中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

絵馬

2007-02-14 11:42:57 | 身辺雑記
 有名な京都の下賀茂神社の境内には縁結びの社があって、恋愛成就を祈願する人達が多く参詣し、絵馬を吊るしていくそうだ。その絵馬は数百枚あるが、大半は白地に朱色で「えんむすび」と書かれたシールで願い事が隠されているという記事を新聞で読んだ。

 これは参拝者の希望ではなく、神社が3年ほど前から自発的に始めたのだそうだ。他にも各地にそのようなシールを添えて絵馬を売る神社はあるようで、下賀茂神社ではその理由を「他人に見られると本心を書けない。願い事は自分と神だけが知っていればいい」と言い、奈良県のある神社は「個人情報の保護が目的」と言っているようだ。もちろん、「そんなことは考えたこともなかった」と驚いている神社もあるとのことで、この方が多いのだろうが、これからはシール付き絵馬を出す寺社は増えてくるのかも知れない。

 絵馬の歴史は古く、平安時代から習俗になったと言う。元来は奈良時代には本物の馬を寺社に献納する慣わしがあったが、納める方は費用がかかり寺社の方では世話がかかると言うことで、次第に木や土や神の馬の像で代用するようになり、平安時代になると板に馬を描いたものを献納するようになったと言う。江戸時代になると庶民の間に家内安全や商売繁盛の願掛けに絵馬を使うようになり、個人が小さな絵馬を納めるようになったようだ。今では合格祈願や縁結び祈願など多様化している。私は一度だけ、上海の友人の唐怡荷と一緒に明治神宮に行った時に、彼女の幸せを祈願して絵馬を納めたことがある。

 
 静岡県南伊豆の石室神社の絵馬(施路敏より)。鶏は私の干支。このように馬以外のものを描いた絵馬もよくある。

 
 施路敏から送られてきたスナップ。「祈願文納箱」とあるから、絵馬には願文は書かないのだろう。

 恋愛成就を願って絵馬を納める心根はかわいくほほえましいもので、そのような願いを込めた絵馬を見るのも楽しく、「○○君と結ばれますように」などという祈願文を読むと、見知らぬ他人であるのに成就すればいいと思ってしまう。それだけに、表面をシールで隠すということは何とも味気ない。京都の貴船神社では「本来、絵馬は人の目に触れるもので、それで祈願の決意を固める一面もある」と言っているようだが同感だ。一人ひとりの願いはまじめなものだから、遊び心と言ってしまってはいけないのかも知れないが、旧い時代のような強い信仰心に支えられているものでもないだろう。そこにはやはり「楽しむ」という気持ちもあると思う。それだけにもっとおおらかになったほうがいい。シールで隠すというようなせせこましい考えは好きではない。まして「個人情報保護のため」を理由にするなど、何をか言わんやという気持ちにさせられてしまう。

 個人情報保護に限らず、ひとたび法律が作られると、自主規制とやらが広がるのが今の世相で、「触らぬ神に崇りなし」とか「物言えば唇寒し」とか言うことなのであれば嫌な感じがする。