中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

重度身体障害の少年の詩

2012-11-10 07:28:14 | 身辺雑記

 これまでにも引用してきましたが、『東京』紙のコラム「筆洗」はなかなか読ませるものがあります。最近も感動的な文を掲載していましたので、少し長くなりますが全文紹介します。 

  「<てのなかにうつくしいていねんをにぎりしめて いきていこうとおもう。うつくしいていねんは しんじつそのものです。くるしみのなかで ひかりかがやいています>▼美しい諦念を握り締めて生きる。この言葉を書いたのは十五歳の少年だ。臼田輝(ひかる)君は一歳になる直前、都内のマンション五階から落ちた。動くことも、話すこともできなくなった。母の真左子さんは「心も身体も毀(こわ)れてしまった」と思った▼数年たって、彼の目が輝く瞬間があることに気づいた。鏡を覗(のぞ)き込むように瞳を見つめなければ、気づかない光だ。十三歳で指先の微細な動きでひらがなを表示する装置に出合い、光は言葉となった▼<へいわがくればいい/うちゅうがえいえんにじかんのあるかぎり/いつのひか ちいさないのちがうまれて/そだっていくように>▼その言葉に、みんなが驚いた。真左子さんは言う。「やっと命をつないで生きている子どもたちは、喜びと悲しみは隣り合わせだと知っている。輝もすべてを受け入れていたのでしょう」▼<てのなかにあるしんじつは さいわいそのものです。のぞめばいつでもてにはいりますが だれもこのことはしりません。なぜならにんげんは つねにらくなみちのほうをこのむからです。いきるということは、こんなんとなかよくしてゆくことなのです>。輝君は十六歳で天に召された。」 

 心も体も毀れてしまったと思われた少年は心の中で、美しい諦念を握り締めて生きてきたのでしょう。その「美しい諦念」ということばに驚かされますし、この輝君という少年の純粋な魂の在りように感動します。ことばは出なくても豊かな感性が周囲の物事や思いを受け止めたのだと思います。奇跡のような気もします。僅か16年の短い生涯に自分の美しさを燃焼させて逝った、この少年の魂が安らかな憩いの場を見いだしたことを信じます。