五稜郭築造当時からの現存する唯一の建物「兵糧庫」~昭和47,48年と平成13,14年に復旧整備
兵糧庫(土蔵)の移り変わり
五稜郭築造当時の図面には「土蔵」となっている。1871年(明治4年)の明治政府による解体を免れた貴重な建物である。明治6年以降は陸軍省所轄になる。
1913年(大正2年)、五稜郭は函館区に無料貸与となり、翌年から公園として一般公開される。大正6年からはこの兵糧庫は松山藩出身の片山楽天が「懐旧館」の名称で箱館戦争の資料館として開設。(後に閉鎖)
そのころの写真は板張りになっているが、当初は土蔵造りだったことが判明し、昭和47,48年に解体・組立工事を実施し、当初の土蔵造りに復旧整備。平成13,14年には元来付属していたとされる庇屋(下屋)についての遺構確認発掘調査くを行い、庇屋(下屋)を含む現在の姿に復元された。
ここ数年、毎年8/1~8/31のひと月間だけ一般公開される。中は五稜郭に関する資料展示館となっている。
中は2部屋となっている。上が北側の部屋で、下が南側の部屋
五稜郭築造当時の鳥瞰図(当時の図面等から想像して描いたもの)
五稜郭に関する諸資料の展示
五稜郭からの出土生活用品
五稜郭出土の建築用材
明治新政府軍艦「朝陽」の竜骨の一部
五稜郭内の上水道跡木樋(当時亀田川から水を引いて敷地内の建物に上水道が敷かれていた)
亀田川から水を引いていた上水道木樋
箱館戦争後に発見された大砲
五稜郭築造当時の旧橋(一の橋、二の橋)の敷板・橋脚
昭和55年、56年の一の橋、二の橋の復元工事の際、堀底から発見された
上掲の立面模式図
南側の出口
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