中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

節分

2007-02-03 20:37:30 | 身辺雑記
 節分の行事は日本人には昔から馴染みのものだが、その由来については、私自身この年になるまでうろ覚えだったので、少し調べてみた。

 元来節分とは、立春、立夏、立秋、立冬など、季節の改まる前日のことを呼んでいたが、しだいに立春の前日だけを指すようになった。この節分を境にして暦の上では翌日から春になる。古代中国では大晦日に邪鬼や疫病などを打ち払うために、鬼の面をかぶった人を、桃の木で作った弓矢で追い払う「追儺(ついな)」という行事があり、これが我が国に奈良時代に伝わり、平安時代に宮中での大晦日の行事として盛んに行われるようになり、この行事が近世には民間で節分の行事になったようだ。
 
 節分と言うと連想するのは「豆まき」、「鰯」そして最近では「恵方巻き」だが、「豆まき」も中国から伝わった追儺の行事の1つで、本来は大晦日の行事だが、旧暦では新年が春から始まり節分は大晦日にあたるので節分の行事になったと言う。江戸時代には庶民の間で広く行われていたようだ。

 大きな寺社では節分には豆まきの行事をする。安産の祈願で有名な中山寺の節分行事を見た。

本堂の前に作られた舞台では、悪鬼が観音の法力で善人に生まれ変わる劇が演じられた。


福男、福娘によって福豆が撒かれる。
          豆は小さい袋に入っている。

善男善女たちが豆を拾おうとして大騒ぎ。


この子にはよい福が授かるだろう。


 私の幼い頃も一家で豆まきを楽しんだ。7歳くらいの時の節分の夜のことを今もよく覚えているが、大きな声で「福は内、鬼は外」と言いながら家の中から外に向かって豆を撒くのは父の役目だった。その後、これはどこの風習が我が家にあったのかは知らないが、部屋を薄暗くして豆がまかれ、父の合図とともに散らばった豆を母までが加わって、家中の者が大騒ぎしながら這いずり回って豆を集めた。子ども達のためか飴も混ぜて撒かれた。ひとしきり騒いで明かりをつけ、それぞれの戦果を見せ合った。当時我が家に下宿していた大学生の父の弟がいた。これもその頃いた、当時は女中さんと呼んでいた鹿児島出身の10台後半の娘さんがキャアキャア言いながら元気に動き回って一番たくさん豆や飴を集めたのを、叔父はその格好を真似してからかっていたのを思い出す。豆は炒ってあり年の数だけ食べる。あの頃は、年齢は数え年で数えた。別に珍しいものでもない大豆を、その時は何か特別なもののような気がしながら食べた。楽しい思い出だ。今なら私は74粒食べなくてはならないから大変だ。私の家でも子どもたちが小さい頃はささやかに続けていたし、妻が恥ずかしそうな小さな声で「福は内・・・」と言って豆を撒いていたのを懐かしく思い出す。それもいつの間にかしなくなってしまった。このあたりでは子どものいる家がないせいか豆まきの声は聞かれない。地方ではおそらく今でも行われているところはあるのだろう。



 節分の鰯も最近ではだんだん廃れてきたように思う。節分に鰯を食べるのは主に西日本の風習だと言う。もともとは鰯の頭を柊の小枝に刺して門口に挿す風習があったことからきているらしい。戦後家族で住み着いた滋賀県の大津の家の周囲には農家があって、その家々の門口にはこの柊に刺した鰯が見られ、そのような習慣を知らなかった私は奇異に思ったものだ。鰯の臭みと柊の棘で鬼や邪気を追い払うとされていて、よく知られている「鰯の頭も信心から」という諺の由来だ。前にも書いたが、妻は節分にはいつも鰯を出してくれた。



 現代風に解釈すると大豆も鰯も健康に良いということなのだろうが、それはともかくとして、中国の古代に行われていた行事が我が国に伝わり、それが長い歳月を経て今に伝わっているということはまことに面白く、またその中国ではいつ頃どのような形で発生したしたのだろうかと考えると興味は尽きない。