KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
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南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

空へ~永遠の愛を

2011-03-09 | 神様、天使、平和の祈り、愛の言葉



「あなたのもとに召された私達の家族、友人を
あなたの国に迎え、栄光に与る喜びを御与え下さい。
不慮の死を迎えた人々を顧みて下さい。
その罪を赦し、家族の悲しみをやわらげ、
へりくだる者に約束された慰めを御与え下さい。
あなたのもとに召された全ての人が、
永遠の喜びに入る事が出来ますように。
私達の祈りを聴き容れて下さい。」

*亡くなられた方々の為の祈りより*




何年も前の昨日、大事な人を天国へ見送りました。
それから春はなんだか切ない季節になりました。

そして、やっとその出来事から立ち直れるかと思えるようになった去年の秋、
再び、しかも永遠を誓った心から愛する人を天国にお見送りしました。
そして秋もせつない季節になりました。




先日、2月の終わりの日に、相方さんと同じ舞台に立たれていた
とても素敵な俳優さんが亡くなったとお知らせがありました。

私は直接の面識がありませんでしたので、
心からご冥福をお祈り申し上げるだけにしました。

昨日、今日とセレモニーだったと伺いました。
くしくもソウルメイトの命日でもあって、
さらに切ない気持になりました。


大事な人をお見送りすると言う事は、それがどうしようもなく、
仕方のないことだとしても、本当に切なく寂しいものです。

時間が解決するよと言うけれど、見送った人と
本当に近しいものにとってはそれは嘘です。

経験からいえば、時間は何も解決してはくれません。

なぜなら、時が経ち、悲しみは確かに薄くなってきても、
愛した事実はいつまでたっても変わらないからだと私は思います。

だから、どんなに時間が経っても、その人への愛があればある程、
その愛を思い返すたびに喪った悲しみに引き戻されます。

でも人は、その悲しみを感じるからこそ、愛し愛された喜びの感謝、
つまり悲しみに負けない強い「愛」に変えていけるのではないかと思います。
ただ、その道のりは長いです。


もう十年近くも前になるけれど、ソウルメイトを失った時、
大好きで尊敬していた先輩がこう言ってくれました。

「傷は消えない。でもかさぶたにはなる。」

そう言う事なんだと思います。



本当に大切な人を失うと、まるで自分を失った様な気持ちになり、
居なくなった人が、日々、世界から消えていくと言う寂しさに
心の底から不安に、悲しくなるものだと思います。

それは自分の生きて来た人生そのものを失う事でもあって、
また人間の記憶の不確かさに不安を覚え、
大事なあの人を忘れてしまうのじゃないかと不安になり、
そしてそんな自分に嫌になったりもします。

かといって写真を見たり映像を見たり、思い出の場所に行ったりするのは
喪った悲しみ寂しさもありありとよみがえってしまうので
そう言う簡単な事をすることがとても難しくなってしまいます。


そういう時、その人を知る人と関われるのはとても幸せなことです。
共通の思い出の中で笑顔で生きるその人を
喜びの内に想い出すことが出来て、
人と居ることで悲しみに陥らずに済むからです。


そして何より、その人がしっかりとこの世で生きていたこと、
自分のもっとも尊い「愛」という過去が確かにあったこと、
そして、いまもその人と愛情においてつながれることが
その人が目の前からいなくなった今でも確かに理解できるからです。

それがどんなに慰めになることか。

だから、もし、あなたの傍に
大事な人や大切なものを失ってしまった人がいたら、
こんな時、どんなことを言っていいかわからないなんて言わないで、
どうか、声をかけて欲しいなと思います。

「大丈夫」かを聞くのではなくて、
その人が、そしてあなたご自身が愛した人や友の話を
どうかあたたかく語り合ってほしい。

直接、語りかけられなければ、メールでも御手紙でも何でもいいのです。
実際、近しい関係だった人は辛くてなかなか人に会えるようにもなりません。
そう言う時こそ、メールや手紙が嬉しいものです。
「今頃、どうしているだろうねぇ」って、それだけでいいんです。

たったそれだけで一瞬だけでも「いなくなる」寂しさと悲しみが去っていきます。
そこに大事な人を見いだせるからです。
仲間が覚えていてくれるんだと言う事に安心を覚えます。


でも大体、人が去ってしまうと、家族と親しい関係でもない限り
仕事も変わりますし、自分の親しい友人以外には会う事もなくなって行き、
逝ってしまった人と同じように、その人の友も去ってしまうものです。

生前親しかった人、葬儀でいろいろ逝ってくださる方ほど、
疎遠になると寂しいものですが、それきりになる方も多いです。

お友達の中でも本当の意味で思い出になっていき、
常には想い出せなくなるからかもしれません。
とにかく過去のものになっていくからでしょうか…
仕方ない事ですが。でも本当の理由は解りません。


でも去ってはいかない方も居ます。
悲しみに添おうとしてくださる方も居ます。

たとえ、それが自分の直接の友ではなくとも、
亡くしたひとを本当に大事に思う人たちは、
その周りに居た人の深い悲しみが解るからでしょう。
同じように悲しみを持つ人を思いやれるんだと思います。

なぜならその人にとっても去って行った人は大きな存在で
決して忘れられない人だからかもしれませんね。
そう言う人は同じように悲しみを抱えた人の事を決して忘れません。
そして何より、相手の悲しみに目を向けて助けようとしてくれます。


私はそういう愛ある人たちに助けられてきました。
声をかけてくださる人は自分が直接知らなかった方も多いです。

人がなくなって、時がたって、人々の悲しみが薄れてくる頃、
初めて誰が本当の愛を持った友人だったか解るものかもしれませんね。

実際、そう言う人は少ないですが…。
でも人数は少なくても、そう言う人の愛は大きいです。


人は誰かを亡くして、自分も亡くした人の為に働き、
忙しくしているときは友もそれを見て覚えているので声をかけますが、
もうあまり思いださなくなってくると火が消えたように静かになります。
それは本当に寂しくて悲しい静けさです。

3か月くらいたった頃からがそんな時期です。
喪った人の家族にとっては、その頃くらいからが
本当の深い悲しみと寂しさの始まりだと言えるでしょう。

私の場合、以前の時そうでした。
そして今もそうです。

そんな寂しい静けさが訪れたとき、
真の友の愛が訪れてくれるのは安らぎです。

私ももう相方さんを失ってから3カ月が過ぎ、
間もなく4カ月目を迎えますが、
折に触れ、思いを向けてくださる方の存在に救われています。


おかげで外に出られずとも、誰と話をしなくても
一人ぼっちにならずにすんで、
愛した人を誰かと共に感じることができます。
本当にありがたいことと思い、愛に感謝しています。


こうして深い悲しみに直面してみて、そう言う愛に触れてみて初めて
こういったことが人間にはとても大事なんだと解りました。

そして本当に友情を行使する時はこういう時なんだなぁって解りました。
その場にいなくなってこそ、愛を向けられるかが大事なんだって。

いなくなった人をこの世に生かし続けるのは、
生きている人の大きな役目なんだなぁって。

誰かの死を語る事は生きることを語ることなんだって今は解ります。
そしてそれがとっても大事なんだなぁって思います。


だから私も、そういう人が傍に居る時、
あたたかい静かな愛を向けられる人になりたい。

この世を旅立った人の生きた事実を自分の中に生かし、忘れず、
その記憶を、その人を失って、もっとも悲しみを持つ人と共有できる、
そんな愛情を持てる人間でありたいと願います。


天に戻られた俳優さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

そして、悲しみの内に在るご家族さまに、
これからもずっとずーっと、
たくさんの愛ある方の助けが傍にあり続けますように。