こないだの接骨の会の会議で、次回の新年会についての話がありました。
うちの会で毎年新年会をやるときに使っている施設が事情により
来年から使えなくなる可能性があるので、どうしたらいいか?というお話でした。
使う施設を新たに探すという案が真っ先に出るのはもちろん当然なのですが、だんだんと
「そもそも一月の忙しい時期にこだわる必要があるのか」という意見も出始めまして、
一部の方もそういえばそうだなと同調しているように見えたので
院長は勝手に危機感を覚えました。
新年会には「来賓を招いて、会員の先生同士が新年の顔見せをする」という
ちゃんとした意味合いがあります。
院長はまだ会に入って年月が浅いので新年会が出来た経緯はよくは知りません。
ただ意味合いは理解していたつもりだし毎年泊まりで参加してます。
新年会を単に「来賓や会員が相互に親睦を深める場」として捉えると、
なるほど新年の行事の重なる忙しい時期にあえてやらんでも、暇な三月辺りにでも
名目を変えてやればいいという意見は柔軟性があり、合理的とも思えます。
こういう論調の展開は今回の新年会の話に限らず気をつけていると
日常でもよく見られます。
なんか浮かびます?
国民の祝日の変更なんてまさにそうね。
国民の祝日を単に休みの日と捉えると曜日を動かして月曜に持って来ちゃえば
土日月で三連休になるし、連休になったほうがみんな外出するし、景気も良くなる!
って小渕さんが始めたんですな。
バカか?
日本人は働き過ぎだから祝日を増やせっていう圧力があるにせよ無いにせよ、
何かを祝ったり再認識したりする機会ではあるわけです。
意味があるの。
「意味なんかいいじゃん別に」っていう意見が多いのも事実だし、
だったらもっと柔軟に考えようよ、っていう論調は現代的というか進歩的なのかもしれない。
でもいろんな事柄を日常からそういう風に合理的に考える習慣がついてくると
何かがどんどん壊れていく気がする。
例えば結婚式だって一回限りのことだし、自分も相手も無宗教だし
金かけるのも勿体ないから、式なんか挙げないでその分のお金を
新生活の足しにしたほうがいいって考えは今は割りと普通でしょ?
こういうことに何か漠然とした不安感や危機感を感じてしまう院長は
考え方が古いんだろうか。
今回の会議では新年会は残したいという意見ももちろん出ました。
でもこういった話し合いになると、合理的で柔軟な意見の方が何となく強いんですよね。
意味合いや形式は残したいっていう意見はヘンなこだわりであり、
もっと要領良く進めるのが結局はみんなのため、 みたいに言われると反論しづらい
(今回の会議でそう言われたわけではないです)。
こういった場面で感じる違和感や危機感は大事にすべきだと、
寝たがっている奥さんに延々と語りかけていました。
奥さんの意見は「ただ寝かせて欲しい」とのことでした。
うちの会で毎年新年会をやるときに使っている施設が事情により
来年から使えなくなる可能性があるので、どうしたらいいか?というお話でした。
使う施設を新たに探すという案が真っ先に出るのはもちろん当然なのですが、だんだんと
「そもそも一月の忙しい時期にこだわる必要があるのか」という意見も出始めまして、
一部の方もそういえばそうだなと同調しているように見えたので
院長は勝手に危機感を覚えました。
新年会には「来賓を招いて、会員の先生同士が新年の顔見せをする」という
ちゃんとした意味合いがあります。
院長はまだ会に入って年月が浅いので新年会が出来た経緯はよくは知りません。
ただ意味合いは理解していたつもりだし毎年泊まりで参加してます。
新年会を単に「来賓や会員が相互に親睦を深める場」として捉えると、
なるほど新年の行事の重なる忙しい時期にあえてやらんでも、暇な三月辺りにでも
名目を変えてやればいいという意見は柔軟性があり、合理的とも思えます。
こういう論調の展開は今回の新年会の話に限らず気をつけていると
日常でもよく見られます。
なんか浮かびます?
国民の祝日の変更なんてまさにそうね。
国民の祝日を単に休みの日と捉えると曜日を動かして月曜に持って来ちゃえば
土日月で三連休になるし、連休になったほうがみんな外出するし、景気も良くなる!
って小渕さんが始めたんですな。
バカか?
日本人は働き過ぎだから祝日を増やせっていう圧力があるにせよ無いにせよ、
何かを祝ったり再認識したりする機会ではあるわけです。
意味があるの。
「意味なんかいいじゃん別に」っていう意見が多いのも事実だし、
だったらもっと柔軟に考えようよ、っていう論調は現代的というか進歩的なのかもしれない。
でもいろんな事柄を日常からそういう風に合理的に考える習慣がついてくると
何かがどんどん壊れていく気がする。
例えば結婚式だって一回限りのことだし、自分も相手も無宗教だし
金かけるのも勿体ないから、式なんか挙げないでその分のお金を
新生活の足しにしたほうがいいって考えは今は割りと普通でしょ?
こういうことに何か漠然とした不安感や危機感を感じてしまう院長は
考え方が古いんだろうか。
今回の会議では新年会は残したいという意見ももちろん出ました。
でもこういった話し合いになると、合理的で柔軟な意見の方が何となく強いんですよね。
意味合いや形式は残したいっていう意見はヘンなこだわりであり、
もっと要領良く進めるのが結局はみんなのため、 みたいに言われると反論しづらい
(今回の会議でそう言われたわけではないです)。
こういった場面で感じる違和感や危機感は大事にすべきだと、
寝たがっている奥さんに延々と語りかけていました。
奥さんの意見は「ただ寝かせて欲しい」とのことでした。