
昨秋の三厩宿~盛岡宿までの松前道に引き続き、12日間にわたって、白河宿までの盛岡道と仙台道を踏破することができた。通過した宿場は63次、迷ったり、寄り道したりの距離を合わせて、トータルで約410kmの旅だった。
なお、宿から宿までの歩いた毎日の歩数は、最低で約45,000歩、最高で約61,000歩だった。

今回は、天候にも恵まれ、北上する桜前線と仙台付近でクロスすることができ、早咲きや遅咲きの桜のほかに梅や桃など、さらには、道端や庭の春の花々を楽しみながら歩くことができた。
◎今回も一番の頼りにしたサイト
前回に引き続き、今回も「揺次郎のウォーキングライフ」の「松前道ウォーキング」の「松前道」と「仙台道」を頼りにして歩いた。
このサイトは、『奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド』を基に歩き、宿場間ごとのルートをgooglemap上に記載してくれているので、拡大すると、建物や店の名前、信号の場所も提示されるので非常に助かる。
◎盛岡道~仙台道を歩いてみて
一里塚と明治天皇行幸の石碑ばかりが印象に残った松前道に比べて、今回の盛岡道と仙台道は、参勤交代で利用した大名も増え、9世紀の坂上田村麻呂や12世紀の奥州藤原氏三代やそれに関わる源義経など、さらには、戦国時代から徳川時代に掛けての藩政、幕末の戊辰戦争など、さまざまな重層的な歴史や文化が渦巻き、いろいろな歴史遺産や史跡やその説明板や案内板も多い充実した街道歩きだった。

参勤交代で歩いた大名の数が増え、松前道に比べて、本陣跡や脇本陣跡も多くなり、有壁宿には当時のままの本陣が残っていた。しかし、中山道や東海道に比べては、宿場の面影を残すところは少なかった。

ただ、松前道に比べて、街道筋や宿場には大きな屋敷を持つ旧家や江戸時代から続いていると思われる○○屋□□店といった老舗が多く目に付いた。

史跡などは、分からないときはうろうろしないで、通行人や近くのお宅や店に飛び込んで、聞くように努めた。
◎歩く距離と時間について
今回は日が長いので、5時スタート15時までにはゴールを基本に、35km前後の計画を組んだ。実際には少ないときで27km、多いときで42kmだった。ちなみに、歩いた距離は、その日の街道のスタート地点からゴール地点までのGPSによる実測距離なので、迷ったり寄り道したりした分も含まれている。

冬のクロスカントリースキーやハードな雪山登山を続けたあとの出立だったので、体力的には疲れを感じたり筋肉痛になったりすることはなかった。ブログアップの時間を確保するために、遅くとも15時までにはゴールするように努めた。ただ、宿がゴール地点で確保できなかったときには、電車で移動するので、始発が6時以降になり、スタートが遅くなることもあった。
◎費用と宿の確保

宿は、素泊まりで5000円以内、素泊まりのときの食事は朝と昼で1000円、夜は1000円とし、1日7000円を基本とした。実際の宿は、13泊の内5000円を超えたのは3回、2000円台で収まるカプセルホテルが4回とトータルで考えれば、宿代は5000円以内で収まったと思う。仙台までの盛岡道は、スタート前に予約を入れて確保しておいて、無理してでもそこまで歩いたが、仙台道へ入ってからは、毎日その日の昼に、残りの距離を考えて宿を探すようにした。

食事は、朝はコンビニでコーヒーとサンドイッチが多かった。昼は座って休みたいし、その日の宿を探すためにも食堂やレストランが多かった。その点、すき屋、ガスト、まるまつ、かつやなどは500円前後でボリュームもあり、栄養バランスの取れた食事が摂れるので重宝した。夕食は、宿の近くの外食もあったが、風呂に入ってブログを打ち始めると、着替えで外に出るのが面倒で、宿に入る前に買い込んだコンビニ弁当+αで済ませることもあった。
◎ブログアップについて
「歩いては書く」をポリシーとしている以上は、その日のうちに旅日記をアップすることを自らに課したミッションとしている。昔の松浦武四郎を初めとする旅人は、筆と墨で毎日の記録を書き、さらには詳しいスケッチまでしている。それに比べたら楽なはずである。

しかし、毎日3~4時間ほどを費やすことが多かった。それだけに、なるべく15時前にゴールするように努めた。それでも、遅いときはアップできるのが21時前後になる日もあった。
体や足はそれほど疲れを感じることはなかったが、目が疲れて集中力が途切れると間違いが多くなり効率が悪くなる。最後の2日間は打ち終えた後に手首が軽い腱鞘炎症状を起こしていた。
◎白石藩の松前家の墓所について

白石藩の片倉家の菩提寺にあった松前家の墓所があったことに驚いたが、これは、
松前藩祖・松前慶廣の八男安廣を祖としている。。安廣は慶長十四年(1609)伊達政宗の家臣となり、二千石の領地を賜っている。これは父・松前慶広が来仙して、安廣の仕官を政宗と約束したとも、または旗本になっている伯父を頼りに仕官を求めて江戸に登る途中。白石にて片倉重長の知遇を得て、政宗に推挙されたとも言われている。
また寛永6年(1629)には政宗の腹心片倉小十郎景綱の子・小十郎重長の娘喜佐を妻として娶り五男三女をもうけていて、その後、仙台藩松前家として、維新に至っている。→仙台松前家の系図
なお、これとは関係ないが、松前藩ゆかりの地で、寄るつもりが寄らずに来てしまったところがある。
松前藩は、1807年~1821年の14年間、蝦夷地が幕府直轄となり、当時の陸奥国伊達郡に転封された時代がある。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。梁川に連れてきた家臣は111名であったという。その梁川町(現伊達市)に寄ってみたかったが、思い出したのが、その近くを通過してしまった後だった。
文化の交流やゆかりの品も多く、その縁で昭和59年10月に松前町と旧梁川町の間で姉妹都市提携を結んでいるという。いずれ、東北の山巡りのときにでも寄ってみたいと思っている。
◎今後の奥州街道歩きの予定
奥州街道の残りは、幕府直轄の白河~日本橋(奥州道中)である。ついでに、宇都宮から別れる日光街道を合わせて、今秋に歩く予定である。
奥州街道歩き旅、大変お疲れさまでした。
この街道は旧跡・名跡も盛りだくさんで、とても見応え読み応えのある旅記でした。
特に、以前観た映画「殿利息でござる」の宿場や、私の実家の苗字の宿場「杉田宿」が出てきてとても興味深く拝見しておりました。
歩き終えてのその日のうちのアップは、内容も盛りだくさんで大変だったかとお察ししておりますが、迅速なアップは"本当に凄い!"のひと言です。
楽しませて頂きました。
桜をお連れになったようで、函館は丁度開花を迎えたようですね。
腫瘍マーカーの数値気になりますが…、きっとお疲れなどで少し上がったのでは・
映画「殿利息でござる」観られたのですね。私は知りませんでしたが・・・。
そのうちの日のブログアップは正直辛いものがありますが、日程が長いので、その日のうちに書かないと忘れてしまいます。でも、アップし終えた時の満足感も良いものです。
桜を連れて帰って来たのですが、連日寒くて・・・。明日は好天になりそうですので、妻と一緒に花見巡りをします。
腫瘍マーカーですが、旅に出るかなり前の3月上旬の採血でした。その後上がっていないことと、5/8のCTで何も見つからないことを願っています。体調はすこぶる良好です。