1月29日付 産経新聞【正論】より
学問と自己錬磨への熾烈な欲望なき民族に堕した日本 吉田松陰の「リアリズム」に覚醒せよ
文芸評論家・小川榮太郎氏
http://www.sankei.com/column/news/180129/clm1801290004-n2.html
とりわけ、水戸学の大家、会沢正志斎らとの邂逅(かいこう)は転機となつた。帰国後、『日本書紀』『続日本紀』を直ちに読み始め、“身皇国に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん”と嘆声を挙げてゐる。
これが松陰の「日本」発見である。それは、例へば本居宣長の発見した「日本」とは異なる。宣長は『古事記』に漢心(からごころ)以前の日本の心の質朴さを、『源氏物語』にもののあはれを見いだしたが、松陰は『日本書紀』に、古代日本史における歴代天皇の雄大な国際経営を発見したのである。
日録によれば、帰国後半年の間、松陰の読書は『詩経』『名臣言行録』『孟子』と漢籍に戻り、再び『日本逸史』『続日本後紀』『三代実録』『職官志』『令義解』『日本外史』、そして再度翻つて『史記』『漢書』を繙(ひもと)き、日支の歴史・精神の比較研究の様相を呈してゐる。ところが、かうした日本国といふネーションの自覚の過程が、松陰にあつては単純な排外主義にはつながらないのである。寧ろ、九州遊学、佐久間象山らとの交際による正確な国際情勢認識と共振してゆく。
≪明治政府が継承した建国思想≫
水戸学も開国論も松陰は鵜呑みにしない。鵜呑みにしてゐないから、正志斎と会つた後、自ら国史の猛勉強を始めるのである。開国論も同じである。同時代の知識人らと同様、彼もまたアヘン戦争に強い危機を覚える。ではどうすべきか。松陰の場合、尊王はそのまま能動的開国論に展開する。外国語や先端技術の積極的な選択の主張となる。『日本書紀』の記す半島・大陸進出が航海通商政策のヒントとなる。かうして尊王と近代ネーションとが、松陰の中で一つの思想へと育つてゆくのである。
これは幕末思想の中でも際立つて統合的な性格の思想だつたと言へる。実際、この思想的統合を明治政府を形成した弟子たちが継承してゐなかつたなら、脆弱(ぜいじゃく)な明治国家といふ仮普請が短時日に列強に伍(ご)してゆくまでに成熟するのは困難だつたと、私は思ふ。
それにしても、なぜ松陰にこの独創が可能だつたのだらう。恐らくそれは、松陰の学問が単なる知的構想ではなく、彼自身がどう建国事業に参与するかといふ、己の生の意味そのものを追求する営みだつたからではなかつたか。
≪国の為にできることはなにか≫
彼は一藩の微臣である上、罪を得て獄中生活を繰り返してゐた。生きて、政治的な結果を作り出すことが不可能な立場にゐた。ならばどうすべきか。このジレンマは松陰に、無力な自分を最大限活かすにはどうすべきかを厳しく省察することを要求し、自己省察が苛烈になるにつれ、松陰の世界観や時局観もまた正確になつてゆく。
松陰が最後、老中・間部詮勝の暗殺を企てたとき、高杉晋作、久坂玄瑞ら直弟子は時機ではないとして反対する手紙を出す。それを読んだ松陰が「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」と慨嘆したのはよく知られてゐる。
功業は結果だが、松陰はその結果を作れない立場にある。しかし一人の人間に、匹夫だらうが、獄に婁がれてゐようが、国の為(ため)にできることがあるとすれば、それは何か。諸友に先駆けて死ぬことによる覚醒の促しではないか。これが松陰が錬磨と迷悟とを重ねた揚げ句、辿(たど)り着いた思想であり、結果を見れば、悲しい程時宜を得たリアリズムだつたのである。
今、学問と自己錬磨への熾烈(しれつ)な欲望なき民族に堕した日本には、果敢なリアリスト松陰もまた出現しようがない。今の日本に歴史のダイナミズムを体で生き抜くやうな真のリアリストが出現すれば、逆にアナクロニストとして失笑されるだけであらう。
中国の台頭を支へる若手愛国エリートたちと交際するにつけ、既に初老にして浅学・菲才(ひさい)の私の焦慮は、只(ただ)ならない。(文芸評論家・小川榮太郎 おがわえいたろう)
学問と自己錬磨への熾烈な欲望なき民族に堕した日本 吉田松陰の「リアリズム」に覚醒せよ
文芸評論家・小川榮太郎氏
http://www.sankei.com/column/news/180129/clm1801290004-n2.html
とりわけ、水戸学の大家、会沢正志斎らとの邂逅(かいこう)は転機となつた。帰国後、『日本書紀』『続日本紀』を直ちに読み始め、“身皇国に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん”と嘆声を挙げてゐる。
これが松陰の「日本」発見である。それは、例へば本居宣長の発見した「日本」とは異なる。宣長は『古事記』に漢心(からごころ)以前の日本の心の質朴さを、『源氏物語』にもののあはれを見いだしたが、松陰は『日本書紀』に、古代日本史における歴代天皇の雄大な国際経営を発見したのである。
日録によれば、帰国後半年の間、松陰の読書は『詩経』『名臣言行録』『孟子』と漢籍に戻り、再び『日本逸史』『続日本後紀』『三代実録』『職官志』『令義解』『日本外史』、そして再度翻つて『史記』『漢書』を繙(ひもと)き、日支の歴史・精神の比較研究の様相を呈してゐる。ところが、かうした日本国といふネーションの自覚の過程が、松陰にあつては単純な排外主義にはつながらないのである。寧ろ、九州遊学、佐久間象山らとの交際による正確な国際情勢認識と共振してゆく。
≪明治政府が継承した建国思想≫
水戸学も開国論も松陰は鵜呑みにしない。鵜呑みにしてゐないから、正志斎と会つた後、自ら国史の猛勉強を始めるのである。開国論も同じである。同時代の知識人らと同様、彼もまたアヘン戦争に強い危機を覚える。ではどうすべきか。松陰の場合、尊王はそのまま能動的開国論に展開する。外国語や先端技術の積極的な選択の主張となる。『日本書紀』の記す半島・大陸進出が航海通商政策のヒントとなる。かうして尊王と近代ネーションとが、松陰の中で一つの思想へと育つてゆくのである。
これは幕末思想の中でも際立つて統合的な性格の思想だつたと言へる。実際、この思想的統合を明治政府を形成した弟子たちが継承してゐなかつたなら、脆弱(ぜいじゃく)な明治国家といふ仮普請が短時日に列強に伍(ご)してゆくまでに成熟するのは困難だつたと、私は思ふ。
それにしても、なぜ松陰にこの独創が可能だつたのだらう。恐らくそれは、松陰の学問が単なる知的構想ではなく、彼自身がどう建国事業に参与するかといふ、己の生の意味そのものを追求する営みだつたからではなかつたか。
≪国の為にできることはなにか≫
彼は一藩の微臣である上、罪を得て獄中生活を繰り返してゐた。生きて、政治的な結果を作り出すことが不可能な立場にゐた。ならばどうすべきか。このジレンマは松陰に、無力な自分を最大限活かすにはどうすべきかを厳しく省察することを要求し、自己省察が苛烈になるにつれ、松陰の世界観や時局観もまた正確になつてゆく。
松陰が最後、老中・間部詮勝の暗殺を企てたとき、高杉晋作、久坂玄瑞ら直弟子は時機ではないとして反対する手紙を出す。それを読んだ松陰が「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」と慨嘆したのはよく知られてゐる。
功業は結果だが、松陰はその結果を作れない立場にある。しかし一人の人間に、匹夫だらうが、獄に婁がれてゐようが、国の為(ため)にできることがあるとすれば、それは何か。諸友に先駆けて死ぬことによる覚醒の促しではないか。これが松陰が錬磨と迷悟とを重ねた揚げ句、辿(たど)り着いた思想であり、結果を見れば、悲しい程時宜を得たリアリズムだつたのである。
今、学問と自己錬磨への熾烈(しれつ)な欲望なき民族に堕した日本には、果敢なリアリスト松陰もまた出現しようがない。今の日本に歴史のダイナミズムを体で生き抜くやうな真のリアリストが出現すれば、逆にアナクロニストとして失笑されるだけであらう。
中国の台頭を支へる若手愛国エリートたちと交際するにつけ、既に初老にして浅学・菲才(ひさい)の私の焦慮は、只(ただ)ならない。(文芸評論家・小川榮太郎 おがわえいたろう)