中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

光の春

2007-02-08 09:29:39 | 身辺雑記
 2月に入って、陽光にわずかに春の気配を感じるようになると、外に出るといつも子どもの頃から好きだった「早春賦」をふと口ずさむのが、いつの頃からか癖のようになっている。

  春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思へど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず
  (http://classic-midi.com/midi_player/uta/uta_sosyun.htm)

 昔の歌は文部省の小学唱歌でも文語的な表現も混じっていて、子どもには難しいものがあり、勘違いすることもあったようだ。例えば「浦島太郎」などは誰でも知っている唱歌で、ラジオではたびたび聞かれたが、その終わり近くに「帰って見ればこはいか(如何)に」という文句があって、聞いている子どもの中には「恐い蟹」と思った者もあったようだ。私もそうだったかもしれない。なぜ帰って見たら恐い蟹がいたのかさっぱり分らないが、そんなことには無頓着にこの明るい歌は子ども達に愛唱されていた。
 (http://classic-midi.com/midi_player/uta/uta_urasima.htm)

 閑話休題。
 この「早春賦」も歌詞の1番はずっとおぼろげながら口ずさむことができた(もっとも「谷の鶯」を「庭の鶯」と間違って覚えていた)が、2、3番は子どもには少し難しい部分もあって覚えられなかった。それでも私はこの美しいのどかな感じがする曲の歌が好きで、長じては「早春」という言葉や、その季節も好きになった。

 この季節はまた、「光の春」の季節だ。この言葉は元来はロシア語で、かつてNHKの天気予報で人気があった倉嶋厚さんの訳語だそうだ。気温もまだ低く風も冷たいが、陽光はもう春の気配を含むように明るくなる、そのような季節である2月を言う言葉だという。私はこの言葉もとても好きで、2月になると「早春賦」と「光の春」が重なって嬉しくなってくる。勤めていた頃、朝早く駅のホームで電車の来るのを待っている時に、東の方の明るい空を目にすると「ああ、光の春だ」と思ったものだった。

 今年は暖冬で、気温もさほど低くなく風も冷たくはないが、やはり陽光は明るい。しかし、もうひとつ「光の春だ」という感慨が湧かないのは、やはり「光の春」には、冷たさがまだ残っているほうが似合うからではないだろうか。