北海道住宅始原への旅であります。札幌建設草創期の追体験「取材」。
この建物は明治5年の7月に完成した「本陣」建築。
本陣というのは、江戸期の「高級ホテル」というべきもの。
貴人(通常、身分制社会では大名などが相当する)のための宿泊施設。
江戸期にわたしの家系先祖は広島県福山市近郊の「今津」という宿場で
河本さんという古代の「国造」家以来の名家が経営する「今津本陣」から
備品資材など一切の納入先「阿賀屋」として用命いただいていた。
本陣は参勤交代などのときに、殿様クラスが利用する。
肥前平戸藩主・松浦静山が1800(寛政12)年10月29日に参勤交代途中で宿泊時、
その様子をかれの「甲子夜話」という記録文学の一節に書いている。
ホテル側としての応接の用を果たすために先祖一族が雑魚寝して立ち働く様を
「一族和合のきわみなり」と描写記録している。
西国の有力大名・薩摩藩なども定宿にしていたようで、
島津斉彬が泊まったともされ、多くの西国藩主が利用していた。
江戸期にはこの「参勤交代」というのが大きな「経済機会」であった。
格式を最重視する社会ではムダとわかっていても
ミエで大名たちは浪費せざるを得なかった。ビジネスとしてはいいチャンス。
政治的にはそのように藩に浪費させることで幕府の統制策にしていた。
先祖は大名用向きの品々を近隣の尾道の「株仲間」から仕入れ納入していた。
また「脇本陣」というのは殿様以外の家来たちなどが宿泊するもので、
今津宿では「蓮華寺」という寺がそれにあたっていたとされる。
織田信長の本能寺ではないけれど、
江戸期までの社会ではこういった「本陣・脇本陣」というものが、
参勤交代などで利用され身分制社会の経済活動、消費の大きな機会だった。
そういった建築名称が明治期に北海道でも使用されていたのですね。
同時に「脇本陣」建築も建設されている。
新規開発地である北海道札幌では既存の地場「有力者」などはいないので、
開拓使自身がこういった「公共財施設」を建設するしかなかった。
明治天皇も屯田兵制度が確立した明治14年に行幸されている。
その宿泊施設として「豊平館」を新築し最初の客として明治天皇が宿泊された。
日本最初の完全な「西洋式ホテル」であり開拓使は面目を大いにほどこした。
このような状況であり日本にとっての「新開地」北海道への関心は高く、
政府高官などの「出張機会」も多かっただろうことが想像される。
そういった「官官接待」みたいなことから
官製の遊郭・ススキノ建設の需要もあったものかもしれない。
そういった経緯で建てられた建築ですが、
明治4年段階ではそのような宿泊用途だったものが、明治8年には
「お雇い外国人」のための滞在者用施設に衣替えしている。
かれらの専門技術を摂取する意味で「教師館」という名称にして
なお滞在施設として「高級ホテル」を提供したということなのでしょう。
建築規模は245坪程度の面積で、総工費7,842円余とのこと。
規模金額とも、当時札幌最大クラスの建築だったようです。
そして「教師」のなかでもとくにリスペクトすべき高位人物・札幌農学校校長、
クラークさんが数ヶ月の在任期間を終えて明治10年に帰国するに際して
当時の「お雇い外国人」たちが馬に騎乗のうえで「見送り」した様子。
このような貴賓への送別儀礼習慣というものがあるようですね。
下の写真はリフォーム前の本陣の状況。
板塀で全容がわからないのですが、それでも塔屋の新設や玄関の増設など
リフォーム前後の様子が若干は偲ばれる。
玄関は昨日紹介の「邏卒屯所」と同様の和洋折衷的デザインともみえる。
<どちらでも手前側に「橋」。創成川に懸けられた橋のようですが、
方角的に見てどうも違う橋のようです。>
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