スーパーマーケットに、さくらんぼうが並んでいる。
色も味わいもピッカピカの佐藤錦を買った。
以下の記事は、以前に書きアップしたものを、もう一度と引っ張り出してしまった。
どうか呆れ果てずに、お付き合いくださったら嬉しくーー。
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今年(2013年)3月に99歳で亡くなった母の持ち物から3枚のはがきが出てきた。
赤茶けた粗末な紙の軍事郵便。
☆一枚目のはがきは、弟からのもの。
「前略
御無沙汰して誠に申訳御座いません。
姉さんは其の後如何お暮しですか。永い間ご無沙汰
したので、手紙も書きづらくなってしまいます。
日独戦争で多くの日本の先輩が青島攻撃の為に
戦死した戦跡を見学しました。そこで如何に
日本軍が勇ましく戦ったかが充分にわかりました。
お土産は姉さんに約束したものを買いました。
休暇を楽しみに待っていて下さい。さようなら」
青島在泊
第一艦隊第一潜水戦隊
第八潜水隊伊号第五潜水艦
〇〇義三郎出
<義三郎、29歳で戦死。>
その頃の母はまだ独身。「大日本帝国茨城県古河町」の母宛になっている。
もう聞く人もいない母の歴史。
お土産とは何だったのだろう。
ひょっとして、子どもの頃に見たあの財布かもしれない。
外側は文化刺繍で竹に虎の絵が描かれ、内側はしなやかな鹿革だった。
「義三郎からもらった」
と母は言っていた。
母のアルバムからこの叔父の写真を取り出しては、私たち姉妹はよく見ていた。
一度も会ったことがなかったその人は、海軍の夏帽、夏服姿で、いつも爽やかに笑っていた。
若く美しかったH叔母は、ひとりで忘れ形見を育てあげた。
息子は、彼にそっくりの青年になり、家族をもち、父親の倍を生きている。
☆二枚目は、夫から父親に宛てたもの。
満洲から東京都芝区白金三光町へ。
赤いスタンプ印は滲んで、検閲済 鶴岡という丸印。他に渡辺の丸印も。
”妻からの便りで、妹の嫁入りを知ったこと。それに伴う親たちの生活を
思いやり、自分も元気で過ごしていること。何日ぶりかで外出し、12名
ぐらいの慰問団の演芸を見に行き、歌謡曲や寸劇をて楽しかったこと。
幸次も常〇も元気かと、次弟と末弟に思いを馳ている。”
後に次弟と末弟も出征。次弟の幸次は昭和15年3月に入営。海軍工員。
戦死。”昭和20年11月19日招魂”ーーと靖国神社からの通知。
☆三枚目は、兄から ume夫婦へ。
「謹啓 小生出発に際してはご多忙中遠路御足労煩し種々御配慮下され
厚く御礼申上げます 途中無事任地に到着比 ではこちらの生活にも
なれて参りました とても元気で居りますから乍他事御休心ください 入湯
して帰るとか聞いて居りましたが 霊泉寺へ行ってきましたか 〇子夏負
もせず元気ですか
東京の暑さは又格別故皆様ご自愛下さい
ご両親様へは何分宜敷願上げます 御住所不明の為 手紙差上げませ
んが折を見て知らせて下さい
(二伸 義三郎の遺骨の来る時は又何分御苦労様でもお願ひ致します)
敬具」
中支派遣鵄第一六二五部隊中村隊
〇〇 竹
昭和18年の夏頃であろうか。
自分が出征して任地にいるのに、戦死した弟の遺骨(!)のことを頼まね
ばならない。何ともやりきれない。
伯父は無事に帰り、終生母とは非常に仲の良い兄妹であった。其の後、
我が家はどれほど助けてもらったかしれない。
「『義三郎が生きていればなあ~』と、母さんがよく言っていた」~ と、母の
言葉も思い出す。今、父の兄弟も、母の兄弟も皆故人となった。
母がずーっとしまっておいた3枚のはがき。
もう記憶を伝えてくれる人もほとんどいない。
またこんな時代へ逆戻りするのだけはやめてほしい。これからを生きていく
子供たちが希望を持って生きていける未来であってほしい。
このはがきは、母からのささやかだが確かな伝言のように思える。
遺品から軍事郵便さくらんぼ 乃亜
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