聖徳太子に学べ

2008年05月11日 | 私の思い
                   (田植を待つ、ふるさとの田んぼ)

売出し案内状を配りながら、但馬空港から坂を下りると、里の田んぼには水を張り、田植の準備です。
空を映した水面を煙が這い、実にのどかな農村風景です。
1400年昔の聖徳太子の時代も、山を背にした農村はこんな風景だったのでしょうか。
大陸の、醜い華夷秩序にもとずく冊封(さくほう)体制を拒否し、永きに亘り大陸との交流を止めていた我国(その当時は倭国と称した)、
聖徳太子の時代になり、満を持して中国大陸(当時は隋)と外交を結ぶことを決断します。
西暦600年の第一回遣隋使、607年の第二回遣隋使を派遣するわけです。
第二回遣隋使で、小野妹子(おののいもこ)が皇帝煬帝(ようだい)に奉呈した、あの有名な、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無(つつがな)きや云々」という国書です。
聖徳太子は、朝鮮半島の高句麗と大陸の隋とが戦争状態にある国際情勢を読み取り、
遠交近攻策の国柄である隋に、倭国を対等の国として認めさす挙に出たわけです。
隋の弱り目を突いた巧みな外交駆け引きです。
福田総理殿、五輪で助け舟を求めている共産中国に、聖徳太子並みの知恵でもっともっと言うべき主張が出来たはず、
千載一遇のチャンスを惜しかったな~、パンダだけが成果とはちょっと悲しすぎますね。