たき火(焚火)の季語はもちろん冬だが、こんな句があった。
行きずりの人も焚火に来て親し
童謡の情景もそうだが、昔はこの句のような情景はよく見られた。寒い冬の朝などは道端でたき火をしているとつい立ち止まり手をかざしたくなる。そしてたき火の主とちょっとことばを交わしたりする。こんな情景ももう見られなくなった。
たき火と言えば、その熱い灰にサツマイモを埋めて、たき火の火が消えてもしばらく置き、適当なところで取り出して、熱いのをホクホクと食べる美味しさは何とも言えず、焼き芋はたき火で作るに限ると思わせるほどだった。
たき火ではないが、大晦日に近い年末には正月の支度の一つとして、炭俵を焼いた。これはかなり火力のあるもので、体が熱くなるほどだったが、灰にならないうちにバケツの水を手でかけて火を消す。そしてその真っ黒な言わば藁の消し炭を十能に取って火鉢に移す。そこによく熾った炭火を置くと、それまでは古くなった白い灰だったから、黒い藁灰と赤い炭火のコントラストがとても美しく、見ているだけで暖かくなるような感じがしたものだった。中央に十徳を据え、金網を置いて薬缶で湯を沸かしたり、餅を焼いたりする。火鉢を使う家庭はもうほとんどないだろう。、私の家では傘入れにしているし、母の家にあった少し大きいものは、次男がメダカの飼育に使っている。
かつては日常に身辺にあった事物がどんどん姿を消してしまったことは仕方がないことだが、それを懐かしむのは、やはり年をとったからだろう。「昔はよかった」と言えば老いの繰言になるけれども、それでも、今と比較すると不便なことは多々あったが、昔ならではの良いことがいくつもあった。