電車内で「奈良斑鳩1dayチケット」という、漢字、カタカナ、英語、数字交じりの吊広告を見た。この「斑鳩(いかるが)」は難読地名の1つだと思われるが、私は関西人だからこの地名は知っていたし、関西人でなくても日本の古代史上有名な地名なので(斑鳩の里の法隆寺など)、読める人はかなりいると思う。
各地には難読地名は多い。それについての本も出されているが、実に難解なものがある。私の学生時代に滋賀県大津の家と大学のある広島との往復に使ったJR(当時は国鉄)の切符には「膳所-己斐」とあった。「膳所」は「ぜぜ」で、このOffice Wordでは「ぜぜ」と入力したら出てきたが、「己斐」は「こい」だが、入力しても出ない。両方とも飛び切りの難読と言うほどではないが、それでも大津の友人は「己斐」を、大学の友人は「膳所」を判読できない者がかなりいた。「己斐」は今では「西広島」と言う味気ない駅名に変わってしまった。こういうことはあちこちであるのだろう、私の母校は膳所高校だが、近年多く作られた新設高校には「○○東高校」など、その市の名に東西南北の文字を加えたものが多い。
「放出」など、大阪人でもなければまず読めないだろう。私も知ったのはつい最近のことで、「はなてん」と聞いたときには驚いた。「放」は「はなつ」だから何とか関連付けられるが「出」はどうしても「てん」には結びつかない。郷土史などではもちろん分っているのだろうが、おそらく訛った結果だろう。大阪市内には十三(じゅうそう)、南方(みなみかた)、天満(てんま)、道修町(どしょうまち)、恩加島(おかじま)、生野(いくの)など一見読めそうで読み間違い、教えてもらうと納得できる地名があり、立売堀(いたちぼり)や丼池(どぶいけ)、我孫子(あびこ))、御幣島(みてじま)のように意表を突かれるようなものもあるが、「放出」は難読地名としては飛び抜けているようだ。
私がこれまで接した生徒の姓で、難読中の難読のものは「紫合」だった。字そのものはありふれたものだが、これを「ゆうだ」と読むと言うのにはまったくお手上げという感じだった。おそらく卒業生名簿の中の難読姓の筆頭だろうと思う。その生徒に由来を聞いたがどうもはっきりせず、ただ近くの川辺郡猪名川町と言う所に同じ地名があると言うことだった。その後興味を持って調べてみたが、県内の西の方に「夕田」と言う地名があり、それと関係があるようで、なぜ「夕田」が「紫合」に変化したのかという解説もあったけれども、もう忘れてしまった。
私がかつて住んでいた町は「伊孑志(いそし)」と言った。この「孑」は部首としては「子偏」で、「漢字の読み方」(角川小辞典)によると「けつ」と読み、意味訓は「ひとり あまる のこる」とあるが、「孫」や「孤」「孔」の偏としては知っていても、単独で読める人は多くないだろう。「子」と間違える人が多く、「いこし」ですかと聞かれることがよくあった。「孑」の訓読みはなく、「孑孑」で蚊の幼虫のボウフラと読むようだ。中国語ではボウフラは「孑孒jiejue」と言うようで、まさに象形文字だ。「伊孑志」には何か由来のある古い地名だったのだろうが、おそらく難読文字と言うことが理由だろう、今ではそのあたりを流れている川の名から取った「逆瀬川(さかせがわ)」と言う町名に変わっている。「逆瀬川」もやや難読に近い。
北海道には難読地名が多い。「倶知安は後志地方にあり・・・」とあっても、普通は読めない。「倶知安」は「納沙布」と同じように、万葉仮名のようにして何とか読めるが、「後志」を「しりべし」と読むのは、昔よく歌われた「箱根の山」の歌詞の中に「後(しりえ)に支(さそ)う」とあったように、「後」を「しりえ(しりへ)」と読むことを知らなければ無理だ。慣れてしまってすぐに読める釧路、歯舞、長万部などもあるが、多くはお手上げと言うものだ。北海道の地名はアイヌ語に漢字を当てたものが多いらしい。ブログ仲間のSさんが住んでいる所は美唄市で、この「ビバイ」もアイヌ語だろうか。
戦争中に私達の家族が住んだ祖父母の家は、東京都小石川区林町と言う所にあった。かすかな記憶だが、江戸時代の林大学頭(だいがくのかみ)の屋敷があった跡だと聞いた。儒者の林羅山を祖とする林家は、羅山の孫の信篤が江戸幕府の学問所である湯島聖堂を再建して以来、代々学問所を統括した。湯島聖堂は、時代劇にも出てくる昌平坂学問所で、小石川の東、上野の辺りにある。小石川区は戦時中に文京区と区名変更し、林町も戦後「千石」と町名を変えた。林町が町名を変えた理由は分らない。林大学頭の禄高が千石でもあったのか。地図を見ると私が通っていた林町小学校の校名は変わっていなかった。
京都は古都だけあって、古い地名を継承していることが多いようだが、それだけに難読町名も多い。盂蘭盆の頃にテレビ等でよく紹介される、おびただしい石仏で知られる嵯峨野の化野(あだしの)、時代劇の撮影所のある太秦(うずまさ)、琵琶湖の水を引いて京都市民に水道水を供給する浄水場のある蹴上(けあげ)、芸妓で有名な先斗町(ぽんとちょう)、テレビドラマの「新撰組」で知られるようになった壬生(みぶ)などがある。
近年都市開発に伴って、古くからの町名が消え、行政が決めた味気のない町名に変えられていくことには批判もあったが、京都ではそのようなことは起こっていないし、東京も文京区の町名を見ると音羽、千駄木、白金、根津、本郷、湯島などの江戸時代からの地名が継承されているから、やたらに由来も何もなく行政の都合で町名を変えることはしなかったのだろう。
中国の地名は、さすがに漢字の国だけあって難解な文字の地名は多く、例えば・・・と引用しようにもパソコンの辞書程度では無い字が多い。日本でもよく読まれている三国志など古い時代の作品には、日本語読みなどできない地名や人名は非常に多く、出版社では外字作りや校正の作業が大変だっただろうと思う。
各地には難読地名は多い。それについての本も出されているが、実に難解なものがある。私の学生時代に滋賀県大津の家と大学のある広島との往復に使ったJR(当時は国鉄)の切符には「膳所-己斐」とあった。「膳所」は「ぜぜ」で、このOffice Wordでは「ぜぜ」と入力したら出てきたが、「己斐」は「こい」だが、入力しても出ない。両方とも飛び切りの難読と言うほどではないが、それでも大津の友人は「己斐」を、大学の友人は「膳所」を判読できない者がかなりいた。「己斐」は今では「西広島」と言う味気ない駅名に変わってしまった。こういうことはあちこちであるのだろう、私の母校は膳所高校だが、近年多く作られた新設高校には「○○東高校」など、その市の名に東西南北の文字を加えたものが多い。
「放出」など、大阪人でもなければまず読めないだろう。私も知ったのはつい最近のことで、「はなてん」と聞いたときには驚いた。「放」は「はなつ」だから何とか関連付けられるが「出」はどうしても「てん」には結びつかない。郷土史などではもちろん分っているのだろうが、おそらく訛った結果だろう。大阪市内には十三(じゅうそう)、南方(みなみかた)、天満(てんま)、道修町(どしょうまち)、恩加島(おかじま)、生野(いくの)など一見読めそうで読み間違い、教えてもらうと納得できる地名があり、立売堀(いたちぼり)や丼池(どぶいけ)、我孫子(あびこ))、御幣島(みてじま)のように意表を突かれるようなものもあるが、「放出」は難読地名としては飛び抜けているようだ。
私がこれまで接した生徒の姓で、難読中の難読のものは「紫合」だった。字そのものはありふれたものだが、これを「ゆうだ」と読むと言うのにはまったくお手上げという感じだった。おそらく卒業生名簿の中の難読姓の筆頭だろうと思う。その生徒に由来を聞いたがどうもはっきりせず、ただ近くの川辺郡猪名川町と言う所に同じ地名があると言うことだった。その後興味を持って調べてみたが、県内の西の方に「夕田」と言う地名があり、それと関係があるようで、なぜ「夕田」が「紫合」に変化したのかという解説もあったけれども、もう忘れてしまった。
私がかつて住んでいた町は「伊孑志(いそし)」と言った。この「孑」は部首としては「子偏」で、「漢字の読み方」(角川小辞典)によると「けつ」と読み、意味訓は「ひとり あまる のこる」とあるが、「孫」や「孤」「孔」の偏としては知っていても、単独で読める人は多くないだろう。「子」と間違える人が多く、「いこし」ですかと聞かれることがよくあった。「孑」の訓読みはなく、「孑孑」で蚊の幼虫のボウフラと読むようだ。中国語ではボウフラは「孑孒jiejue」と言うようで、まさに象形文字だ。「伊孑志」には何か由来のある古い地名だったのだろうが、おそらく難読文字と言うことが理由だろう、今ではそのあたりを流れている川の名から取った「逆瀬川(さかせがわ)」と言う町名に変わっている。「逆瀬川」もやや難読に近い。
北海道には難読地名が多い。「倶知安は後志地方にあり・・・」とあっても、普通は読めない。「倶知安」は「納沙布」と同じように、万葉仮名のようにして何とか読めるが、「後志」を「しりべし」と読むのは、昔よく歌われた「箱根の山」の歌詞の中に「後(しりえ)に支(さそ)う」とあったように、「後」を「しりえ(しりへ)」と読むことを知らなければ無理だ。慣れてしまってすぐに読める釧路、歯舞、長万部などもあるが、多くはお手上げと言うものだ。北海道の地名はアイヌ語に漢字を当てたものが多いらしい。ブログ仲間のSさんが住んでいる所は美唄市で、この「ビバイ」もアイヌ語だろうか。
戦争中に私達の家族が住んだ祖父母の家は、東京都小石川区林町と言う所にあった。かすかな記憶だが、江戸時代の林大学頭(だいがくのかみ)の屋敷があった跡だと聞いた。儒者の林羅山を祖とする林家は、羅山の孫の信篤が江戸幕府の学問所である湯島聖堂を再建して以来、代々学問所を統括した。湯島聖堂は、時代劇にも出てくる昌平坂学問所で、小石川の東、上野の辺りにある。小石川区は戦時中に文京区と区名変更し、林町も戦後「千石」と町名を変えた。林町が町名を変えた理由は分らない。林大学頭の禄高が千石でもあったのか。地図を見ると私が通っていた林町小学校の校名は変わっていなかった。
京都は古都だけあって、古い地名を継承していることが多いようだが、それだけに難読町名も多い。盂蘭盆の頃にテレビ等でよく紹介される、おびただしい石仏で知られる嵯峨野の化野(あだしの)、時代劇の撮影所のある太秦(うずまさ)、琵琶湖の水を引いて京都市民に水道水を供給する浄水場のある蹴上(けあげ)、芸妓で有名な先斗町(ぽんとちょう)、テレビドラマの「新撰組」で知られるようになった壬生(みぶ)などがある。
近年都市開発に伴って、古くからの町名が消え、行政が決めた味気のない町名に変えられていくことには批判もあったが、京都ではそのようなことは起こっていないし、東京も文京区の町名を見ると音羽、千駄木、白金、根津、本郷、湯島などの江戸時代からの地名が継承されているから、やたらに由来も何もなく行政の都合で町名を変えることはしなかったのだろう。
中国の地名は、さすがに漢字の国だけあって難解な文字の地名は多く、例えば・・・と引用しようにもパソコンの辞書程度では無い字が多い。日本でもよく読まれている三国志など古い時代の作品には、日本語読みなどできない地名や人名は非常に多く、出版社では外字作りや校正の作業が大変だっただろうと思う。