8日(土)の、勉強会のはしご、後半は「ことばとジェンダー」シンポジウム。(6月19日のブログでもご紹介しました)
日本語とジェンダーのありように鋭い目を向け、日常の言語生活を対象とする新しい研究方法を示した言語研究者の故寿岳章子さんの志をうけつごう、と開催されたシンポジウムには、多くの学者、日本語教育関係者、研究者が集まりました。
私は「女性のための政治スクール」を早退してかけつけたので、最後の方しか顔を出せなかったのですが、ちょうど、パネリストと会場の参加者とのQ&Aの時間で、深みのあるやりとりが行なわれていました。
シンポジウムの表題でもある「ジェンダー」という言葉は、今、日本では(というか東京都では?)大変なバッシングに遭っています。
しかし、「ジェンダーフリー」はともかくとして、「ジェンダー」という概念(生まれながらの性別ではなく、社会的につくられた男性らしさ、女性らしさの規範を求める概念)は、世界中で認識され使われている言葉であり、それを理解しないとか使わないとか言っていたら日本は世界に取り残される、という状況にあります。(まー、はっきり言って、国際人として恥ずかしい、ということですね)
だから、「ジェンダー」という言葉の理解をもっと広げることに努力すべきなのだろう、と、改めて認識して帰って来ました。
そんな矢先、今日の東京新聞の記事。(写真)「ジェンダー・バッシング(バックラッシュ)」のおかしさについて説いています。(ホント、「男女平等の考え方は男女同室で着替えをさせることだ」なんて馬鹿なことがよく言えたものです)
「男女共同参画」や「ジェンダー差別のない社会」を目指すことを阻むために、意図的、恣意的に、「ジェンダー」という言葉を曲解させ、手垢がつけられているなぁ、ということを感じます。
そんな馬鹿なことを言っている人たちに負けずに、“女性であっても男性であっても、○○らしくなければならないということに縛られず、誰もがその個性や能力を十分に発揮できる社会”を実現させたい!と思います。
それが、私の大きな政治課題のひとつです。
日本語とジェンダーのありように鋭い目を向け、日常の言語生活を対象とする新しい研究方法を示した言語研究者の故寿岳章子さんの志をうけつごう、と開催されたシンポジウムには、多くの学者、日本語教育関係者、研究者が集まりました。
私は「女性のための政治スクール」を早退してかけつけたので、最後の方しか顔を出せなかったのですが、ちょうど、パネリストと会場の参加者とのQ&Aの時間で、深みのあるやりとりが行なわれていました。
シンポジウムの表題でもある「ジェンダー」という言葉は、今、日本では(というか東京都では?)大変なバッシングに遭っています。
しかし、「ジェンダーフリー」はともかくとして、「ジェンダー」という概念(生まれながらの性別ではなく、社会的につくられた男性らしさ、女性らしさの規範を求める概念)は、世界中で認識され使われている言葉であり、それを理解しないとか使わないとか言っていたら日本は世界に取り残される、という状況にあります。(まー、はっきり言って、国際人として恥ずかしい、ということですね)
だから、「ジェンダー」という言葉の理解をもっと広げることに努力すべきなのだろう、と、改めて認識して帰って来ました。
そんな矢先、今日の東京新聞の記事。(写真)「ジェンダー・バッシング(バックラッシュ)」のおかしさについて説いています。(ホント、「男女平等の考え方は男女同室で着替えをさせることだ」なんて馬鹿なことがよく言えたものです)
「男女共同参画」や「ジェンダー差別のない社会」を目指すことを阻むために、意図的、恣意的に、「ジェンダー」という言葉を曲解させ、手垢がつけられているなぁ、ということを感じます。
そんな馬鹿なことを言っている人たちに負けずに、“女性であっても男性であっても、○○らしくなければならないということに縛られず、誰もがその個性や能力を十分に発揮できる社会”を実現させたい!と思います。
それが、私の大きな政治課題のひとつです。