私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

兄弟抄

2018年11月07日 04時53分45秒 | 過食症

通常状態25日目。

今日は少し創価学会の話をします。

 

これまで私はこのブログで、過食症のことを色々なたとえで語ってきました。

今日もまた新たに例えたいと思います。

 

というのも、いま教学の勉強で「兄弟抄」を学んでいます。

そこで「転重軽受」の法理が説かれています。

「重きを転じて軽く受く」と読みます。

本来重い罪を受けるところを軽いものに転じて受けることができるということです。

そしてその例えとして、鉄を何度も熱して鍛えていくと、脆さの原因である傷が表面に叩きだされてくる、とあります。

まさにこれが過食症に通じる。

過食衝動の発作にさいなまれるとき、自分の中の脆さが露呈している。

それを外に出しきるか、あるいは、またもや自分の中に収めてしまうのか、その岐路に立っている。

御書には「十羅刹、心み給わんがために」とあります。

自分の信心が試されている、ということです。

通常状態の時はそれなりに勤行唱題をしていますし、会合にも参加します。

しかしひとたび過食状態に転じれば、会合に行かないのはもちろん、御本尊の前に座ることも無くなります。

まさに過食が信心の障りとなる。

「これに随えばまさに人をして悪道に向かわしむ」とはこのことか。

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」ともあります。

頭ではわかってはいるんですが、いざ目の前に奴がくるとものすごい力で随わせようとしてくる。

あれは俺の脆さだ。

吐き出してしまわないと。



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