北海道住宅始原期の旅シリーズです。が、本日はエネルギー安保論。
北海道開拓は明治初期国家建設の核心的なプロジェクト。
有色人種は自らの国家存続すら危ういという帝国主義全盛期に
日本の独立を守り、欧米列強国と伍していくための決断を数多く行った。
その方向性のなかで北海道開拓は焦眉であり、同時に
国家としての飛躍を賭けた「投資」でもあった。
そこからなにも得られなければ、その後の日本の近代化はありえなかった。
政治権力構造としては、近代工業化を背景に明確な植民地政策を
アジア各地において剥き出しの武力でもって貫徹してくる欧米列強。
そういうなかで日本は国家戦略意思の不明確な
江戸幕府・封建による固陋たる分権的体制を革命して
それまで武家政権期に京都御所で隠棲してきた天皇を東京に移転させ
近代君主制国家のシンボルとした「開発独裁」型権力体制を構築した。
それは剥き出しの国家戦略相互の暴力的戦いであった19世紀国際社会で
国を経済発展させながら独立して生き残っていくための
機動的な意思決定可能な権力構造として、自明の選択だったといえる。
近代国家で自存していくには近代工業エネルギー戦略を持たねばならない。
このことは今日までまったく不変の国際公理。
明治初年にあってはエネルギーは石炭が最高級の資源価値を持っていた。
明治で開国開港したときに真っ先に蒸気エンジンの船のために
石炭の供給を求められたことから日本国家社会はその重要度を知らされる。
エネルギー資源こそが国家戦略のカナメであり、
その利権争奪を巡って国際は熾烈な競争を戦っている現実を知る。
九州北部で一部採炭されていたとはいえ、それは自然発生的な
暖房需要のためであり産業活用ということは考えられていなかった。
江戸幕府政権期以来、北海道には石炭エネルギーが存在することは
断片的とはいえ、確実性の高い情報があったとされている。
この資源開発のために明治国家は「お雇い外国人」として
アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンを招聘し委嘱する。
ライマンは、1872(明治5)年から1881(明治14)年日本に滞在し調査を行った。
近代炭鉱開発のスタートとなったのは、1879(明治12)年開鉱の
官営幌内炭鉱(三笠市)。開鉱前の1875(明治8)年~1876(明治9)年に、
黒田清隆・伊藤博文・山県有朋ら政府要人が次々と幌内を訪れ、
また石炭運搬のための幌内鉄道(小樽市手宮~三笠市幌内)が
全国3番目の鉄道として1882(明治15)年に全線開通(その2年前1880年に
明治天皇の行幸もあって手宮~札幌間が部分開通)したことからわかるように、
幌内炭鉱の開発は最重点の国家プロジェクトだった。
明治国家が国防のためを最重視して開拓し投資した北海道から
最初の「珠玉」がもたらされたといってもいい。
たぶん奈良時代の奥州産金にも似た国家的な僥倖であったに違いない。
この「自前」のエネルギーによって明治国家の産業化の礎が確立した。
このエネルギー開発によって日露戦争までの日本が運命づけられたともいえる。
日本のこの時代の「国家戦略」の明確な保持、貫徹を見ていると
近代国家、現代国家はエネルギー安保を最優先するべきだと自ずとわかる。
欧米国家ではこのことには長い歴史もあって民衆レベルも含めて
血肉のようになっているけれど、日本は急速な「追いつき追い越せ」で
きたことで、民主主義のレベルで国家意志が貫徹できてはいない。
国家戦略と聞いただけで反対するような議論があったりする。
現代の日本政治と明治国家の意思決定システム・過程とを比べたとき、
現代に不足しているなにかが見えてくるような気がする。
<写真は無関係(笑)。自然「エネルギー」河川管理ではあるけれど>
北海道開拓は明治初期国家建設の核心的なプロジェクト。
有色人種は自らの国家存続すら危ういという帝国主義全盛期に
日本の独立を守り、欧米列強国と伍していくための決断を数多く行った。
その方向性のなかで北海道開拓は焦眉であり、同時に
国家としての飛躍を賭けた「投資」でもあった。
そこからなにも得られなければ、その後の日本の近代化はありえなかった。
政治権力構造としては、近代工業化を背景に明確な植民地政策を
アジア各地において剥き出しの武力でもって貫徹してくる欧米列強。
そういうなかで日本は国家戦略意思の不明確な
江戸幕府・封建による固陋たる分権的体制を革命して
それまで武家政権期に京都御所で隠棲してきた天皇を東京に移転させ
近代君主制国家のシンボルとした「開発独裁」型権力体制を構築した。
それは剥き出しの国家戦略相互の暴力的戦いであった19世紀国際社会で
国を経済発展させながら独立して生き残っていくための
機動的な意思決定可能な権力構造として、自明の選択だったといえる。
近代国家で自存していくには近代工業エネルギー戦略を持たねばならない。
このことは今日までまったく不変の国際公理。
明治初年にあってはエネルギーは石炭が最高級の資源価値を持っていた。
明治で開国開港したときに真っ先に蒸気エンジンの船のために
石炭の供給を求められたことから日本国家社会はその重要度を知らされる。
エネルギー資源こそが国家戦略のカナメであり、
その利権争奪を巡って国際は熾烈な競争を戦っている現実を知る。
九州北部で一部採炭されていたとはいえ、それは自然発生的な
暖房需要のためであり産業活用ということは考えられていなかった。
江戸幕府政権期以来、北海道には石炭エネルギーが存在することは
断片的とはいえ、確実性の高い情報があったとされている。
この資源開発のために明治国家は「お雇い外国人」として
アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンを招聘し委嘱する。
ライマンは、1872(明治5)年から1881(明治14)年日本に滞在し調査を行った。
近代炭鉱開発のスタートとなったのは、1879(明治12)年開鉱の
官営幌内炭鉱(三笠市)。開鉱前の1875(明治8)年~1876(明治9)年に、
黒田清隆・伊藤博文・山県有朋ら政府要人が次々と幌内を訪れ、
また石炭運搬のための幌内鉄道(小樽市手宮~三笠市幌内)が
全国3番目の鉄道として1882(明治15)年に全線開通(その2年前1880年に
明治天皇の行幸もあって手宮~札幌間が部分開通)したことからわかるように、
幌内炭鉱の開発は最重点の国家プロジェクトだった。
明治国家が国防のためを最重視して開拓し投資した北海道から
最初の「珠玉」がもたらされたといってもいい。
たぶん奈良時代の奥州産金にも似た国家的な僥倖であったに違いない。
この「自前」のエネルギーによって明治国家の産業化の礎が確立した。
このエネルギー開発によって日露戦争までの日本が運命づけられたともいえる。
日本のこの時代の「国家戦略」の明確な保持、貫徹を見ていると
近代国家、現代国家はエネルギー安保を最優先するべきだと自ずとわかる。
欧米国家ではこのことには長い歴史もあって民衆レベルも含めて
血肉のようになっているけれど、日本は急速な「追いつき追い越せ」で
きたことで、民主主義のレベルで国家意志が貫徹できてはいない。
国家戦略と聞いただけで反対するような議論があったりする。
現代の日本政治と明治国家の意思決定システム・過程とを比べたとき、
現代に不足しているなにかが見えてくるような気がする。
<写真は無関係(笑)。自然「エネルギー」河川管理ではあるけれど>