12/13~12/23まで、北海道渡島総合振興局1階ロビーおいて、「北前船資料展示会」が開催されているというので、ウォーキングがてら行ってみた。
北前船の模型や函館の繁栄に大きく貢献した高田屋嘉兵衛の功績を紹介したパネルなどの資料が展示されていた。
展示資料は、市内の小学校3.4年生に配布されている副読本『高田屋嘉兵衛さんとわたしたちの函館』の全ページを拡大コピーしているものだった。
現職のころこの編集に携わったこともあり、特に目新しいものはなかった。ただ、小学生用に記述してあるので、一般市民にとっては非常にやさしく読めて、理解しやすい内容だと思う。
「北前船」は、江戸中期から明治30年代まで、蝦夷(北海道)と大坂の間を、日本海沿岸の諸港に寄港しながら、下関、瀬戸内海を通って往来した廻船である。
上方や瀬戸内では「北前」とは「日本海側」を意味し、北の日本海から来る船を「北前の船」と呼んだことに由来する。日本海沿岸では北前船とは呼ばず「千石船」「弁才船(べざいせん)」と呼ばれた。
北前航路は「物資と文化を運んだ海の大動脈」と言われ、北前船はいわば“海を往く総合商社”であった。
本州からは、米や塩、砂糖、酒、酢、鉄、綿、薬、反物や衣類などあらゆる生活物資を積み込み、売買しながら日本海を蝦夷地に向けて北上した。これを「下り荷」という。逆に、蝦夷地から上方へと向かう荷を「上り荷」といい、主に昆布や鰊、鰊粕、干鰯、鮭、鱈などの海産物を運んだ。一回の航海の利益は現在の額で約1億円にもなった。
しかし、北前船は船主に巨富をもたらしただけではない。鰊粕や干鰯などの魚肥は、上方の綿花栽培を支え、麻に替えて肌触りのよい木綿の衣類を普及させたほか、各地の生活文化にさまざまなな影響を及ぼした。例えば、北前船が蝦夷から運んだ「昆布」は日本の食文化を一変させた。とりわけ北前船の故郷、北陸地方では昆布は郷土の食文化と深く関わっている。
この函館の基礎を築いたといわれている高田屋嘉兵衛もその船主の一人である。嘉兵衛は得た富を函館のために還元したことは有名である。展示パネルにもそのことが詳しく述べられている。
この展示では触れられていないが、忘れてならないのは、北前船の巨富の犠牲になったアイヌの人々の存在である。
江戸時代となり江戸幕府が対アイヌ交易権を北海道の松前藩に独占させた頃から、アイヌの人々にとってきわめて不利な条件で鮭や鰊などの交換レートが決められるようになり、アイヌの人々の不満が高まる。
そのような中で起こったのがシャクシャインの戦い(1669年)である。しかしアイヌはこの戦いに敗れ、その後クナシリ・メナシの戦い(1789年)でも敗北し、和人に隷属する地位にまで追いやられていく。
アイヌの人々は松前藩が制定した場所請負制度により縛りつけられ、それぞれの地を担当している商人が雇った。
番人によって、労働を強制されるようになる。その結果、男の人は遠い場所へ出稼ぎに行かされ、妻と離れ離れになり、離島で5年も10年も酷使させられたそうだ。一家の働き手である男は問答無用で労働に駆り出され、食べる物も満足にない、というのがアイヌの家族の一般的な姿となってしまった。
実際、1822(文化5)年に2万4000人あったアイヌの人口は、32年後の1852(安政5)年には1万8000人にまで激減している。
このように実は華やかだった北前船の交易の陰には、アイヌの人々の大変厳しい歴史があったことも忘れてはならない。
『千石船で一航海するだけで、千両の儲けがあった』という北前船の商売は、アイヌの人々からするときわめて不公平な交易であったということである。
松浦武四郎がその実態を幕府に上申したことや、明治政府の開拓使の役人になってもアイヌの待遇改善を申し知れたが、聞き入れられなくて役人を辞めて故郷へ戻ったのは有名な話である。
例えば、こんなことも不公平な交易の例だったのでしょうね?
しかし、言われてみれば、函館市内には松浦武四郎の足跡を示す標識や説明版はないです~。
なぜなんでしょうね?
それは、未開の地に足跡を残したからではないでしょうか?
武四郎が箱館に来たときには、もう武四郎が改めて業績を残せるような場や機会がなかったということも考えられないでしょうか?