私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

久しぶりの更新だから長文にもなる

2012年12月14日 19時38分11秒 | 過食症

現在、過食状態。

もう二ヶ月になる。

創価学会員の宿命というのでしょうか、選挙の時期となりました。

公明党に一票投じなければなりません。

過食状態のときは余所との連絡を絶ち、外出もしないのが常ですが、さすがに無投票というわけにはいかず、母親に連れられ期日前投票に行ってきました。

役所に向かう車の中で母と話をしました。

近況報告など、まあ世間話です。

この年で無職でプー太郎な私は、母にとって、否、家族にとっての一番の悩みの種です。

当然ながら、この先どうするつもりだって話になります。

今までよくそうならずにいられたものです。

来春から専門学校に通ってはどうかと言われました。

悪くない。

悪くはない案です。

でも、そうじゃない。

それは一個飛び越えてる。

私はまだそこにすら立っていない。

過食症の完治を抜きに先には進めない。

「それよりまず過食症を治さないと」

その一言が口をついて出ない。

だから話は次々進んでいこうとする。

コンピューター系の学校はどうか。

母はやたらとコンピューター系を勧めてきた。

私に向いていると思っているらしい。

たしかに的外れではない。

でもまだ私はそこにすら立っていない。

きっと通えやしない。

通常状態が破綻して過食状態となり、学校に行かなくなる。

破綻しても通いとおし卒業してみせる、なんてそんな情熱は持ち合わせていない。

だから、うかつに通うなんて、そんな無責任なことは言えない。


私は自分の兄弟がいまどんな感じで過ごしているのかもよく知りません。

母が教えてくれました。

ほかにも、実家の近所の人で私が知っている人がいまどうなっているのかも教えてくれた。

たとえば、私の小学生のときの同級生、ではなくその弟の話。

数年前にタレント事務所のオーディションに挑戦し、その結果、東京にあるその芸能事務所が経営する養成所に通うことになった。

単身上京し、2年間、そこで月謝を払って授業を受ける。

2年が経ち、契約が切れる。

タレントとしての仕事はない。

契約を延期して引き続き養成所に通うことはできたが、そうはせず、今ではアルバイトで生計を立て、関西には戻って来ずに東京で暮らしているらしい。

ほかにも、私の小学生のときの同級生の、とある女の子なんかは、読者モデルをしているらしい。

それも、これまた東京で。

それでも母の話を聞くに、数多いる無名の読者モデルの一人にすぎないようです。

タレント志望の彼にせよ、読者モデルの彼女にせよ、抱いたのは大人に嫌われそうな夢です。

私もかつて似たような夢を持っていました。

ミュージシャンです。

ただ、彼女らと違い、実行に移せませんでした。

比較的青臭い情熱を持ち合わせていたあの若かりし頃ですら、私は自分の意志を貫くことができなかったのです。

今となっては、私の中で情熱だけが廃れ、そのくせ夢だけはぼんやり片隅に置き去りにされている観があります。

「過食症の完治」と「情熱の再熱しかり夢追いの実行」とが同時に片がつき、それでいて夢が成就し、これまで病気で心配をかけてきた人たちに自分の雄姿を見てみらう。

そんな子供じみたバカげた考えを、わりと本気で持っていたりします。

過食症が終わりを迎えるのは、私が夢に向かって走り出したときだ。

逆にいうと、夢に向かって進まない限り、私は過食症の呪縛からは逃れられない。

これはある意味とても危険な思想だと思います。


家に帰って、読者モデルをしているというかつての同級生の名前をネットで検索してみました。

すると、その人とおぼしき人物を見つけました。

小学生の時の知人なので記憶があいまいですが、おそらくそうだろうとおもいます。

もし彼女がそうであるのなら、充実した毎日を送っているような、人生を謳歌しているような、そんな印象を受けました。

変に杞憂していた自分が恥ずかしくなるような。

それどころか、「それに引き換え俺の人生は・・・」って卑屈になる始末。

でもおかげでなんか、二か月続いた過食状態を終えられそうな気もする。


あと最後にもう一つ、この記事を書きながら思ったことを。

母から私の幼いころの知人2人の現在の状況を聞いたわけですが、逆に母が誰かに私の今の状況を話さなければならないといったそんな場面もあったんだろうか。

それを考えると居た堪れない。