあるよねー」ってそういう話題がおのずから挙がることが多かった。

ある時、ある先生がある子ども中心の劇団の公演で指導と出演をされることになり、主役二人の子の話をしておられた。
二人とも技術的には全く同格ぐらいだが、持っている才能が違うんだ、と。
一人の子は何でもできるが、それだけだ。
もう一人の子は、何をやっても響くんだよ、あれが才能ってもんなんだよなあ、解るでしょ?と。
うんうん、わかるわかる、って答えたのを覚えてる。
才能って見える。ってか見えてくるものなんだよなあー。
はああああああ。

教えていると「好き」と「出来る」のこのジレンマに直面する。
好きも努力も才能の一つよー、としかいえない自分が居たりして。
現実から逃げてるな、アタシ、と思ったりもする。


でもなー、周りを見渡すとやれてる人ってのはみんな自分の才能をおのずと知っている人ばっかりなのだ。
好きってだけの人はプロにはなれないんだなって思う。
好きの上に才能があったからなれてるんだけど、やってる人は「好きなことやってただけですー」と言うのが事実だったりもするから、それを聞いて、みんなも好きなら出来るんだと勘違いもするんじゃないか?と思うくらいデス(^^;)

先生としてはある程度の大人になって選択肢として「可能性ありますか?」と聞かれたら「先生はこう思います」とはっきり答えることにしていますが、一番困るのは「やりたいんです」と言われて、問題が見えるときで、そういう人ほど何とかなりたいと思ってるだけに。。。。。
相談された方は本当に胸を痛めるものなのですわ。
だって人生の上で本当に大事なことだから。

この考え方は母の影響もかなりありますね。
わたしの母は戦後、某歌劇団の学校を3ヶ月で卒業し、娘役トップをやっていた人です。
彼女は芸事の何事にも評価の厳しい人で(^^;)何よりも、やってる人に華、つまり才能があるかないかを問う人でした。

「いい役者ってのは顔や身体は変でも、技術がある無しだけじゃないのよ。
一目見てぱっとこう、ひき付けられる物があるかないか。
そこが問題なのよ」

その母はいろいろなことでアドバイスしてくれる人でしたが、私が役者になりたいといった時、全く止めることもなく、それどころか勧めてくれました。
その理由は「あなたには何もなくても才能がある。私にはわかる」と(笑)
根拠は?って聞くと、「解るのよ。同じ人種だから」と。
で、その時、一緒にオーディションを受けた子には「おばちゃん、○ちゃんには無理だと思うけどねぇ。
まあ、やりたいならやってみれば?」と冷えた言葉を。
何でああいう事言うのさ!と怒ったら、「だってないものは幾らやっても出来るようにならんもん。可哀想だがね」と(^^;;;;)
でもその予感は当たり、彼女は落ちて、その後何度もチャレンジしたけど、受かる事はありませんでした。
その母は「早く舞台に乗りなさい。役者は舞台の上が一番成長する。才能のある人は特にね。」と言っていました。
長年やってきて、その感覚や言葉には真実があったと感じています。

それにしてもねえ。難しいですよねえ。
自分の事じゃないしねえ。

ああ、神様、才能発見器を人間に内蔵してくださいな。
それで、多くの人が願いどおりの道を歩むことが出来たらいいなあと願います。

あんじゅ、今日の迷いの言葉でした(^^;
ああ、ぴーちゃんみたいに迷わず生きたい。。。。