三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【家の終わらせ方「終家」を考える】

2016年05月03日 06時33分55秒 | Weblog
一昨日の投稿、【空き家と廃屋に見る未来~「終家」問題】への関心が
たいへん大きかったようです。
建築を考える人たちばかりでなく、多くのみなさんが気付きはじめている。
分散的な家族形態、都会では家族数が2人を切って、1人台に近づいている
そういうなかで、家の総数だけはまだ増え続けている現実に対して
いったいどういう未来形があるのかと、想像を巡らしはじめている。

そきっかけに、崩壊する家屋、廃屋の風景は
シンボリックに入ってくるものがあるのだと思います。
朝日新聞が流行らせはじめたと言われている「終活」というコトバ。
規格大量生産社会は、現代のわれわれの住宅に大量にその痕跡を残している。
家の中には、絶対に業者が値を付けないようなモノたちがひしめいている。
まずそのようなモノたちの処分問題が大きくなってくる。
少子化社会では、夫婦がそれぞれの親の住む遠隔地の家の
処分の責任がのしかかり、場合によっては自分の家も含めて
3軒の住宅の片付けに忙殺されることになる。
ただでさえ、女性も貴重な労働力として社会進出が期待されている中で、
一方で、こういう「親片~親の片付け」という新たな家族のための仕事が増える。
そのためには、たとえば北海道内で考えても
子世帯が札幌に住んでいて、夫婦それぞれの親が道東と、道北に家がある、
というようなケースでは、子世代はたいへんな労力提供を余儀なくされる。
1軒の家は、その家財道具を含めてずっと使い続けたままに
その利用者に死が訪れ、その片付けには肉親だけしか責任を負えない。
残された家財道具に対する相続すら対応しなければならないし、
モノの仕分けだけでも遠距離を何往復もしなければならない。
その交通費も、労働もすべて無償の持ち出しになる。
しかも仕事に従事しながら、こういう作業を休日だけにするとすれば、
期間は相当長期にわたらざるを得ない。
モノには、人間の尊厳もかかっているから、おいそれとはいかない。
そうやってようやく片付けた後、家屋をどう処分するかを決める必要がある。
売れたり、賃貸にまわせればそれでいいとして、
そうでない場合、大量の廃棄物の処分と、建築の処分費用まで
残された子どもの責任にならざるを得ない。
今の時代、解体するにも「分別解体」が必要とされ、木造1軒でも
100万円は下らない金額が必要とされている。

本当に近未来、こういった作業をせっせと日本人はこなすのだろうか?
やはりこういった社会構造の見通しの中で、
合理的な処分方法を、わたしたちは生み出すことになるのだろうと思う。
もっといえば、いまある資産としての住宅に、
早急に価値判断の「分別作業」を行っておくべきではないのか。
手に負えなくなってからでは、対応のしようが無いと思われる。

コメント
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