生命(先天の元気)は、天地父母より与えられ授かり、自分という存在が「今ここ」に存在しています、その生命を、天寿を全うし死するその日まで、養うのが、鼻から吸い込み、肺でガス交換され、体の隅々にまだ運ばれている大気(酸素など)の気(宗気)であり、口から入り、胃で消化され、小腸で分解・転換・吸収され、体の組成や新陳代謝、エネルギー産生に関わる飲食物による気(営気)です。
飲食物による栄養は、人間が生きていくには欠かすことのできないエネルギー源であることはよくご存知だと思います。
貝原益軒は『養生訓』において、食事をする際の心構え、考えておくべきことを五つ「五思」という形で表現されています。
【一つ】この食は誰から与えられたかを思わなければならない。幼い時は父によって与えられ、年が長じてからは殿様からの禄によるのである。このことを忘却してはいけない。またある場合には、君主や父からではなく、兄弟、親族、あるいは他人から養われることもあろう。これもまたその食を与えてくださった人を思って、その恵みを忘れてはならない。農工商の自力で飲食する者もまた国の恩恵を思わなければならない。
成人前は両親により養って頂いています。その後は、会社に勤め、働くことにより、会社から、あるいは社長さんから、自営の人はお客様から直接報酬をもらうことによって、毎日の食事にありつけるわけです。そこを忘れてはいけませんよね。
日本は、どこに行っても飲食店はあり、コンビニがあり、ファミレスがあり、スーパーには所せましと食品が並んでいます。物質の量ではたいへん恵まれた食生活をしています。そんな状況に置かれている今の日本、日本人だからこそ、誰から与えられた食なのかという根源的な感謝の念を感じることが、より大切になってくるのでしょう。
皆それぞれ環境が違うので、各々が自分の立場で想うことが必要なのだと感じます。
【二つ】この食は農民の苦労によって作り出されたことを思わなければならない。忘却してはならない。自分で耕作しないで、安楽にしていながら養いを受けることができる。その楽しみを思わなければならない。
自分が畑や田んぼ仕事、あるいは、漁業や畜産業をせずに、自分の好きなことや、仕事をさせてもらい、それでいて美味しい食事ができるということが、どんなに有難いことか忘れてはいけないことでしょう。その意識や感謝が持てれば、食品を残したり、捨てたり、ということは簡単にはできないでしょう。
日本は、60%以上の食物を外国からの輸入に頼っています。世界の農業や魚業や畜産業に関わる人たちが、私たちの食事を支えていてくれることを、日本人は広い視野と、広い感謝をもって感じなければいけません。そして、日本は輸入した食品の実に3分の1を廃棄しているのです
【三つ】自分には才能も備わった徳もなく、さらには正しい行いもなく、君主を助け、人民を治める功労もないのに、こうしたおいしいものを食べることができるのは、ひどく幸せであると思わなければならない。
常に謙虚であれということでしょうか。物質文明を享受しているのは世界の人口の3分の1であり、その中でも貧富の差が生まれています。日本という国は、そのような自分の作った食物を食べることができない、発展途上国の人々の上に食生活が成り立っていることを想わなければいけません。けっして現状が”当たり前”なのではありません。
食べることができることに感謝 この一口のごはんに感謝と幸せ なのです。
【四つ】世間には自分より貧しい人が多い。その貧乏な人々は糟(かす)や糠(ぬか)でも有難く食べている。ときにはそれすら食べられずに飢え死する者もいる。自分は上等なおいしい食事を十分に食べて飢餓の心配はない。これは大きな幸福というべきであろう。
この言葉は、先ほども述べたような世界の現実を表しています。現在、地震や洪水、干ばつと、世界の環境が著しく変化しています。環境破壊は進んでいます(各国が訴えている地球温暖化には疑問点が多いのですが…)。いつ日本も世界からの食物輸入がストップするかもしれません。これは数十年、数百年後、あるいは環境の大激変があれば、「飢餓」は、近未来の日本に起こる出来事かもしれません。
ですから、今の日本人は、日常の食生活に心から感謝して、心から「いただきま~す」と言うことが大切なのです。
【五つ】大昔はまだ五穀(米・麦・粟・豆・黍)はどれず、草木の実と根や葉を食べながら飢えをまぬがれていた。その後、ようやく五穀がとれるようになっても、まだ火を用いて食物を調理する方法を知らなかった。釜や蒸籠もなく、食べ物を煮て食べなかった。生でかんで食べたので、胃腸をそこなうこともあったろう。
今は白いご飯をやわらかく煮て、十分に食べ、しかも吸物があり、惣菜があって朝夕の二回にわたって十分に食べている。そのうえ酒があって心を楽しませ、気血を助けている。
朝食や夕食をするたびに、この五思の中の一つでも二つでもよいから、かわるがわる思い起こして忘れてはならない。そうすれば、日々の楽しさも、またその中にあることに気づくであろう。
現代の日本が置かれている食生活の現状を「有難いもの」とまず認識することが大切なのでしょう。日本にいながらにして世界各国の料理を食べることができるのですから。これが人間の身体にとっていいことなのか、悪いことなのかは、今は置いておき、まず現状に感謝することから始めることが肝心なのでしょう。
いろいろな技術革新があり、現代の豊食…飽食…日本が支えられています。おかげで1億2千万人が飢え死にせずに、社会生活を営んでいるわけです。
また、帯津三敬病院(帯津良一 名誉院長)で管理栄養士として患者さんの指導にあたり、人間本来の食の在り方を説いている、幕内秀夫さんは、著書の中で
『私には、現代の食生活が「五無の食生活」のように思えてなりません。「五無」とは「無国籍」「無地方」「無季節」「無家庭」「無安全」という意味です。食生活に国籍がなくなり、地方がなくなり、季節がなくなり、家庭の味がなくなり、安全性がなくなっています。このような食生活が、本当に豊かと言えるのでしょうか。まさに今、そのことが問われはじめているのではないでしょうか。私が提唱する「粗食」とは、けっして「貧しい食事」と言った意味ではありません。むしろその逆で、「日本の豊かな風土から生まれた豊かな食生活」のことなのです』
と書かれています。
そのような現代食生活の危険な点もみつめながら、貝原益軒さんの「五思」も頭にいれつつ、毎日の食事に臨みたいものですね
二葉鍼灸療院 田中良和
飲食物による栄養は、人間が生きていくには欠かすことのできないエネルギー源であることはよくご存知だと思います。
貝原益軒は『養生訓』において、食事をする際の心構え、考えておくべきことを五つ「五思」という形で表現されています。
【一つ】この食は誰から与えられたかを思わなければならない。幼い時は父によって与えられ、年が長じてからは殿様からの禄によるのである。このことを忘却してはいけない。またある場合には、君主や父からではなく、兄弟、親族、あるいは他人から養われることもあろう。これもまたその食を与えてくださった人を思って、その恵みを忘れてはならない。農工商の自力で飲食する者もまた国の恩恵を思わなければならない。
成人前は両親により養って頂いています。その後は、会社に勤め、働くことにより、会社から、あるいは社長さんから、自営の人はお客様から直接報酬をもらうことによって、毎日の食事にありつけるわけです。そこを忘れてはいけませんよね。
日本は、どこに行っても飲食店はあり、コンビニがあり、ファミレスがあり、スーパーには所せましと食品が並んでいます。物質の量ではたいへん恵まれた食生活をしています。そんな状況に置かれている今の日本、日本人だからこそ、誰から与えられた食なのかという根源的な感謝の念を感じることが、より大切になってくるのでしょう。
皆それぞれ環境が違うので、各々が自分の立場で想うことが必要なのだと感じます。
【二つ】この食は農民の苦労によって作り出されたことを思わなければならない。忘却してはならない。自分で耕作しないで、安楽にしていながら養いを受けることができる。その楽しみを思わなければならない。
自分が畑や田んぼ仕事、あるいは、漁業や畜産業をせずに、自分の好きなことや、仕事をさせてもらい、それでいて美味しい食事ができるということが、どんなに有難いことか忘れてはいけないことでしょう。その意識や感謝が持てれば、食品を残したり、捨てたり、ということは簡単にはできないでしょう。
日本は、60%以上の食物を外国からの輸入に頼っています。世界の農業や魚業や畜産業に関わる人たちが、私たちの食事を支えていてくれることを、日本人は広い視野と、広い感謝をもって感じなければいけません。そして、日本は輸入した食品の実に3分の1を廃棄しているのです
【三つ】自分には才能も備わった徳もなく、さらには正しい行いもなく、君主を助け、人民を治める功労もないのに、こうしたおいしいものを食べることができるのは、ひどく幸せであると思わなければならない。
常に謙虚であれということでしょうか。物質文明を享受しているのは世界の人口の3分の1であり、その中でも貧富の差が生まれています。日本という国は、そのような自分の作った食物を食べることができない、発展途上国の人々の上に食生活が成り立っていることを想わなければいけません。けっして現状が”当たり前”なのではありません。
食べることができることに感謝 この一口のごはんに感謝と幸せ なのです。
【四つ】世間には自分より貧しい人が多い。その貧乏な人々は糟(かす)や糠(ぬか)でも有難く食べている。ときにはそれすら食べられずに飢え死する者もいる。自分は上等なおいしい食事を十分に食べて飢餓の心配はない。これは大きな幸福というべきであろう。
この言葉は、先ほども述べたような世界の現実を表しています。現在、地震や洪水、干ばつと、世界の環境が著しく変化しています。環境破壊は進んでいます(各国が訴えている地球温暖化には疑問点が多いのですが…)。いつ日本も世界からの食物輸入がストップするかもしれません。これは数十年、数百年後、あるいは環境の大激変があれば、「飢餓」は、近未来の日本に起こる出来事かもしれません。
ですから、今の日本人は、日常の食生活に心から感謝して、心から「いただきま~す」と言うことが大切なのです。
【五つ】大昔はまだ五穀(米・麦・粟・豆・黍)はどれず、草木の実と根や葉を食べながら飢えをまぬがれていた。その後、ようやく五穀がとれるようになっても、まだ火を用いて食物を調理する方法を知らなかった。釜や蒸籠もなく、食べ物を煮て食べなかった。生でかんで食べたので、胃腸をそこなうこともあったろう。
今は白いご飯をやわらかく煮て、十分に食べ、しかも吸物があり、惣菜があって朝夕の二回にわたって十分に食べている。そのうえ酒があって心を楽しませ、気血を助けている。
朝食や夕食をするたびに、この五思の中の一つでも二つでもよいから、かわるがわる思い起こして忘れてはならない。そうすれば、日々の楽しさも、またその中にあることに気づくであろう。
現代の日本が置かれている食生活の現状を「有難いもの」とまず認識することが大切なのでしょう。日本にいながらにして世界各国の料理を食べることができるのですから。これが人間の身体にとっていいことなのか、悪いことなのかは、今は置いておき、まず現状に感謝することから始めることが肝心なのでしょう。
いろいろな技術革新があり、現代の豊食…飽食…日本が支えられています。おかげで1億2千万人が飢え死にせずに、社会生活を営んでいるわけです。
また、帯津三敬病院(帯津良一 名誉院長)で管理栄養士として患者さんの指導にあたり、人間本来の食の在り方を説いている、幕内秀夫さんは、著書の中で
『私には、現代の食生活が「五無の食生活」のように思えてなりません。「五無」とは「無国籍」「無地方」「無季節」「無家庭」「無安全」という意味です。食生活に国籍がなくなり、地方がなくなり、季節がなくなり、家庭の味がなくなり、安全性がなくなっています。このような食生活が、本当に豊かと言えるのでしょうか。まさに今、そのことが問われはじめているのではないでしょうか。私が提唱する「粗食」とは、けっして「貧しい食事」と言った意味ではありません。むしろその逆で、「日本の豊かな風土から生まれた豊かな食生活」のことなのです』
と書かれています。
そのような現代食生活の危険な点もみつめながら、貝原益軒さんの「五思」も頭にいれつつ、毎日の食事に臨みたいものですね
二葉鍼灸療院 田中良和