三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【エネルギー過剰活用社会を正す思想・論理】

2016年06月06日 05時22分29秒 | Weblog


きのうのブログで、エネルギー問題について書いたら、
けっこう多くのみなさんからコメントをいただきました。
「哲学的」とか言われた方もいて、そんなに読みにくかったかと反省。

ちょうど、空海さんの事跡を司馬遼太郎さんの小説で読み終わって、
仏教などの世界宗教というものは、かつて人類社会が経験してきた
国家という共同幻想・権力創成期と重なっていると思えていました。
国家・権力を受け入れるときの葛藤と宗教は共通の根を持っていたと思う。
で、いまわたしたちが遭遇している地球環境問題は、
このような歴史とも比肩しうる大きな転換期ではないかと思うのです。
でありながら過去の歴史と較べて、いまの地球温暖化問題には
そのような人類的思想の葛藤がそこまでは感じられない。
現代のエネルギー過剰活用社会は、西欧で勃興した産業革命以来。
この革命によって、世界の植民地化が進み、戦争が繰り返された。
それはエネルギーを過剰に集中させることで
制御不能の暴力的権力を必然化させ、その相克が危機をもたらせた。
そうした技術体系・社会システムが現代世界の基本システムになっている。
いまの地球温暖化、エネルギー危機は、そこに由来する。
エネルギー過剰活用が全地球規模で一斉に始まって
一番最初にエネルギー大量消費の利益を享受してきた西欧社会が、
「もうこれではやっていけない」と宣言し、
突然ヒューマニズム全開で自罰的制御を全人類に押しつけている。

このエネルギー過剰活用社会そのものについてどの考えるべきか、
そこについては、根源的にはまったく議論もされていない。
いわばそれは疑いようのない「公理」とすらされているけれど、
はたして人間の幸せはエネルギー利用でしか果たせないのか、
そこから論議が起こっても良いはずだと思う。
世界史的にロシア革命からの共産主義思想は、資本主義の暴走、
過度な労働の搾取を抑制する「思想」として機能したといえる。
現代世界のこういう問いに、宗教や思想は答えるべきではないか。
答えられないのであれば、違う角度からの思索があってもいい。
そういう骨太な議論抜きだと、矮小な技術論にしかならない。

東大の前真之准教授からは、スイスの最新の考え方の紹介があり、
持続可能な人類社会を展望すれば、
普遍的に人間一人が使えるエネルギー量は2KW以内とされていた。
<写真は氏の講演より>
ワットとは、我々が使用するエネルギーの率を表示する電力単位。
現在、平均的な欧州人が年間約6,000ワットを消費するのに対し、
米国で12,000、中国で1,500、バングラディシュで300ワット使用。
その限度以下にエネルギー利用を抑制すべきだという「思想」。
そこまでの骨太なモノサシ、議論をもって、
この現代的課題に立ち向かう必要がある気がします。





コメント
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