KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

「あたりまえ」

2011-10-27 | KOFUKU日記

《今日もちびさんたちは元気。いたずら思案中のやんちゃボーイまろ君です》

今日も冷える朝でしたね。
関東では昨日、木枯らし一号も吹いたとか。
こちら南国は明日からまた気温が上がってくるようです。
皆様も気温差で体調崩さないようにご自愛くださいね。


これ、甥っ子ちび君が針金ハンガーで作ってくれたバナナスタンドです。
ぶら下げておいて、甘くなるまで待つんだそうです。
今、甥っ子ちび君はバナナが甘くなるまでの変化を観察しています。

さて、これを見ていたら、ちょっと思ったことがありました。
このところ何も考えることもできないまま、ぼーっと過ごすことが多いワタクシではありますが、そんなワタクシもたまにはなにかを感じることもございますのです。

こちらに来て2か月、環境は大きく変わりました。
なかでも顕著な変化は「家族と暮らしていること」です。

これまで私は基本生活を俳優として生きてきて、さらにパートナーも同業であったので、日常の生活もその俳優業に準じた生活で、たぶん一般の家庭生活とは大きく流れが違ったと思います。

さらに通常の家庭生活の中で、家族と暮らすというのは、俳優業をやっていたとき、そして一人で暮らしている時とは違って、いろいろな種類の「毎日のあたりまえ」が生活に出てまいります。
特に子どもや20代前半の女の子、おじいちゃんと幅広くおりますといろんなことがございますね。

自分のこれまでの人生を振り返りつつ、今の生活を過ごしながら、いま強く感じていることは、「いつものこと」、つまり「普段がどうあるか」って、ほんとうに大事なんだなぁ、ってことです。

薩摩人の気質として、特に男性が「なにかと冗談を言う」というのがあります。
ちょっと大阪の方ののりつっこみと近いものがあるかもですが、のりつっこみと言うよりは、真顔で冗談を言う、みたいな面白さでしょうか~。
しかもかなりベタなおやじギャグ系です。
こちらの女性にはそれを笑って受け流すパワーがあります。
でもその気質って、日常の生活の中ではとても重要な役割だなと感じています。

私の父は紛れもなく薩摩人気質なのでありますが、たとえば、ごはんの時に私の父はいつも当たり前に「これはおいしいねぇ」と言います。
そして、「まるでフランス料理のようだ」とか、あれこれと食事に関して、面白おかしくギャグを言うわけです。

いささかうるさいのですが(^_^;)でも、この父のつまらないギャグと「おいしかねぇ」のおかげで家族はおいしくご飯を食べられるわけですよ。
笑顔がある食卓と言うのは作ったものにも、同席するものにも気持ちの良いものです。

私が言いたいのは、これが毎日の当り前であることが、いかに大切かってことなんです。
こうやって、楽しく食事をする場所で育った人は、大人になっても同じように「おいしいねぇ」と言える人になる確率が高いと思うからです。

同じように、私の妹は毎日帰ってくると洗濯機を回し、お洗濯をして、洗濯物を干します。
だから、甥っ子も家族も毎日、きれいなものを着ていられるわけです。
この毎日の当り前を見て育った甥っ子はきっとこれが「当たり前」と認識して育つわけですから、自分で暮らすときも、そのように動こうとするでしょう。
そして、毎日それを繰り返すことが以外にも大変であることを知るでしょう。

私が人生を振り返って経験したことから感じるのは、ここからのお話なんです。
人は成長して、自分自身である程度行動ができる、または独立して生きることになったとき、この当たり前が大きな力を発揮するのではないかな、ってことなんですね。

シュタイナー教育を学んでいるとき、7歳までの子供は親を絶対として模倣すると習いましたが、本当にそうだと思います。
私は恵まれて、沢山の親御さんや子供たちに接する機会を得ましたが、驚くほどに子どもと言うものは親を模倣しているものだと思いました。
特に年齢が低ければ低いほどそうで、親ができないこと、しないことは、当然ながら子どももできません。

たとえば何事も努力するお母さんのお子さんは、お母さんから見てそうは思えなくても、他人から見たら、やっぱり努力のできる子供であったりします。
反対に、何もしないお母さんのお子さんは、やっぱり何もできない子供の方が多いです。
やれる才能はあるのにやれないのです。

ただし、おこさんの目覚め方によっては、反面教師で物事を気を付けるお子さんが居たり、中には反抗期が育ちすぎてやらない子もいますかた、一概に全部がそうだとは言えないのですが、多くの人がそうでした。
その統計をかんがえるとシュタイナーの言っていることはおおむね正解なんだと思います。

報道なんかを見ていると良く学校や教育機関に子育てを任せてしまう親御さんもいるようですが、やっぱり表面的に学ぶことよりも、大きく影響するのは、生活を共にしている人の生き方なんだなって感じます。

大変なことをやることは人間だれでも大変ですよね。
でも、そこから「それをがんばる」っていう影響を与えるのが、日々のあたりまえなんじゃないか?って思うのです。

たとえば、さっきのお洗濯で言えば、一人暮らしをして、または結婚をして、毎日お洗濯をしなくてはならなくなった時、まいにち頑張れるかそうでないかは、確かに個々の性格もあるかもしれないけど、それ以前に記憶に刻まれた「あたりまえ」なんじゃないのかって思います。

お母さんが毎日やってくれたな、お母さんも毎日やってたな、ってことが記憶にある人は、なんとなくですが「よし、がんばろう」って、大変さを自分の生活の当たり前にしていく努力ができる気がするんです。

けれど、そういう記憶がなく、親もめんどくさいからとかってやってなかったとすると、やっぱり「面倒だから」「親もやってなかったし」って、がんばる努力をしない気がするんですよ。
しかもできないんじゃなくて、しない。やりたくない気持ちに負けちゃうというか、面倒とか眠いとかって欲求に負けちゃう気がしてたりします。

ある所で、若い子がお友達に「自分の家なら自由だよね。だらだらできるし」と言うのを聞きました。
正直、私はその子はどこに行ってもダラダラするんだろうなって思いました。

なんというか、好きな人の前で最初の頃だけきちんとしている人って多いじゃないですか?
あとからどんどんいいかげんな?それとおんなじ感じといいますか。

でも、私、思うんですよね。
ある程度、気は許しても、普段からいい加減じゃない生活のできる人は、どんなに月日がたってもいいかげんにはならない、って。

逆にここだけならいいでしょ、って普段からやってる人、家の中だからってダラダラしてる人は、どこに行っても、誰の前でもいいかげんになっちゃう気がします。

だって、結婚って、そういう「家」になっていくわけじゃないですか?
その人が家って認識したら、そんな風にいいかげんになるのは目に見えてますよね。

美しさのある生活を創るには、やっぱり日々の当たり前がだいじだなぁって思います。
そういう努力ができる、美しさをつくる努力のできる気持ちを育てるために、とっても大切だなぁって思います。

生活だけでなく、優しさとか思いやりとか、そういう気持ちの当たり前もおなじだなって思います。
だから、生活の中で、どんな言葉や考え方があるかってことはとても重要なんだなって思う。
その当たり前が新しい当たり前を創っていくからです。

こんなん書きますと、あなたのお家はどんだけちゃんとしてるわけ?って言われそうですが(・。・;
普通の、というより、普通よりもぜんぜんくだけた家かと思います。
甥っ子は男の子ですし、言葉も行動も荒いと言えましょう。

でも、妹親子のすがたをみておりますとね、他のお家と比べても、愛情が深く、笑顔が多い家だなぁと思いますのですよ。
しかも子どもがその笑顔や愛情をしっかりと感じているのがわかります。

他のお家より貧しいけれども、その中で生きるための術や工夫、子供が楽しんで生活できるように親の努力が生活の中にしっかりとあります。
親が子どもや家族のために手を動かし、心を動かす姿があります。
そして、何よりも親がこどもにしっかりと語りかける姿があります。
一緒に冗談を言い、遊び、学ぶ姿があります。
それは思い返せば、私の父や母もそうでした。


わたしもいいオトナの人間として、出来ずとも努力のできる人間でありたいなと思いますし、家族に小さい人がいるので、美しい当たり前を過ごせる人でありたいなと思っています。

よーし、がんばろ~。