北京のあるレストランで昼食をとった時のこと、そのレストランではちょうど結婚式(披露宴)が開かれていて賑やかだった。私の席と披露宴の間には低い仕切りがあるだけだったから、その様子はよく見えた。私のテーブルを担当した女性の服務員は朝鮮族だったが、日本語はまあまあ話せた。その服務員が結婚式の方を見ながら「今日の花嫁はみにくいよ」と言ったので、その表現にちょっとびっくりしたし、可笑しかった。新郎と新婦は日本の披露宴と同じように招待客のテーブルの間を回って挨拶したり酒を注いでいたりしていた。少し離れていたからよくは見えなかったが、新婦は取り立てて美人と言うほどではないが、と言って「醜い」ことはなかった。これを中国人は「醜い」と言うのかとその時には思った。
その後も中国の友人達が「みにくい」と言うのを何度か聞いた。例えば西安の謝俊麗は夫のことを「劉君はみにくいよ」と言ったし、上海の唐怡荷も自分の彼のことをそう表現した。劉君は写真でしか知らないが優しそうな青年でけっして醜男ではないし、怡荷の彼には何回か会ったが、ごく普通の青年だった。彼女達がそう言うたびに「みにくいはひどいじゃないか」と言っても、「だって、みにくいんだから」と返ってくるだけだった。
日中辞典を見ると、「醜男」は「丑男子chounanzi」とか「難看的男人nankan de nanren」とある。「丑」は「美mei」の反対語で「醜」だ。「醜い」を見ると「難看」の他に「不好看buhaokan」がある。こうしてみると、彼女達が言う「みにくい」は「不好看」(きれいでない)がぴったりするように思った。謝俊麗と電話で話した時に、「麗が言う『醜い』は『不好看』だろう」と聞くと、そうだと答えたので納得し、「そういう場合は『男前じゃない』と言うほうがいいよ」と言っておいた。おそらく日本語を学習する中国人達は、「不好看=みにくい」と機械的に覚え込んでいるのだろう。
1つの言葉には、いろいろなニュアンスの使い方がある。上の「丑男子」と「難看的男人」も中国人は同じニュアンスで受け止めるのかは分らないが、1つしか訳語を覚えていないと、時には相手にはぴったりしない感じを与えることもあると思う。私のような語学の才に乏しい者は、中国語はもちろん、英語の場合でも貧弱な語彙しか蓄えがなく、さまざまな使い分けはできないから、私達が外国人の日本語を聞いて、時に違和感を覚えるようなことをやっているのだろうと思う。
好看? 醜い?
その後も中国の友人達が「みにくい」と言うのを何度か聞いた。例えば西安の謝俊麗は夫のことを「劉君はみにくいよ」と言ったし、上海の唐怡荷も自分の彼のことをそう表現した。劉君は写真でしか知らないが優しそうな青年でけっして醜男ではないし、怡荷の彼には何回か会ったが、ごく普通の青年だった。彼女達がそう言うたびに「みにくいはひどいじゃないか」と言っても、「だって、みにくいんだから」と返ってくるだけだった。
日中辞典を見ると、「醜男」は「丑男子chounanzi」とか「難看的男人nankan de nanren」とある。「丑」は「美mei」の反対語で「醜」だ。「醜い」を見ると「難看」の他に「不好看buhaokan」がある。こうしてみると、彼女達が言う「みにくい」は「不好看」(きれいでない)がぴったりするように思った。謝俊麗と電話で話した時に、「麗が言う『醜い』は『不好看』だろう」と聞くと、そうだと答えたので納得し、「そういう場合は『男前じゃない』と言うほうがいいよ」と言っておいた。おそらく日本語を学習する中国人達は、「不好看=みにくい」と機械的に覚え込んでいるのだろう。
1つの言葉には、いろいろなニュアンスの使い方がある。上の「丑男子」と「難看的男人」も中国人は同じニュアンスで受け止めるのかは分らないが、1つしか訳語を覚えていないと、時には相手にはぴったりしない感じを与えることもあると思う。私のような語学の才に乏しい者は、中国語はもちろん、英語の場合でも貧弱な語彙しか蓄えがなく、さまざまな使い分けはできないから、私達が外国人の日本語を聞いて、時に違和感を覚えるようなことをやっているのだろうと思う。
好看? 醜い?