横浜美術館・イタリア政府観光局資料より
(馬目先生レジメから)
地震により眠りに就いた「古代都市ポンペイ」について。
火山灰に出来た空洞に
石膏を流し込んで得られた犠牲者たちの人型の映像です。
イタリア政府観光局資料より。
(馬目先生レジメから)
今月2日、
恒例のいわきヒューマンカレッジ(市民大学)が
地震に負けず4学部開催されました。
いのししはここ7年ほど
いわき学部に参加しています。
今年のいわき学部の受講生は約200名弱と大勢の方が
学んでいます。
今回のいわき学部のキーワードは
歴史に見る災害からの「復興」がテーマです。
7講座学びます。
楽しみです。
その1回目は
「自然災害と考古学」
・・・災害都市ポンペイから考古学は始まった・・・
講師は
馬目順一先生でした。
1)「ポンペイ」の輝きと悲劇 そして再生
①紀元79年8月24日、夏の暑い日
突然ヴェスビオス山が裂け、爆発と地震により
古代都市ポンペイは溶岩と火山灰で埋め尽くされ、
18km四方の町々が歴史から一瞬のうちに消え去ってしまった!!
絶頂期の街が消滅した
↓
生きる/消滅が同時に
↓
それ以後1700年間、土に埋もれたままに・・・・
当時の宗教はキリスト教ではなく多神教(エジプトの神が人気。)
②ヴェスビオス火山大爆発により文物露出(1737年)。
ナポリ王カルロス3世ポンペイ調査・・・正式な発掘の初め(ピューレ式の軍隊により)
青銅製品は溶かしてしまう。(宗教が違うためか?)
これ以後
1700年土の中に埋もれていた「ポンペイ」の街の
概要が調査され始めた。
それ以後の調査により
街全体が保存され、
街そのものが博物館になった!!
③「考古学の父」といわれる39歳のヴィンケルマン調査に入る(1759年)
④1763年「ポンペイ」のなの刻印発見により名がわかる。
⑤1830年「イッソスの戦い」絵が発見される。
・・・アレキサンドロスとダリウス3世との戦い・・・・・
⑥1861年新王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世調査。
石膏人物像を作る・・・フォレッリが総監督で・・・上記写真のような。
⑦このように
街全体が博物館になった「ポンペイ」が
第2次世界大戦で、被害を受ける。
⑧遺跡保存の問題と同時に地震が起きる・・・1980年
遺跡の劣化状態という。
⑨現在、東京大学・強と古代学協会の日本調査隊も調査中とか。
古代ポンペイは
その絶頂期にうずもれ、、
死の街となり、復興した街といわれる所以です。
ここに私達の汲み取るヒントも隠されているようでした。
2)日本考古学に記憶
①縄文海進
②榛名山の爆発
③地震の被害を受けた遺跡について
ポンペイの話と日本のお話。
馬目先生の話はわかりやすく聞きやすい。
特に
「ポンペイ」の話はよかった。
図書館で調べたいテーマが一つ増えました。
馬目先生ありがとうございました。
馬目先生は7回目で、
1日、バスで、
古代官道を調べる講座があり
今から楽しみです。