遅ればせながらだけど、決勝、そして大会を通しての感想など。
決勝は延長戦の末ドイツがカップを手にした。ドイツ対アルゼンチン 1-0。
今大会通して、ドイツが一番--そして圧倒的に強かったのは間違いない。1年間通して戦うリーグ戦なら昨シーズンのバイエルン・ミュンヘン同様圧倒的な差で優勝していると思う。
しかしワールドカップは違う。1試合だけなら強いチームが必ず勝つとは限らない。
簡単に1点を奪われないために命をかける
そこで何が重要になるのかといえば、1点にこだわるサッカーに違いない。
簡単に1点を取られない。ぎりぎりまでボールを追い続ける。ダメだ通っても最後の最後、足を延ばす。身体をぶつけに行く。そのほんの少しの差が、時に入っていたかもしれない1点を守ることになる。
サッカーは威信をかけた国と国の戦争である。やっぱり。
しかしながら、サッカーは点を取らせないことを競う競技ではない。点を取ることを競う競技である。であるならば、サッカーの基本は「攻撃にこそある」。それはこのゲームの目的からいって明白なことだ。
つまり、「簡単に1点を取られない」守りを築きながら、一転して攻撃に移ったときには簡単に1点を取らせまいとする相手の守りを打ち破るすべを身につけなくてはならない。
「簡単に1点を取らせまい」と命がけで守ってくる相手からゴールを奪うのは、今大会を見てよくわかったけど、「メッシでもなかなかできない」。
なぜか? 相手も命がけだからだ。
だから、ワールドカップこそチーム全体が--もっといえばサブの選手はもとより、サポーターに国民も含めた国全体がどこまで気持ちを込めらて見守っているか、その総体が、ぎりぎりの、ほんのわずかなところで利いてくるのだと思う。お互いの誇りをかけた戦争なのである。
基本的には自分の国が「好き」ということ。
誤解されると困るが、戦争と言い、威信と言っても、どっちの民族が優秀かといったことでは必ずしもない(少しはそういうことも含んでいるし、人によってはそういうことばかりということもあるいかもしれないが)。
ではそれは何か?と考えるに、それはやっぱり彼らのことを「よく知っている」ということであり、かれらの持っているさまざまな属性への自然な親近感ではないだろうか。
日本人で言えば、日本語をしゃべる人には親近感があるし、事実コミュニケーションが自由にできるわけだし、お互いをよく知ることができる。顔かたちもどちらかと言えば似ている。お互い日本のこと--風土・景色・文化・歴史--をよく知っているし、同じ食べ物が好きだったりするだろう。
「好き」ということは大事で、日本人でも日本が嫌いなら--少しは嫌いなところもあるかもしれない、いやあるに違いない--日本のサッカーも応援しないだろうけど、概ね日本人は日本が好きなんじゃないだろうか?
サッカーの世界性
だからと言って、そういうことを表現する場がサッカーだけというわけではないのはもちろんだ。ただ、少なくともスポーツの世界ではサッカーこそが世界でも最も普及し愛好されている。世界を見渡した時に、最も世界中で関心が高い。それは道具がほとんどいらないから。場所も選ばない。ブラジルの路地を見ればわかるように、空き地さえいらない。小さな道があればよい。サッカーボールがなくても、ぼろ布をまとめてひもで縛ってもいいし、南国ならココナツの実でもできる。そこが野球と違うところだ。野球だってキャッチボールだけなら似たようなものだが、ゲームとなるといろいろややこしくなる。ルールがシンプルなのも普及という点では大きな意味がある。
「スポーツの世界では」と書いたが、他のどの文化的な行為を見まわしても、実はサッカー以上に世界のあらゆる地域に、あらゆる階層に(つまりは貧富に左右されない)、相対的に公平に浸透しているものはないのであって、サッカーこそが自国を(先ほど書いた意味で)アピールする最大の場所なのだ。生きていくうえでなんらかの誇りを持つということは極めて重要なことだ。
負けた悔しさに誰が泣くか。何人が泣くか。
その思いが強ければ強いほど、好きならば好きなほど、サッカーへの情熱は熱く激しくなるのは当然だ。この決勝戦や、開催国ブラジルのサポーター、そしてとりわけ子どもたちの涙が強く印象に残った。
選手たちが泣くのはわかる。自分だって昔、一生懸命練習して臨んだ部活の試合で負けて泣いていたかもしれない。
この大会、日本は1分け2敗で予選敗退。しかし、コートジヴォワール戦、コロンビア戦で負けて、選手以外に泣いた国民がいったい何人いただろうか。あるいは、(熱心なサポーターである事は間違いないはずだけど)スタジアムに足を運んだサポーターの何人が涙したか。目の前で敗れた代表選手達の失意の姿を目にし、不安にかられ、僕の・わたしの代表チームがコロンビアなんかに負けるはずがないじゃないか!と涙が止まらない子どもが何人いたろうか?
ゲッツェの美しいゴールがすべてを解放した
さて、決勝戦である。まずもっとも印象に残ったのはアルゼンチンの粘り強く的確な守りだ。マスチェラ-ノ、サバレタはもとより、メッシ以外は死ぬ気で1点を死守した。メッシは仕方がないのだ。メッシは点を取る。そこだけに集中する。それをチーム全体が望んでいる。下がらなくていい、守らなくていい。俺たちがその分までやってやる。メッシよ、おまえはゴールを奪え!! すばらしいチームだったと思う。
それなのにメッシはゴールを奪えなかった。だから、大会MVPにあたるゴールデン・ボールのトロフィを受け取ってもまったく嬉しそうじゃなかった。彼は役目を果たせなかった。
だからといってメッシがサボっていたわけではないのは彼の動きを見てればよくわかった。メッシはわずかでもゴールのチャンスが、あるいはゴールにつながりそうなチャンスの芽があれば、すばやくボールに詰めていたし、シュートも何本も放ったし、通れば決定的なパスも出した。ただ、ドイツの守備がまた完璧だった。得意の形からゴールポストギリギリに外れたシュートがあったが、長身のノイヤーがいっぱいに伸ばした左手の指先あと10cmかそこらはずれただけだった。ゴールに入れるコースではGKにはじかれていた。そういうぎりぎりの勝負だった。
そして、この試合を決めたのが延長後半9分、延長に入る直前にクローゼと後退して途中出場した22歳のFWゲッツェだった。左サイドを抜け出したシュルレのセンタリングに、同じ左サイドからゴール前に斜めにきれこみ、胸でワントラップして落としたボールを、目の前にいるGKロメロが手を動かした左を避けて、角度のないゴール右へボレーで蹴りこんだ。ロメロの左手はわずかに右に戻っただけだった。
ドイツとて楽な試合ではなかった。DF陣は疲弊しつくしていたし、ときにあまりに激しいチェック(公平にいってラフプレーだと思うけど)が多くて、わたしはきらいだったシュバインシュタイガーもアグエロと接触して顔面から血を流し、報復かどうかわからないがあちこち削られて、最後は足がつって動けないほどだった。
ただ、ラームは最後まで元気だった。すごいキャプテンだ。
ゲッツェのゴールで充満し吐き出しどころを探し続けてきたエネルギーが一気に解放され、ゲームは動き出したが、時はすでに遅かった。ラストチャンスはメッシのFK。ゴールバーのはるか高いところに浮いてしまったとき、メッシは苦笑うしかなかった。
そして笛がマラカナンに響き渡った。
決勝は延長戦の末ドイツがカップを手にした。ドイツ対アルゼンチン 1-0。
今大会通して、ドイツが一番--そして圧倒的に強かったのは間違いない。1年間通して戦うリーグ戦なら昨シーズンのバイエルン・ミュンヘン同様圧倒的な差で優勝していると思う。
しかしワールドカップは違う。1試合だけなら強いチームが必ず勝つとは限らない。
簡単に1点を奪われないために命をかける
そこで何が重要になるのかといえば、1点にこだわるサッカーに違いない。
簡単に1点を取られない。ぎりぎりまでボールを追い続ける。ダメだ通っても最後の最後、足を延ばす。身体をぶつけに行く。そのほんの少しの差が、時に入っていたかもしれない1点を守ることになる。
サッカーは威信をかけた国と国の戦争である。やっぱり。
しかしながら、サッカーは点を取らせないことを競う競技ではない。点を取ることを競う競技である。であるならば、サッカーの基本は「攻撃にこそある」。それはこのゲームの目的からいって明白なことだ。
つまり、「簡単に1点を取られない」守りを築きながら、一転して攻撃に移ったときには簡単に1点を取らせまいとする相手の守りを打ち破るすべを身につけなくてはならない。
「簡単に1点を取らせまい」と命がけで守ってくる相手からゴールを奪うのは、今大会を見てよくわかったけど、「メッシでもなかなかできない」。
なぜか? 相手も命がけだからだ。
だから、ワールドカップこそチーム全体が--もっといえばサブの選手はもとより、サポーターに国民も含めた国全体がどこまで気持ちを込めらて見守っているか、その総体が、ぎりぎりの、ほんのわずかなところで利いてくるのだと思う。お互いの誇りをかけた戦争なのである。
基本的には自分の国が「好き」ということ。
誤解されると困るが、戦争と言い、威信と言っても、どっちの民族が優秀かといったことでは必ずしもない(少しはそういうことも含んでいるし、人によってはそういうことばかりということもあるいかもしれないが)。
ではそれは何か?と考えるに、それはやっぱり彼らのことを「よく知っている」ということであり、かれらの持っているさまざまな属性への自然な親近感ではないだろうか。
日本人で言えば、日本語をしゃべる人には親近感があるし、事実コミュニケーションが自由にできるわけだし、お互いをよく知ることができる。顔かたちもどちらかと言えば似ている。お互い日本のこと--風土・景色・文化・歴史--をよく知っているし、同じ食べ物が好きだったりするだろう。
「好き」ということは大事で、日本人でも日本が嫌いなら--少しは嫌いなところもあるかもしれない、いやあるに違いない--日本のサッカーも応援しないだろうけど、概ね日本人は日本が好きなんじゃないだろうか?
サッカーの世界性
だからと言って、そういうことを表現する場がサッカーだけというわけではないのはもちろんだ。ただ、少なくともスポーツの世界ではサッカーこそが世界でも最も普及し愛好されている。世界を見渡した時に、最も世界中で関心が高い。それは道具がほとんどいらないから。場所も選ばない。ブラジルの路地を見ればわかるように、空き地さえいらない。小さな道があればよい。サッカーボールがなくても、ぼろ布をまとめてひもで縛ってもいいし、南国ならココナツの実でもできる。そこが野球と違うところだ。野球だってキャッチボールだけなら似たようなものだが、ゲームとなるといろいろややこしくなる。ルールがシンプルなのも普及という点では大きな意味がある。
「スポーツの世界では」と書いたが、他のどの文化的な行為を見まわしても、実はサッカー以上に世界のあらゆる地域に、あらゆる階層に(つまりは貧富に左右されない)、相対的に公平に浸透しているものはないのであって、サッカーこそが自国を(先ほど書いた意味で)アピールする最大の場所なのだ。生きていくうえでなんらかの誇りを持つということは極めて重要なことだ。
負けた悔しさに誰が泣くか。何人が泣くか。
その思いが強ければ強いほど、好きならば好きなほど、サッカーへの情熱は熱く激しくなるのは当然だ。この決勝戦や、開催国ブラジルのサポーター、そしてとりわけ子どもたちの涙が強く印象に残った。
選手たちが泣くのはわかる。自分だって昔、一生懸命練習して臨んだ部活の試合で負けて泣いていたかもしれない。
この大会、日本は1分け2敗で予選敗退。しかし、コートジヴォワール戦、コロンビア戦で負けて、選手以外に泣いた国民がいったい何人いただろうか。あるいは、(熱心なサポーターである事は間違いないはずだけど)スタジアムに足を運んだサポーターの何人が涙したか。目の前で敗れた代表選手達の失意の姿を目にし、不安にかられ、僕の・わたしの代表チームがコロンビアなんかに負けるはずがないじゃないか!と涙が止まらない子どもが何人いたろうか?
ゲッツェの美しいゴールがすべてを解放した
さて、決勝戦である。まずもっとも印象に残ったのはアルゼンチンの粘り強く的確な守りだ。マスチェラ-ノ、サバレタはもとより、メッシ以外は死ぬ気で1点を死守した。メッシは仕方がないのだ。メッシは点を取る。そこだけに集中する。それをチーム全体が望んでいる。下がらなくていい、守らなくていい。俺たちがその分までやってやる。メッシよ、おまえはゴールを奪え!! すばらしいチームだったと思う。
それなのにメッシはゴールを奪えなかった。だから、大会MVPにあたるゴールデン・ボールのトロフィを受け取ってもまったく嬉しそうじゃなかった。彼は役目を果たせなかった。
だからといってメッシがサボっていたわけではないのは彼の動きを見てればよくわかった。メッシはわずかでもゴールのチャンスが、あるいはゴールにつながりそうなチャンスの芽があれば、すばやくボールに詰めていたし、シュートも何本も放ったし、通れば決定的なパスも出した。ただ、ドイツの守備がまた完璧だった。得意の形からゴールポストギリギリに外れたシュートがあったが、長身のノイヤーがいっぱいに伸ばした左手の指先あと10cmかそこらはずれただけだった。ゴールに入れるコースではGKにはじかれていた。そういうぎりぎりの勝負だった。
そして、この試合を決めたのが延長後半9分、延長に入る直前にクローゼと後退して途中出場した22歳のFWゲッツェだった。左サイドを抜け出したシュルレのセンタリングに、同じ左サイドからゴール前に斜めにきれこみ、胸でワントラップして落としたボールを、目の前にいるGKロメロが手を動かした左を避けて、角度のないゴール右へボレーで蹴りこんだ。ロメロの左手はわずかに右に戻っただけだった。
ドイツとて楽な試合ではなかった。DF陣は疲弊しつくしていたし、ときにあまりに激しいチェック(公平にいってラフプレーだと思うけど)が多くて、わたしはきらいだったシュバインシュタイガーもアグエロと接触して顔面から血を流し、報復かどうかわからないがあちこち削られて、最後は足がつって動けないほどだった。
ただ、ラームは最後まで元気だった。すごいキャプテンだ。
ゲッツェのゴールで充満し吐き出しどころを探し続けてきたエネルギーが一気に解放され、ゲームは動き出したが、時はすでに遅かった。ラストチャンスはメッシのFK。ゴールバーのはるか高いところに浮いてしまったとき、メッシは苦笑うしかなかった。
そして笛がマラカナンに響き渡った。