「神谷作古墳の埴輪」たちです。
いわきヒューマンカレッジいわき学部 第1回講座
神谷作古墳の埴輪たち
・・・遥かな過去の襖をあけて、王者の残り香を追う・・・
講師は馬目順一先生
1) 神谷作101号墳の埴輪調査
2) 神谷作106号墳の埴輪調査
3) 日本における古墳文化
A.前方後円墳の成立と倭王権
B.埴輪の誕生と展開
4) いわきの埴輪群
5) 淡輪系・尾張系埴輪の伝播
を丁寧なレジメと共に学びました。
1)神谷作101号墳の埴輪調査・・・上記の写真参照
(いわきの遺跡めぐりP35参照)
1948年「夢」という言葉が思い出せない戦後の混乱時期
現在の磐城高等学校の「史学クラブ」が調査。
神谷作の仁科医院の敷地・・・馬の埴輪の足が4本発見
→明治大学の後藤教授の指導のもと発掘調査
→「考古」という本に調査されたものを順次載せられた。
・・・101号埴輪は国指定重要文化財に指定され
現在、磐城高等学校にあります。
2)神谷作106号墳の埴輪調査・・・上記の写真参考 昭和51年調査
3)日本における古墳文化 .
A.前方後円墳の成立と倭王権
世界史的に見ますと食糧採集段階が長かった日本は
水田耕作が始まると、階級社会が発生
→王権が成立し最古の王墓が姿を現す。
その間600年と短い期間で「古代化」が進んだと・・・・・
天皇の名前はいつできたのか?
壬申の乱(天武天皇)からといわれる。
律令制が整えられ始められる7C末、
日本の原点ができ始めたと・・・・・
B. 埴輪の誕生と展開レジメの2で王陵の系列と変遷を詳しく説明されました。
神聖王墓と執政王墓について。
埴輪はどうして作られたのか?
崇神(すじん)天皇がお亡くなりになった時、
側近が殉死→土で作った人形をお墓に納めたのでは?(円筒埴輪を)
といわれたが、
実際は共食をする葬送儀礼として作られた。
埴輪で食べた?
(神と今の人が共に食べてあの世に送る儀礼だったと・・・・・)
すなわち卑弥呼前の古墳・ホケノ山古墳には殉死の例は一つもないことから・・・・・そして、
5C以降、共食はしなくなり、葬送儀礼だけになってきたと・・・・
(埴輪の形状からわかると(3C~7Cまでを調べると)・・・)
埴輪や前方後円墳は日本で生まれ日本で消えたと…
そして、
埴輪は前方後円墳とともに消滅した。
4)いわきの埴輪レジメの4で、詳しく説明をされました。
5) 淡輪系・尾張系埴輪の伝播レジメ5でいわきにあります2系統の話をされました。
参加者は約190名と人気の講座になっています。
熱気あふれる講座になりました。
馬目先生
貴重なお話ありがとうございました。
いわきでは台風9号の影響がなく
ホッとしています。
今朝は寒いくらいです。
台風一つで気候が変わるのですね・・・・・