今日は反対側から歩いてくるてくてく人さんとの再会が叶った。3年前の中山道歩きのとき、同じ宿になって以来、ネット上でのお付き合いが続いている。
彼は、今日はこちらのゴールの須賀川から歩いてくることになっている。多分ほぼ中間地点の福原辺りで会えると楽しみに歩いた。そのためにも、道を間違えないように慎重に歩いた。
さらに、宿に戻ってきてからは、栃木の山仲間のKa女史もわざわざ差し入れ持参で駆け付けてくれた。郡山駅のカフェでお会いすることができた。今日は、出会いの日だった。そういえば、今の妻との結婚記念日でもあった。
今日の宿場は、間の距離が一番長い笹川宿~須賀川宿の8kmで、あとはすべて5km以下で、1kmなどというところもあった。そのためか、9宿も通り抜けた。しかも、ほとんど旧国道の歩きで、街道然とした道はなかった。
連泊するので、不要な荷物をホテルに預けて、郡山発6:10の電車で電車で杉田駅まで戻り、昨日のゴール地点を6:35にスタート。電車移動はどうしてもスタート時間が遅くなるのが難点だ。
杉田宿~本宮宿
駅は杉田宿の中心を抜けてしまっているので、本宮宿を目指す。特に見るものもなく黙々と歩く。
本宮宿~高倉宿
本宮宿の江戸時代は、人口2384人、旅籠30軒、茶屋12軒、飯盛女70人という街道屈指の宿場だったそうだ。本陣も北と南に2軒
あった。
本宮宿を進んで行くと、北町の本陣跡碑と樹齢200年と云われる黒松がある。本陣を努めていた鴫原家はその裏にある。
宿場の中には、このような豪華な白壁造りの屋敷も多い。
街灯に南の本陣通りと書かれているが、場所は特定できなかった。
本宮宿の外れに薬師堂があり、その境内の隅に戊辰戦争(1868年7月27日)の碑と解説がある。二本松藩軍と官軍がこの地で攻防戦をくり広げたことが記されている。
その先には、会津街道と合流するが、そこには供養塔を兼ねた道標かをあり、「右あい津」「左江戸」と彫られていた。ここには本宮宿の南の木戸があったらしい。
進んでいくと、積達騒動鎮定之遺跡が現れる。1747年、毎年の不作つづきで年貢の軽減を農民が嘆願したが、わずかな軽減しか受け入れられず1万8千人の安積一揆がこの地で発生。この時、藩と交渉して流血することなく年貢軽減を実現し鎮定した冬室彦兵衛を顕彰したものだ。泣く泣く我慢をしたのだろう。
高倉宿~日和田宿
やがて、高倉宿へ入っていく。特に宿場の面影を残すものは見当たらない。
高倉城址の標識があった。
写真を撮り忘れたが、暫く進むと明治時代に架けられた五百川の橋が現れる。五百川の名は、京の都から旅をしてきた人が、この川は丁度五百番目の川になるといったことからその名がついたとのことだ。しかし、本当に良くも数えたものだと感心する。
日和田宿~福原宿
日和田宿は宿場の手前から宿場の中にも、昔の街道の松並木が残っていて、現在も新しく植えているようだ。
宿場内には街道筋の面影は残っていない。宿場の北端に蛇骨地蔵堂が現れる。この蛇骨地蔵堂というのは、家来に両親を殺されたあやめ姫が大蛇となって仇を討つだけでなく里を荒らし、毎年16歳の娘の人身御供を要求していた。ついに33人目の時に、身代わりとなった佐世姫のお経によって大蛇は骨を残して成仏したので、この骨で地蔵尊を彫って祀ったのがこのお堂であるとのことだ。
陸橋の上から、通ってきた日和田宿の町並みが見えた。
福原宿~郡山宿
福原宿にも松並木が残っていて、街道の雰囲気を残している。
この福原宿が今日のコースの中間地点なので、前から歩いてくる人日を気を付けながら歩いていると、ちょうど宿場の中心地辺りを、目印の赤いタオルを首に巻いた男性が歩いてくる。東京のてくてく人さんだ。彼は、こちらの姿をビデオカメラに収めながら歩いていた。3年ぶりの再会が叶った瞬間だ。
休みながら話ができる所を、わざわざこちらの方向に戻って、探しながら歩いてくれた。コンビニのイートインがなかったので、向かいの図書館へ入ったが、ロビーはなかった。図書館に来た人が隣の総合学習センターを紹介してくれた。
自販機もあり、缶コーヒーを飲みながら、椅子に腰かけて30分ほどお喋りを楽しんだ。今回こちらの日程に合わせて、会いたくて、わざわざ一昨日に白河から奥州街道の旅をスタートさせたと言う。感謝至極!
再会記念の場となった学習センターをカメラに収めて、お互い反対方向へ別れて歩みを進めた。
踏み切りを渡る手前に藤乃井酒造が現れる。これまでも必ずといっていいほど街道沿いにあり、昔からそこで営業を続けているという感じが好きである。
すでに、郡山市街地との境が分からないほど建物が並び、徐々に賑やかになって郡山宿へと入っていく。
郡山宿~小原田宿
宿場内というより、現代的な商店街へ入っていくと、Y字路が現れる。赤い風船という看板の下に、従是三春道という道標と、奥州街道と会津街道を示す道標の二つが立っている。元々ここには奥州街道と会津街道の分岐を示すものが大正3年に立てられたとのことである。
やがて、繁華街のど真ん中のなかまち夢通りへと入っていく。
本陣は、ビルの谷間にある八幡様といわれる安積国造神社の鳥居の先の右側にあったという。今はホテルの敷地になっている。
なかまち夢通りから南銀座商店街へとつづき、境目のないまま、小原田宿へと入っていく
小原田宿~日出山宿
小原田宿の入口と思われるクランク状のカープは、城下町に多い昔の先が見通せないかぎ形(曲手尺)の名残である。。
立派な門構えと板塀のある旧家(旧庄屋)などが現れる。かすかに宿場の面影が残っている様子だ。
その隣に小田原古民家と書かれた建物がある。中は公開されているようだが、寄らずに通過。
小原田宿~日出山宿
この区間は、わずか0.9kmしかなく、境目もなく、気が付いたら通過してしまっていた。
日出山宿~笹川宿
橋を渡る手前のささやき公園には耳語橋と音無川の由来が面白かった。それによると、奈良時代のこと、按察使(あぜち)として陸奥に来ていた葛城王が都に帰る時に、この地まで見送りにきた見目麗しい春姫と橋の上で別かれをおしみ何やらささやいたが里人には何も聞こえず川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、橋を「耳語橋」と称するようになったと記されている。
15:10、地下通路を潜ったら、須賀川駅への入口だったので、きょうはここをゴールとした。須賀川宿は明日のお楽しみ。
駅に着いたら、10分もしないうちに郡山行きの電車が来た。
連泊のホテルに戻ってチェックインしたら、日曜日は2300円だという。うれしい限りだ。
風呂にも入らないでブログを打っていたら、電話がなる。栃木の山仲間のKa女史だった。今郡山駅前に車で着いたとのこと。前もって連絡はなかったのでびっくり。
着替えて駅まで行ったが、広い駅でお互いに不案内なので、会うまで大変だったが、なんとか会うことができた。駅中のカフェで30分くらいお喋りして別れた。
Ka女史からの差し入れ。いちごは1パックはほかの客にお裾分け。
「12日目へ」のページへ
彼は、今日はこちらのゴールの須賀川から歩いてくることになっている。多分ほぼ中間地点の福原辺りで会えると楽しみに歩いた。そのためにも、道を間違えないように慎重に歩いた。
さらに、宿に戻ってきてからは、栃木の山仲間のKa女史もわざわざ差し入れ持参で駆け付けてくれた。郡山駅のカフェでお会いすることができた。今日は、出会いの日だった。そういえば、今の妻との結婚記念日でもあった。
今日の宿場は、間の距離が一番長い笹川宿~須賀川宿の8kmで、あとはすべて5km以下で、1kmなどというところもあった。そのためか、9宿も通り抜けた。しかも、ほとんど旧国道の歩きで、街道然とした道はなかった。
連泊するので、不要な荷物をホテルに預けて、郡山発6:10の電車で電車で杉田駅まで戻り、昨日のゴール地点を6:35にスタート。電車移動はどうしてもスタート時間が遅くなるのが難点だ。
杉田宿~本宮宿
駅は杉田宿の中心を抜けてしまっているので、本宮宿を目指す。特に見るものもなく黙々と歩く。
本宮宿~高倉宿
本宮宿の江戸時代は、人口2384人、旅籠30軒、茶屋12軒、飯盛女70人という街道屈指の宿場だったそうだ。本陣も北と南に2軒
あった。
本宮宿を進んで行くと、北町の本陣跡碑と樹齢200年と云われる黒松がある。本陣を努めていた鴫原家はその裏にある。
宿場の中には、このような豪華な白壁造りの屋敷も多い。
街灯に南の本陣通りと書かれているが、場所は特定できなかった。
本宮宿の外れに薬師堂があり、その境内の隅に戊辰戦争(1868年7月27日)の碑と解説がある。二本松藩軍と官軍がこの地で攻防戦をくり広げたことが記されている。
その先には、会津街道と合流するが、そこには供養塔を兼ねた道標かをあり、「右あい津」「左江戸」と彫られていた。ここには本宮宿の南の木戸があったらしい。
進んでいくと、積達騒動鎮定之遺跡が現れる。1747年、毎年の不作つづきで年貢の軽減を農民が嘆願したが、わずかな軽減しか受け入れられず1万8千人の安積一揆がこの地で発生。この時、藩と交渉して流血することなく年貢軽減を実現し鎮定した冬室彦兵衛を顕彰したものだ。泣く泣く我慢をしたのだろう。
高倉宿~日和田宿
やがて、高倉宿へ入っていく。特に宿場の面影を残すものは見当たらない。
高倉城址の標識があった。
写真を撮り忘れたが、暫く進むと明治時代に架けられた五百川の橋が現れる。五百川の名は、京の都から旅をしてきた人が、この川は丁度五百番目の川になるといったことからその名がついたとのことだ。しかし、本当に良くも数えたものだと感心する。
日和田宿~福原宿
日和田宿は宿場の手前から宿場の中にも、昔の街道の松並木が残っていて、現在も新しく植えているようだ。
宿場内には街道筋の面影は残っていない。宿場の北端に蛇骨地蔵堂が現れる。この蛇骨地蔵堂というのは、家来に両親を殺されたあやめ姫が大蛇となって仇を討つだけでなく里を荒らし、毎年16歳の娘の人身御供を要求していた。ついに33人目の時に、身代わりとなった佐世姫のお経によって大蛇は骨を残して成仏したので、この骨で地蔵尊を彫って祀ったのがこのお堂であるとのことだ。
陸橋の上から、通ってきた日和田宿の町並みが見えた。
福原宿~郡山宿
福原宿にも松並木が残っていて、街道の雰囲気を残している。
この福原宿が今日のコースの中間地点なので、前から歩いてくる人日を気を付けながら歩いていると、ちょうど宿場の中心地辺りを、目印の赤いタオルを首に巻いた男性が歩いてくる。東京のてくてく人さんだ。彼は、こちらの姿をビデオカメラに収めながら歩いていた。3年ぶりの再会が叶った瞬間だ。
休みながら話ができる所を、わざわざこちらの方向に戻って、探しながら歩いてくれた。コンビニのイートインがなかったので、向かいの図書館へ入ったが、ロビーはなかった。図書館に来た人が隣の総合学習センターを紹介してくれた。
自販機もあり、缶コーヒーを飲みながら、椅子に腰かけて30分ほどお喋りを楽しんだ。今回こちらの日程に合わせて、会いたくて、わざわざ一昨日に白河から奥州街道の旅をスタートさせたと言う。感謝至極!
再会記念の場となった学習センターをカメラに収めて、お互い反対方向へ別れて歩みを進めた。
踏み切りを渡る手前に藤乃井酒造が現れる。これまでも必ずといっていいほど街道沿いにあり、昔からそこで営業を続けているという感じが好きである。
すでに、郡山市街地との境が分からないほど建物が並び、徐々に賑やかになって郡山宿へと入っていく。
郡山宿~小原田宿
宿場内というより、現代的な商店街へ入っていくと、Y字路が現れる。赤い風船という看板の下に、従是三春道という道標と、奥州街道と会津街道を示す道標の二つが立っている。元々ここには奥州街道と会津街道の分岐を示すものが大正3年に立てられたとのことである。
やがて、繁華街のど真ん中のなかまち夢通りへと入っていく。
本陣は、ビルの谷間にある八幡様といわれる安積国造神社の鳥居の先の右側にあったという。今はホテルの敷地になっている。
なかまち夢通りから南銀座商店街へとつづき、境目のないまま、小原田宿へと入っていく
小原田宿~日出山宿
小原田宿の入口と思われるクランク状のカープは、城下町に多い昔の先が見通せないかぎ形(曲手尺)の名残である。。
立派な門構えと板塀のある旧家(旧庄屋)などが現れる。かすかに宿場の面影が残っている様子だ。
その隣に小田原古民家と書かれた建物がある。中は公開されているようだが、寄らずに通過。
小原田宿~日出山宿
この区間は、わずか0.9kmしかなく、境目もなく、気が付いたら通過してしまっていた。
日出山宿~笹川宿
橋を渡る手前のささやき公園には耳語橋と音無川の由来が面白かった。それによると、奈良時代のこと、按察使(あぜち)として陸奥に来ていた葛城王が都に帰る時に、この地まで見送りにきた見目麗しい春姫と橋の上で別かれをおしみ何やらささやいたが里人には何も聞こえず川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、橋を「耳語橋」と称するようになったと記されている。
15:10、地下通路を潜ったら、須賀川駅への入口だったので、きょうはここをゴールとした。須賀川宿は明日のお楽しみ。
駅に着いたら、10分もしないうちに郡山行きの電車が来た。
連泊のホテルに戻ってチェックインしたら、日曜日は2300円だという。うれしい限りだ。
風呂にも入らないでブログを打っていたら、電話がなる。栃木の山仲間のKa女史だった。今郡山駅前に車で着いたとのこと。前もって連絡はなかったのでびっくり。
着替えて駅まで行ったが、広い駅でお互いに不案内なので、会うまで大変だったが、なんとか会うことができた。駅中のカフェで30分くらいお喋りして別れた。
Ka女史からの差し入れ。いちごは1パックはほかの客にお裾分け。
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