中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

二者択一

2012-01-12 09:28:51 | 身辺雑記

 「二者択一」を高圧的に迫られることは嫌だ。白か黒かどちらかと言われても、白でもない黒でもない灰色というものがある。どうもこういう迫り方をするのは指導的な立場にある政治家に見られて、郵政民営化か否か、大阪都構想に賛成かどうかと声高に迫る。郵政民営化とか大阪都構想というものが具体的にどんなものかを丁寧に説明することなく、じっくり考える余裕もないままに雰囲気に巻き込まれていく。日和見だと言われようとそれが嫌だ。

 

 「好き」の反対は「嫌い」と言うことになるのだろうが、「好きではない」=「嫌い」ではなかろう。好きでもないが嫌いでもないという選択肢は誰にでもある。それが曖昧だと批判されるのだろうが、曖昧さも時には必要なのではないか。何事も二者択一的に割り切れるものではない。

 

 近頃は「劇場型政治」と言ってパフォーマンスに長けて声高の者が何かリーダーシップがあるように思われているようだ。とりわけ閉塞感が強いと言われている今の世情では、声高の政治家は何かをやってくれるのではないか 、現状を打破してくれるのではないかという期待を持たせる。まして仮想敵のようなものを示してそれを叩くというようなパフォーマンスをすると喝采を受けたりする。

 

街や電車の中で、ある美容外科の広告をよく見かけるが、それには総院長とやらの人物の大きな写真があって、「わきが・多汗症は俺に任せろ」とある。言わば客になる者に向かってずいぶん高飛車で横柄な言いようだと思うのだが、日本人はこういう物言いをされると案外惹かれることがあるようだ。政治家にしても声高で高飛車、時には傲慢と思える者は「何かやってくれるのではないか」とか「リーダーシップがある」と思われて、それが二者択一的なものであっても引き込まれていくようで、危険な感じもする。

 

政治家には強いリーダーシップが求められるのは当然で、優柔不断では国民や市民の信頼は得られないが、それは「俺に任せろ」というような高圧的な姿勢、言動ではないと思う。唯我独尊的に自分の考えを押し付けたり、反対意見の者に居丈高な態度をとるのでなく、反対者や有権者を納得させるような謙虚で真摯な姿勢が望まれる。私は郵政民営化を唱えて選挙に圧勝した元首相が、委員会などで相手を指差しながら発言するのがとても嫌だった。