三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【在宅医療と住宅 「生き方」相談の近似性】

2017年03月24日 06時55分55秒 | Weblog


きのう夕方、札幌市立大学の齋藤雅也先生からお誘いを受けていた
公開講座を受講して参りました。
在宅医療というのは、定義をすればWikipedia的には以下のようになる。
・・・狭義には、緩和医療などの医療者が通院困難な患者の自宅もしくは
老人施設などを訪問して医療を行うことである。 広義には、「病院外」で行う
すべての医療のことである。例えば処方してもらった薬を自宅で飲んだり、
注射薬を使用しつつ職場に通ったりするなど、通常社会生活を行いながら、
自宅で行う医療、継続する医療はすべて在宅医療。 ・・・ということになる。
この在宅医療についてはわたしの友人の医師も十数年前から取り組んでいる。
マルクスの定義では病院というのは、
「労働力商品の再生産工場」というまるで身もふたもないことになるけれど、
近代社会、現代社会は、このコトバ通りの「野戦病院」的な
ひたすら合理的で効率主義全開の資本主義的発展を遂げてきた。
しかし、終末期医療の現場では多くの疑問が噴出してきているのも事実。
本来は生物的には死の状態であるのに、延命だけは可能という
一種の非人間性がまかり通るような現実がある。
クスリまみれになって、苦痛に満ちた死をしか迎えられないことも現実にある。
そういう状況から、医療費だけがGDPとは関係なく増大を続けている。
終末期であればあるほど、高額の医療費が掛かるだろうことは自明。
医療システムの「合理化」が先端的に追究され、患者の人間性は顧慮されない。
そういう医療のここ50年くらいの現実に対して、本来の医療として対置的に
「苦しんでいる患者のところに健康な医者が行く」という
ごく自然な社会的合理性に、ようやく目が向けられてきている。
きのう講演いただいた福井で「オレンジホームケアクリニック」を主宰されている
紅谷浩之先生は、こうした在宅医療専門医として活動されている。

で、お話しを聞けば聞くほど、
先日のわたしの講演後「相談」をされてきた母娘3人のことが想起された。
端的に言って医療にしろ住宅にしろ、相談者は「シアワセ」を求めている。
そのシアワセの道に至るには、相当ひとびとに「寄り添っていく」必要がある。
短時間の接触で「効率よく」そういう回答を導くのは困難。
こうした相談者に対して、資本主義的社会構造はその「手段」を極限的に
「効率最優先」で提供してくれる社会として進化発展してきた。
その基盤となる「株式会社」は、資本の奴隷として、
ひたすら効率のいい資本の論理を追究すべきものとされてきた。
そうでなく少し違う価値観で経営すると、株主から訴訟すら起こされる。
このことは住宅建築に於いても、医療に於いても等しく訪れている問題だと。
たしかに「相談」を受け、それに答えかつビジネスとして成立させるには
自らの専業的サービス領域で救済手段を提案することになるけれど、
それが本当にユーザーの人間的シアワセになることかどうかは、
なかなか微妙になって来ているのだと思わされる。
「死にたくない」という救済希望には全力で当たればいいけれど、
「日々淡々と生きて、死期が来れば自然に旅立ちたい」という希望には、
どのようなサービス提供が可能なのか、さらにビジネス的にも成功するには、
かなりの「想像力」が要求されるのだと思う。
紅谷浩之先生もこういったサービス提供とビジネス的な効率は
なかなか両立させがたいと最後の質問で答えられていた。
賛同の気持ちを強く持ちつつ、現実の道の遠さを思わされた。
コメント
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