二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

(社)石川県針灸師会 平成24年 新年会

2012年04月26日 | 鍼灸

2月25日(土)、(社)石川県針灸師会の新年会が、学術講習会後に開催されましたので参加しました。

 平成24年 新年会 

  日 時 : 平成24年2月25日(土)  午後7時~
  会 場 : 山代温泉 山下屋

さて堅苦しい学術講習会のあとは「飲み」です。
まあ、堅苦しさがあるから、このような宴会の席もさらに楽しくなるというものです。

    
針灸師会 会長の定池先生(左)と ご来賓の埼玉医科大学東洋医学センター 小俣先生(右)のご挨拶

本日のお料理

 カンパ~イ(盃の向こう側に重鎮の先生方、すぐ横は中村先生 酔っ総務部長

   

 宴会のようす

  宴会開始前の大内青年部長(私と同じ年です)

  時間が経過し、カラオケを歌い、盛り上げる大内青年部長
  上野先生も歌う

懇親会は何よりも酒の力を借りて、普通では聞けない話をざっくばらんに先輩に聞けるところですかね。後輩にも大きい事を 言いますが。言ってない、言ってない。

今回の収穫は小俣先生と話ができたことですかね。小俣先生は、埼玉医科大学東洋医学センターで山口 智 先生とともに臨床、研究されています。山口先生も小俣先生も芹澤勝助 先生に学ばれた先生です。
芹澤先生は鍼灸界では有名な先生で、伝統的、経験医術的な鍼灸治療を科学化して、その効果を解明しようと研究されていました。「経絡経穴の医学的研究」で鍼灸師としては初めて医学博士を取得されました。

治療方法や考え方に少し違いはあるけれども、私の師匠である黒野保三先生とは、同じ方向を向いていたことになります。

そんな小俣先生とお話していて、「黒野先生には、芹澤先生に対して本当によくして頂いた」という言葉をお聞きした時、ここにも師匠の徳が自分に与えられているな~と感じました。黒野先生と芹澤先生の関係に関してあまり詳しくないので、これ以上は言えませんが、鍼灸の科学化、そして鍼灸の経絡経穴、鍼灸効果解明など、同じ大きな目標を持ち、臨床、研究され、弟子を育て、その意志を受け継いでいくという共通意識、実践学を持っているお二人の会話はおそらく、いろんな意味で面白かったのではないかと思いますね。

また、東洋医学研究所(生体制御学会)では、一貫して、日々の臨床の中に現れる鍼灸治療による現象を捉え、鍼灸の治療効果の質的研究や、理論やメカニズムなどの量的研究を集積して、鍼灸医療を発展させ、患者のための地域に活かされる医療を構築をしていくことが目的です。それは、芹澤先生を師匠に持つ、埼玉医科大学東洋医学センターでも同様だろうと思います。

小俣先生は、黒野先生やグループの一貫した研究姿勢や、鍼灸医学や鍼灸医療を思う心意気に共感するし、本当に素晴らしいと思うと話されていました。私は信じやすい性格ですから、素直に嬉しかったですね。東洋医学研究所、黒野先生のもとで修行して良かったな~と感じました。

やはり師匠は偉大です。

その他にも、鍼灸治療について、鍼灸界について、いろいろと時間が許す限り話させて頂きました。

そんな話ができ感動できましたので、たいへん有意義な新年会でした。

約2時間くらいで宴会は終了。本日はいつもアフターナイトをプロデユースして頂けるH先生が欠席されていたので、N先生とともに夜の山代へ…あとは聞かないで なんてね

そして、明日は早朝に金沢へ発たねばならない…と思いながら酒は深まっていくのでした。

 二葉鍼灸療院 田中良和 

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維持透析患者に対する鍼灸治療 ~新年学術講習会~

2012年04月25日 | 鍼灸

2月25日(土)に開催された(社)石川県針灸師会の新年学術講習会に参加しました。

 (社)石川県針灸師会 新年学術講習会 

  日 時 : 平成24年2月25日(土)  午後4時30分~6時
  会 場 : 加賀市文化会館 203会議室 
  演 題 : 『維持透析患者の鍼灸治療』
  講 師 : 小俣 浩 先生  埼玉医科大学 東洋医学センター
         

鍼灸治療というと、腰痛や膝痛など痛みだけではなく様々な疾患に幅広く適応されます。生活習慣病あるいは入院患者の生活の質(QOL)の改善にも効果的であり、生活の質が改善できれば、体を動かすことができ、食欲が出て、排便もスムーズになり、生活習慣病や慢性疾患に立ち向かい、改善、克服する体つくりにもなるということです。



  講師の小俣 浩 先生

腎臓は、体重の0.3%に過ぎない小さな存在ですが、血液の流れる量は、毎分800~1200ミリリットルです。ご存じのごとく、尿を生成したり、それを排出したりする働きがあるのですが、その他にも多くの働きがあります。その大きな一つが内分泌と代謝作用です。

ビタミンDを活性化させてカルシウムの調整に働き、エリスロポエチンというホルモンを出して、貧血にならないように赤血球の調整に関ります。また、レニンという物質を生成して血圧の調整に関ります。尿を生成・排出するわけですから水分を調整し、血圧を調整することは理解できますよね。

冒頭は、腎臓についての簡単な解剖、生理学的なお話でした。

ここからはメモしてあること(勉強したこと)を箇条書きで書いていきたいと思います。

☞2005年末現在、透析患者は約25万人で国民の514人に1人が透析を受けている。
☞全身性エリテマトーデス(SLE)など自己免疫疾患では、腎疾患との併発が多い。
☞内臓は、自律神経二重支配(交感・副交感神経)であるが、腎臓は交感神経のみの支配である。交感神経が緊張するか、弛緩するかである。
☞以前は慢性糸球体腎炎からの透析患者が多かったが、1998年を境に糖尿病性腎症からの透析患者が圧倒的に多くなってきた。
☞埼玉医科大学東洋医学センターには、顔面神経麻痺や動眼神経麻痺の患者が多く来院し、その中で糖尿病が基礎疾患にある患者がある。糖尿病が基礎疾患にあると、治癒あるいは症状軽減まで時間がかかる。

「維持透析患者の補完・代替医療研究会」(世話人代表:埼玉医科大学腎臓内科 鈴木洋通 教授)という組織があり、医師をはじめ多くの医療従事者が参加している。その会で小俣先生が鍼灸治療の講演会を行ったところ、皆、興味深く聴講されて、特に直接患者と向き合う看護師の皆さまが熱心に質問してきたとのことであった。透析スタッフは鍼灸治療に非常に興味を持っている。
☞腎臓病の治療は、減塩・低タンパク・低カロリーの食事療法が主となる。腎臓病に効果的な薬物は現在なく、薬物治療の中心は血圧治療である。
☞日本の腎臓病、透析患者では、諸外国に比べて貧血(ヘマトクリット、ヘモグロビン値低下)が多い。これがあると日常生活動作が悪化しやすい。
☞透析患者では手根管症候群の合併や皮膚症状が多い。
☞皮膚症状は”乾燥、かゆみ”である。かゆみに関しては分かってないことが多いが、アトピー性皮膚炎が末梢で感じる「かゆみ」であるのに対して、透析患者のかゆみは中枢で感じる「かゆみ」であり、脳内のオピオイドが関連していると考えられている。
☞透析方法は、従来の血液透析(HD)、腹膜透析(CAPD)がある。今後、在宅医療の普及とともに、在宅血液透析(HDD)が増加してくると予想される。


     

☞腎疾患に関する日本、外国の文献を調べると…
☞NCCAМ(アメリカ国立補完代替医療センター)のGabriela.Eの論文では、「鍼と腎疾患」と題して、腎疝痛の鍼、高血圧の鍼、尿毒症掻痒症の鍼治療、末期腎疾患患者の睡眠の質・生活の質の改善における経穴圧刺激の役割、経穴圧刺激は腎炎症性疾患を防げるか、などについて解説し、鍼治療の可能性を示唆している。
☞埼玉医科大学 東洋医学センターの研究では、透析患者の痛み、コリ、シビレ、だるさについて一定の効果がみられた。
☞埼玉医科大学では、内臓体性反射などの関連痛(かゆみ)などの症状を診つつ、脊髄分節として、筋への運動神経支配分布であるミオトーム(筋枝)、皮膚への感覚神経支配分布であるデルマトーム(皮枝)など、また東洋医学的な経絡なども考えて治療穴を選穴してる…この辺りはしっかりメモしていなかったので少し違っているかもしれません。 大切なとこですが

☞腎臓疾患の治療穴において、東洋医学的には腎経、膀胱経の経穴が多い。またデルマトーム、ミオトームでいくと、第10~11胸椎、あるいは、第1腰椎の分節の経穴を刺激することで、腎臓へ刺激の情報が伝わると考えているということだった。
☞埼玉医科大学でに研究によると、透析患者の血液生化学的検査値を鍼治療で劇的に向上させることは難しいが、生活の質など身体的健康度を向上させることには効果があることがわかった。
☞また、腹膜透析の方が効果が出やすく、血液透析患者では難しいとのこと。
☞SF36など生活の質の指標を用いて鍼灸治療の効果をみたところ、統計的には有意な差は得られなかったが、少しずつではあるが改善傾向にあることが分かった。
☞治療経験のお話があり、1年以上透析を行っている患者がおり、鍼灸治療を1年ほど継続して行い、先ほどのSF36を用いてみたところ、全身症状が改善され、活力の点数が高くなり、睡眠力も向上した。ヘモグロビン濃度(HGB)や尿素窒素(BUN)が改善された。また、ある慢性腎障害の患者に腎経の築賓にやや強めの刺激を行ったところ、尿が出るようになった。患者の話では「あの尿が出るときの快感を久しぶりに味わえた」ということであった。
☞また、ある研究では、指圧を湧泉、足三里、三陰交に1カ月行っても特に効果がみられなかったが、1年継続すると、だるさが改善された。また、湧泉、神門に同じく指圧を行ったところ、1カ月では変化がなかったが、1年で睡眠の質が良好となった。
☞腎兪という経穴は、腎臓の血行動態に何らかの影響を与えていると思われる。
☞体内オピオイド(麻薬類縁物質)には、作用する受容体の違いにより、エンドルフィン、エンケファリン、ダイノルフィンがある。最近の研究では、エンドルフィンは「痛み」に対して抑制的に、「かゆみ」に対して促進的に働くことがわかってきた。ダイノルフィンは「痛み」「かゆみ」ともに抑制的に働くことも分かってきた。鍼治療の効果として、「痛み」「かゆみ」にも効果的があるということは…
☞鍼刺激には、血管拡張トレーニング作用があると考えている。
☞最後に、線維筋痛症について説明があり、こちらの治療にも力を入れているとのこと。


この後、質問は、時間の関係上とることができいとのこと。小俣先生は、翌日、日本東洋医学会の仕事があるということで、新年会の席に少しお邪魔して帰られるとのことでした。
質問はその席で…ということでした。

小俣先生とは全日本鍼灸学会ではよくお目にかかったのですが、直接、私的にお話したのは初めてでした。その話は、また「石川県針灸師会 新年会」のブログで。

長くなりました~、ごめんなざ~い

二葉鍼灸療院 田中良和

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石川県スポーツトレーナー連絡協議会(IST) 第5回認定スポーツトレーナー養成講習会

2012年04月24日 | スポーツ障害

これまた遅くなりまして、2月25日(土)、26日(日)の報告です。

石川県スポーツトレーナー連絡協議会の第5回認定講習会(補講)が開催されました。4回の講習会で単位を取得できなかった受講者向け&新規受講希望者も含めた講習でした。

この両日は、大忙しの二日間でした。この講習会、そして、土曜日の夕方からは、(社)石川県針灸師会の学術研修会、場所を移して山代温泉で新年会、日曜日は、(社)石川県鍼灸マッサージ師会の中央学術研修会、そして臨時総会とびっしりスケジュールの充実した 二日間でした。

時間も経過していますので、簡単な報告になります。
ブログの神様が降臨すると、長くなるかもしれませんが…

 第5回 IST認定スポーツトレーナー養成講習会(補講講義) 

 会 場 : いしかわ総合スポーツセンター 2階 第2・3会議室
 日 時 : 平成24年2月25日(土)  午後2時30分~5時30分(180分 2単位)
 講 義 : 『コンディショニングの理論と実技Ⅱ』
 講 師 : 田中 哲 先生   金沢社会保険病院リハビリテーション科 係長
                     理学療法士    

  
 25日の補講会場の様子。補講であるため人数は少なかったです。

 日 時 : 平成24年2月26日(日)  午前9時~正午(180分 2単位)
 講 義 : 『スポーツ現場での初期治療』 『スポーツ傷害に対する手術治療』
 講 師 : 北岡克彦 先生  (財)石川県体育協会スポーツ医・科学委員会 副委員長
                     木島病院

     

26日の講習会の様子です。

25・26日は、山代温泉で石川県針灸師会の新年会がありましたので、一泊し、夜遅くまでエネルギーを充填し、早朝に起きて、温泉につかり、小雪がちらつくなか、会場のいしかわ総合スポーツセンターに向かいました。総務部長ですからね~

実は午後からのテーピング講習を聴講したかったのですが、北岡先生の講演会も途中退席させて頂き、金沢歌劇座で行われる石川県鍼灸マッサージ師会の中央学術研修会と臨時総会へ向かったのでした。こちらも総務局長ですから

 日 時 : 平成24年2月26日(日)  午後1時~4時(180分 2単位)
 講 義 : 『テーピング実技Ⅱ  障害におけるサポート』
 講 師 : 佐藤裕之 先生  JATAC-ATC  
                     石川ブルースパークス コンディショニングコーチ

この佐藤先生のテーピングは、基本テープはもちろんなのですが、現場の対応から生まれた工夫したテープの巻き方が盛り込まれており、非常に参考になるのです。そして、テープ1本1本に意味があり、必要最低限の効果的なテーピングを模索されている所は、ほんとうに感動ものなのです。

ビデオ撮影をしていたのですが、ど~も、佐藤先生の実技の時にバッテリーが切れてしまった様子です。ざ~ん~ね~ん~

本年度は多くの、柔道整復師、理学療法士、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師にIST認定講習会を受講して頂きました。当初予想していたよりはるかに多い人数でした。ISTの会員である、認定を受けていることがお飾りにならにように、石川県のスポーツ選手に、石川のスポーツ医療に、石川の健康長寿に、県民の皆さまが喜んで頂けるよう、還元できるように、さらにスキルアップ、そして資質向上していかないと…と、一トレーナーとして、そしてISTの理事として「心新たに、日々新たに」やっていかないとと刺激を頂いたわけです。

平成23年度はISTの行事は怒涛の如く、走ってきました。平成24年度もさらに充実した活動にし、国家資格を有する各医療団体と、スポーツドクター、そして(公財)日本体育協会公認アスレティックトレーナー、また、(財)石川県体育協会ともスクラムを組んで、チーム医療を実現していきたいな~と思う次第でありま~す

んん~忙しい んん~嬉しい んん~感謝 んん~幸せ、最高

んん~マンダ~ム(古っ) 

二葉鍼灸療院 田中良和

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幸せの三つの条件

2012年04月18日 | 言葉のちから 心のちから

忙しい毎日が続き、自分の臨床のこと、業界のこと、学会のこと、野球のこと、そのほか、いろんなことを思い、行動していると、時々、精神的に「あーーーー」なんてことに陥ることもあります。

まだまだ人間が出来ていませんね~

でも、やっぱり自分の好きなことを仕事として行え、世の中のために役立っているという心が湧いていると、そんな上っ面の精神的疲労も吹き飛んでしまうわけです。

いろんな仕事を頂いていますが、それは何か理由があり、自分の魂や心の成長のために必要であるから舞い込んで来ていると思っています。そう自覚していても、パッとしたキレのある仕事をしているわけでもないのです…

だから、最近はいろんなことが起きても、忙しくなっても、寝不足になっても 「幸せ」だな~と感謝できるようになってきました。き・ま・し・た、ですから、やっとそこまで思えるようになったということでしょうか。

「幸せ」っていろんな形があると思います。

私が尊敬する人物の一人、松下幸之助さんの言葉をお借りして、「幸せ」について…

 ~引用開始~

 ぼくはね、幸せの条件について、こう思うんですよ。

 まず第一は、「自分が幸せだと感ずること」。当たり前のことですが、自分が幸せだと思わなければ幸せではありませんね。世間には他人から見れば、大変めぐまれているな、幸せだろうな、と思われているような人でも、本人は不平不満に明け暮れている、というようなこともありますわ。

 やはりどんな境遇にあろうとも、自分自身が満足しているのでなければ幸せ感は生まれない。

 そして第二は、「世間の人々も、その幸せに賛意を表してくれること」で、他人のものを盗む、それでは、他人のことを不幸にしてしまいますし、自分も社会から非難を受け罰せられる。それでも自分は満足だという人も中にはいるかもしれません。しかし、そういう人はいささか異常だと思うのですよ。

 この二つの条件が満たされれば一応はよいと思うのです。けれど、もう少し厳しく言えば、幸せというものは、人間の共同生活の正しい進歩向上に即したものでなければならないと思います。

 たとえば、ある優秀な人物が、仙人のように山にこもってしまったとします。本人は満足しているし、社会にも別に迷惑をかけているわけでもない。その人はそれでいいのかもしれませんね。しかし、皆が皆そのように山にひきこもってしまえば、この社会はどうなるでしょう。そうなれば、人間同士が協力し合うこともなくなる。社会の進歩は止まってしまう。いや、人間がより便利に快適にというために生まれた社会すらなくなってしまうでしょうね。 

 だからぼくは、単に他人に迷惑をかけないだけでなく、「一歩進んで社会にプラスし、周囲の人々に幸せをもたらすところに幸せが味わえたら、より好ましい」と思うんです。

 以上の三つの条件が揃ってこそ、真の幸せといえるのではないでしょうか。

 ~引用終了~ 『人生談義』  松下幸之助 著

松下幸之助さんの言葉は、私の”心のサプリメント”のようなものです。時々、このサプリメントのお世話になっております。

そんなを「幸せ」を常に感じながら、今日一日、過ごしていくぞいね

二葉鍼灸療院 田中良和

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死後の「いのち」 3

2012年04月13日 | 日常

死後の「いのち」…続きです。最終部です もう少しお付き合いくださいね

第2部では真の無償の愛について書きたいと、最後に書きました。

真の無償の愛とは何か 親子の愛なのか、夫婦の愛なのか、なんとなく想像はできるのですが、私もまだまだ未熟者ですので、真の無償の愛を実践され、世界から尊敬され、敬愛された、マザー・テレサの言葉を締めくくりとして書きたいと思います。

 ~引用開始~

 分かち合えない愛など、何の意味もありません。愛は行動で表わすべきなのです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをすべきで、何かを受け取れるかもしれないから、するのではないのです。
 あなたがもし、何かの見返りを望むなら、それはもう愛ではなくなってしまいます。真実の愛とは、条件をつけたり期待することではなく、愛することなのです。

 求めれば、神があなたを導いてくれます。神が私たちを、ここにいるエイズの患者の世話をするように導いてくれたように。私たちは患者を裁くことはしません。私たちは、彼らにいったい何が起こったのかとか、どうして病気になってしまったのか、などと尋ねることはありません。

 ただ、彼らが今、何を必要としているのかを見きわめ、世話をするだけです。

 私は、神がエイズという病でもって、何かを私たちに語りかけているのだと思います。私たちの愛を示す機会を与えてくれているのだと思うのです。エイズに冒された人々は、きっとこの場所で、これまで拒絶され、忘れていた優しい愛に気づいてくれることでしょう。

 次に紹介するシスター・ドロリスの言葉は、愛をもって生きることが、どんなに簡単なのかをよく示してくれます。

≪シスター・ドロリスの言葉≫
 エイズに罹って〈家〉にやってきた人たちは、最初、とてつもない恐怖感を抱いています。彼らにとっては、死に向かっているのだという事実に対処するのはとても難しいことなのです。しかし、〈家〉で私たちと一緒に暮らし、他の人々の最後の瞬間を見届けているうちに、彼らは変わります。

 私はニューヨークで出会った一人の男性患者のことをよく覚えています。彼の母親がプエルトリコからやってきて、もし、彼が家に帰ってくるのであれば、自分が看護すると言いました。男は母親に感謝しながらも、自分はここに残ると言いました。ある日、彼はこう言いました。「私が死ぬ時には、あなたがここにいて、手を握っていてくれるんだよね」 彼は私たちが他の人にそうしているのを見ていたので、自分が独りぼっちで死ぬことはないと知っていたのです。

 それはまったく単純な現実なのです。死に行く人々は彼らが受ける愛によって心を動かされるのです。その愛というのは、ただ手にふれることだったり、コップ1杯の水を持ってきてくれることだったり、甘いお菓子を分け与えてくれることなのです。 
 あなたはただ、彼らが求めているものを、彼らに持っていくだけなのです。それで彼らは満たされ、誰かが自分を心配し、自分を愛し、自分を必要としていることを知るのです。

 そういうことが、彼らにとっては最も大きな支えとなるのです。そういうことを通じて、彼らは、神というものは最も親切で優しいに違いなく、自分たちの魂は、きっと神のもとへ召されるだろうと信じるのです。

 私たちが説教をしなくても、ただ愛を持って行動しているだけで、彼らは神の恵みにふれることになるのです。

 ~引用終了~ 『マザー・テレサ 語る』  ルシンダ・ヴァーディ 編 

相手の気持ちになって、相手の求めていることを、見返りを求めず、ただ実践する。

その行動は特別なことではなく、自分ができる最善のことを、ただ手を差し伸べるだけ。

簡単なことですが、難しいでしょう。特にお金や物質が世の中の富の基本となっている現代においては。

「死」からいろんなことを考えてみましたが、私の考えとして、今回、勉強させて頂いたことは…

「人が100%の確率で起こる出来事は〈死〉である。〈死〉を意識することによって、心と肉体をまとう有限な人生において明確な目標ができる。〈死〉は決して辛いものではない。〈死〉そして〈死後のいのち〉はこの世の人生の成長によって決まる。人が成長し、いい死・死後のいのち、のためには、愛をもって思考、行動する。究極の自由とは、真の無償の愛に従った思考と行動である」

そんなことを、往診先のおばあちゃんがきっかけで勉強させて頂きました。

すご~く長文になりまして、最後までお読み頂きまして、ありがとうございます

 

二葉鍼灸療院 田中良和

 

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死後の「いのち」 2

2012年04月12日 | 日常

死後の「いのち」…続きです

 ~引用再開~

(第四期)
 生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぶ人たちもいる。過去、現在、未来にわたる、すべての知識があったとしか言えないと報告した人たちも多い。批判することも、裁くこともない、愛の本源である。この段階に達した人は、それまでまとっていたエーテル状の霊妙な体を必要としなくなり、霊的エネルギーそのものに変化する。その人が生まれる前にそうであったような形態としてのエネルギーである。人はそこで全体性、存在の完全性を経験する。

 走馬灯のように「ライフ・リビュー」(生涯の回顧)を行うのは、この段階である。自分の人生すべてを、そこで振り返ることになる。その人が生前に行ったすべての意思決定、思考、行動の理由が逐一あきらかにされる。自分のとった行動が、全く知らない人も含めて、他者にどんな影響を与えたのかが、手に取るようにわかってくる。他にどんな人生を送ることができたのかも示される。あらゆる人の命が繋がりあい、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響をおよぼしている様を、目の前に見せられる。
 
 天国か地獄のような場所だ、と私は思った。たぶんその両方なのだろう。

 神が人間に与えた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、誰にも恥じるところもない最善の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。生還者の報告によれば、「おまえはどんな奉仕をしてきたか」と問われるのはこの段階である。
 これほど厳しい問いはない。生前に最善の選択をしたかどうかという問いに直面することが要求されるのだ。それに直面し、最後にわかるのは、人生から教訓を学んでいようといまいと、最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。

 こうしたデータから私が引き出した結論は、いまでも変わっていない。
それは、富む人も貧しい人も、アメリカ人もロシア人も、みんな同じ欲求をもち、同じものを求め、同じ心配をしているということだ。事実、私はこれまでに、最大の欲求が愛ではないという人に出会ったことがない。

 真の無条件の愛。

 結婚した二人の中に、助けを必要としている人に対する、ちょっとした親切の中に、それをみることができる。無条件の愛は見間違いようがない。心の底で感じるものなら本物である。それは命を織りなす、ありふれた繊維であり、魂を燃やす炎であり、精神にエネルギーを与えるものであり、人生に情熱を供給するものである。それは神と人との繋がりであり、人間同士の繋がりである。

 生きている以上、誰もが苦しい目にあう。偉大な人もいれば、無価値に見える人もいる。だが、いかなる人も、私たちがそこから何かを学ぶべき教訓である。私たちは選択を通じてそれを学ぶ。よく生き、したがって、よく死ぬためには、自分に「どんな奉仕をしているか」と問いかけながら、無条件の愛という目標をもって選択すれば、それで充分なのだ。

 選択は自由であり、自由は神から与えられたものだ。神が与えた自由は、成長する自由、愛する自由である。

 人生は洗濯機の中でもまれる石のようなものだ。粉砕されて出てくるか、磨かれて出てくるか、結局は、それぞれの人が選択している。

 ~引用終了~ 『人生は 廻る 輪のように』 エリザベス・キューブラ―・ロス  上野圭一 訳

長々と引用しましたが、「死」は避けることのできないもので、死の後に何が残るのかと思った時、あちらの世界に戻る人、この世に残される人も、このように考えた方が気持ちも楽になると思うのです。一つの考え方です。

死を前提にして「どう生きるか」ということが死を意識した時に生まれるのでしょうね。
”一日一生””武士道とは死ぬこととみつけたり”など、人生をどう生きるか ということが言われていますが、人生を集約させた言葉なのでしょうかね。

また、どう死ぬかは、どう生きるかであり、結局のところ「どんな奉仕をしたか」であって、どれだけ世のため、人のため、愛を実践できたかなのでしょう。
責任を持って自由を実践すること、愛を実践することが自分を自由にするのかもしれません。

日本人が持つ「死」のイメージを変える必要があるのかもしれません。

内科医であり、緩和医療医である大津秀一 先生は、著書 『死ぬとき人はどうなる 10の質問』で、以下のように書かれています。

 ~引用開始~

 医療行っていると、どんなに手を尽くしても人が生きられないときがある、ということが実体験としてわかる。最初はそれが辛いと思った。医師の限界を感じた。
 しかし、思うようになった。「誰でも死ぬのだ」と。そしてある程度寿命を全うした死は、そんなに忌避されるべきものであるのかと。

 いつも言っていることだが、「死が敗北」であるならば、人は必ず最後に負けることになってしまう。等しく皆が負ける。そんな人生は楽しいだろうか?
 人が死ぬことは避けようがない。当面そんな時代が続くと思う(し、また万が一、医療の進歩が死をなくしてしまったとしても、それが幸せとは限らない)。なので、死を前提にして、楽しく、幸せに生きる「ものの考え方」が必要になるのではないか。

 しかし、死にゆく人が皆不幸を感じているかというと、実はそうではない。むしろ幸せを感じていらっしゃる方も少なくない。皆さんも身内の方に、感謝を述べられて最後の日を過ごされていた人がいらっしゃったかもしれない。

 たくさんの患者さんの終末期に接しさせて頂いていると、実は少なくない方が幸福に生活されていることに気づく(もちろん症状緩和がきちんとなされている場合である。緩和医療はとても重要なのだ)。
 大井玄先生が調査されているが、障害を持たれている方や、死に近い人々の生活の質は実はそれほど低いわけではない。むしろ若く、欲求が強く、結果求めるものが手に入らない可能性が高い若い世代よりも、生活の満足度は高いことが示されている。

 つまり与えられた状況を、どのように考えるかによって、その人の生活の質というものは大きく変わるのである。そして、命が短く、動けなくても、十分に幸せと、誰もが表現し得るだけの心を持っているのである。しかし有事にならないとその力が発揮できないだけだ。

 アウシュビッツに収容された経験がある『夜と霧』の作者である精神分析学者のV・E・フランクルも言っている。「人生は豊かな意味で満たされている、しかも無条件に」そして、「苦しみや死の中にさえ、意味を見出す可能性がある」(『生きる意味を求めて』)と。
 また、こうも言っている。「私たちは、いつかは必ず死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、こういう事実だけのおかげで、そもそも、何をやってみようかと思ったり、何かの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことを強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです」と。
 そして、「死は生きる意味の一部になっており、苦難と死は人生を無意味なものにしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」(『それでも人生にイエスと言う』)とまで言い切っている。

 人が死ぬことを認めるからこそ、そしてまた、人が必ず死ぬことを受け入れることこそが、人生を充実したものにさせるのである。

 ~引用終了~ 『死ぬときはどうなる 10の質問』  大津秀一 著

死に対する状況はいろいろだとは思いますが、その捉え方を、人生に対する感謝、生かされている命に対する幸せに目を向け、違った視点で捉えることによって「死」の見え方が違ってくることを書かれているのかなを思いました。

そして、通常、私たちが思っているよりはるかに、身体的、精神的ケアが充実していれば、そこに家族の協力もあるでしょうけど、「死」に近い方々や障害を持っている方々の生活の質が高いことには驚かされるとともに、勉強になりました。

死、そして死後の「いのち」を踏まえ、私たちが実践していくべき、心に宿すべきは、ロスさんが言われている真の無条件の愛なのではと思います。

そのことに関して、第3部(最終部)で少しだけ書きたいと思います。


二葉鍼灸療院 田中良和

 

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死後の「いのち」 1

2012年04月11日 | 日常

今日、90歳のお嬢様 のところへ往診に行きました。

「こんにちわ~」ってお部屋へ入り、襖を開けたところ、お嬢様が椅子によりかかり、顔は天井に向け…結論から言うとお昼寝していたわけです。

しかし、私はというと  「え~っ ○○さん」って感じでビックリしたわけです。いつも治療しているときの口癖である、「はよ、お迎えが来てほしいわ」が本当になったのか と思ったわけです。
近づいてよくみると遠くからでは確認できませんでしたが、胸郭が動いており、呼吸もあるので一安心でした。話を聞くと、今日は午前中お風呂へ入れてもらい、部屋が暖かいのと合わせて眠ってしまったとのことでした。

良かった でも、そこで「死」について,、フッと考えたわけです。

人生で必ず訪れる出来事は「死」です。「死」とはどういうことなのか。「死」をどう捉えて人生を歩むことが大切なのか。そんなことをこの出来事をきっかけに考えようと思ったわけです。

当院では、不妊症(未妊症)の人が多く訪れ、人の「誕生」に関らせて頂いています。
また、成長期のスポーツ障害の若者も多く訪れ、人の「成長」に関らせて頂いています。
また、がん治療後のケア、再発予防にも訪れて頂いています。「がん」=死ではありません。しかし「死」を最も意識する疾患であることは間違いありません。そして、「死」をどう捉えるかの認識を持つことで、人生に向き合う姿勢が変わってきます。そんな意味でも、この疾患を治療する場合は、施術者はその認識や知識がないと、対応が難しくなります。また施術者自身にもストレスが溜まる結果となります。そんな貴重な経験をさせて頂き、学ばせて頂いています。

さて、「死」は必ず来る現実であり、それをどう認識するかで、人生も変わってくるようです。
少し長くなりますが、エリザベス・キューブラ―・ロス 『人生は 廻る 輪のように』から引用させて頂きます。長いですぜ

  ~引用開始~

 それまで私は、死後の世界などまったく信じていなかった。しかしデータが集まるにつれて、それらが幻覚でも、偶然の一致でもないことを確信するようになった。自動車事故で医学的に死亡が確認されたある女性は、生還する前に「主人に会ってきた」と証言した。その女性はのちに医師から、事故の直前に、夫が別の場所で自動車事故を起こして亡くなっていたことを知らされた。30代のある男性は、自動車事故で妻子を失い、失意のあまり自殺したときのことを証言していた。やはり死亡が確認されたが、その男性の家族に再会し、みんな元気そうであることを知って、生還してきた。

 死の体験にはまったく苦痛がともなわないこと、二度とこちら側に帰ってきたいと思わなかったことも、すべての症例に共通する体験だった。かつて愛した人、愛された人たちと再会し、あるいはガイド役の存在と出会ったあと、彼らは世にも素晴らしい場所に到達して、もともとの世界には戻りたくないと感じる。ところが、そこで誰かの声を聞くことになる。「まだ、その時期ではない」という意味の声を、事実上、すべての人が聞いていたのである。5歳の男の子が母親に死の体験の素晴らしさを説明しようとして絵を描いている場面は、いまでもよく覚えている。男の子は光り輝くお城を描いて、「ここに神様がいるんだよ」と言った。それから、あかるい星の絵を描き足した。「ぼくが、このお星さまをみると、お星さまが『もう、おかえり』っていったんだ。


 こうした驚くべき発見の数々から導き出されたのは、さらに驚くべき科学的結論、すなわち、従来のような死は存在しないという結論だった。どんな定義になるにせよ、死の新しい定義は肉体の死を超越したところまで踏み込まなければならないと、私は感じていた。それは、肉体以外のたましいや霊魂といったもの、いのちに対する高度な理解、詩に描かれたもの、たんなる存在や生存以上のなにか、死後も連続する何かを吟味しなければならないということであった。

 死の床にある患者は五つの段階を経過していく(否認→怒り→取引→抑うつ→受容)。そして、そのあと、「地球に生まれてきて、宿題を全部すませたら、もう、からだを脱ぎ捨ててもいいのよ。からだはそこから蝶が飛び立つさなぎみたいに、たましいを包んでいる殻なの」というプロセスをへて、…それから、人生最大の経験をすることになる。死因が交通事故であろうとガンであろうと、その経験は変わらない(ただし、飛行機の衝突事故のような、あまりに唐突な死の場合は、自分の死にすぐ気づかないこともある)。
 死の経験には、苦痛も、恐れも、不安も、悲しみもない。あるのはただ、蝶へと変容していく時の、温かさと静けさだけなのだ。

 ~引用中断~

エリザベス・キューブラ―・ロスは、医学博士で、精神科医。ターミナルケア(終末期医療)、サナトロジー(死の科学) のパイオニアです。

彼女が数万人という面接から導き出した臨死体験のデータ。イヌイットから、アメリカ先住民、プロテスタント信者から、イスラム教徒、また年齢も2歳から99歳まで、文化的にも、宗教的にも、年齢的にも多種多様な症例を検討しました。

彼女は、「そのすべての症例の臨死体験には共通性があり、体験の真実性を強く示唆していた」
と話しています。

~引用再開~

 面接のデータを分析して、私は死亡宣告後の経験をいくつかの特徴的な段階にまとめた。

(第一期)
 まず最初に、肉体から抜け出し空中に浮かびあがる。手術室における生命徴候の停止、自動車事故、自殺など、死因のいかんにかかわらず、全員が明瞭な意識を持ち、自分が体外離脱している事実にはっきりと気づいている。さなぎから飛び立つ蝶のように、肉体からフワッと抜け出すのだ。そして、自分がエーテル状の霊妙な体をまとっていることに気づく。何が起こったのかは明晰に理解している。その場にいる人たちの声が聞こえる。蘇生を試みる医師チームの人数を数えることも、つぶれた車から自分の肉体を救出しようとしている人たちの姿を見ることもできる。自分の死の瞬間にベッドサイドで親族がいった言葉を覚えている人はたくさんいる。
 
 第一期で経験するもう一つの特徴は「完全性」である。例えば、全盲の人も目が見えるようになっている。全身が麻痺していた人も軽々と動けるようになり、喜びを感じる。病室の上空で踊り始め、それがあまりに楽しかったので、生還してからひどい抑うつ状態になった女性もいる。実際、私が面接した人たちが感じていた唯一の不満は、死んだままの状態にとどまれなかったということだった。

(第二期)
 肉体を置き去りにしてして、別の次元に入る段階である。体験者は、霊とかエネルギーとかしかいいようのない世界、つまり死後の世界にいたと報告している。ひとりで孤独に死んでいくことはないのだと知って、安心する段階である。どんな場所で、どんな死に方をしようと、思考の速度でどこにでも移動することができる。自分が死んで、家族がどんなに悲しむだろうかと思ったとたんに、一瞬にして家族に会うことができたと報告する人は数多くいる。たとえ地球の反対側で死んでも、その事情は変わらない。救急車の中で死亡した人が友人のことを思い出したとたんに、仕事場にいるその友人のそばに来ていたと報告する人もいる。

 この段階は、愛した人の死、とりわけ、突然の悲劇的な死を嘆き悲しんでいる人にとっては大きななぐさめになる時期でもあるということが分かった。ガンなどで次第に衰弱して死を迎えている場合は、患者も家族も死という結末に備えるだけの時間がある。しかし、飛行機の衝突事故はそうはいかない。飛行機事故で死んだ本人も、最初は残された家族に劣らず混乱している。ところが、この段階に入ると、死んだ人自身にも何が起こったかを解明するだけの時間が持てるようになる。
 面接をした全員が、この段階で守護天使、ガイド―子どもたちの表現では遊び友だち―などに出会ったことを覚えている。報告を総合すると、天使もガイドも遊び友だちも同一の存在であり、包むような愛で慰めてくれ、先立った両親、祖父母、親戚、友人などの姿をみせてくれる。その場面は生還者たちに、喜ばしい再会、体験の共有、積もる話の交換、抱擁などとして記憶されている。 

(第三期)
 守護天使に導かれて、次の第三期に入っていく。その始まりはトンネルや門の通過で表現されるのが普通だが、人によってそのイメージは様々である。橋、山の小道、きれいな川など、基本的にはその人にとって一番気持ちのいいイメージが現れる。サイキックなエネルギーによって、その人自身がつくり出すイメージである。共通するのは、最後にまぶしい光を目撃することだ。

 ガイドの導きで近づいていくと、その強烈な光となって放射されているものが、実は、温もり、エネルギー、精神、愛であることが次第に分かってくる。そして、ついに了解する。これが愛なのだ。無条件の愛なのだ。その愛の力は途方もなく強く、圧倒的だったと生還者たちは報告している。興奮がおさまり、安らぎと静けさがおとずれる。そして、ついでに故郷に帰っていくのだという期待が高まってくる。生還者だちの報告によれば、その光こそが宇宙のエネルギーの究極の本源である。それを神と呼んだ人もいる。キリストまたはブッダと呼んだ人もいる。だが、全員一致したのは、それが圧倒的な愛に包まれているということである。あらゆる愛のなかで最も純粋な愛、無条件の愛である。何千、何万という人からこの同じ旅の報告を聞くことになった私は、誰一人として肉体に帰りたいと望まなかったことの理由がよく理解できた。
 
 しかし、肉体にもどった人たちは、異界での体験がその後の人生にも深遠な影響を与えていると報告している。それは宗教体験とよく似ていた。そこで大いなる知恵を得た人たちもいた。預言者のような警告メッセージを携えて帰還した人たちもいた。まったく新しい洞察を得た人たちもいた。それほど劇的な体験をしていない人も、全員が直感的に同じ真理をかいまみていた。すなわち、その光から、いのちの意味を説明するものは唯一つ、愛であるということを学んだのである。

 ~引用中断~

長くなりましたので、第2部に移りま~す。 長いでしょ

では、次へ

二葉鍼灸療院 田中良和

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偶然ではない

2012年04月07日 | 言葉のちから 心のちから

朝は希望に目覚め、昼は努力に生き、夜は感謝に眠る…どこの出典かは調べていませんが、星稜高校野球部の室内練習場に掲げられている言葉の一つです。

清々しい朝であっても、仕事の疲れが残る朝であっても、必ず朝が来ます。
当たり前のようなことですが、良く考えると、眠りから覚めるのも生命の神秘的な機能の一つかもしれませんね。

 

  偶然ではない 

この世、この時、我というものが生まれたのは、何万年も前から、我というものが、

この世、このときに生まれ出るような、元があったから出てきたのだ。

ただ、自分が、自分というものを意識したのが、極めて短い時間であったというだけの条件で

この世に生まれたものは偶然の動機だと考えたら、それはあまりにも自己を観る観方が

大きな誤解で行われていると言わなければならない。

  『中村天風 一日一話』  中村天風財団[編]

 

いろんな人生はあるけれど、どんな人生においても、等しくこの世に生まれた意味があり、等しくこの人生で学ぶべき何かがあり、そして使命があるのだと思います。

そして、大きい意味で捉えれば、どんな人や物、地球にあるすべてのものには意味があり、かけがえのない尊い存在なのだということでしょうね

     「ここに「今」在ることに価値がある」ということでしょうか。

悠久の地球の歴史の中の一瞬であるけれども、奇跡の一日を、楽しく、笑顔で、そして、小さな幸せに、感動して過ごしたいものですね。

一日の終わり、眠るときに感謝できるように 

二葉鍼灸療院 田中良和

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伝統的鍼灸診察法の有用性と医学的意義

2012年04月06日 | 鍼灸

ブログ報告遅くなってま~す。すいませ~ん。もう4月だというのに2月の報告させて頂きます。

 (社)全日本鍼灸学会 中部支部認定研修B講座 

 日 時 :平成24年2月19日(日) 午後1時~3時
 会 場 :金沢勤労者プラザ406研修室
 演 題 :「伝統的鍼灸診察法の有用性と医学的意義」
 講 師 :明治国際医療大学 鍼灸学部 准教授   和辻 直 先生 

 講師の和辻先生

内容は、舌診、聞診(声診)、問診の有用性と研究報告の紹介、また、脈診、腹診、背診、顔面診の有用性と研究報告の紹介、そして、上記を踏まえての、東洋医学の診察方法における研究と、その課題(脈診、経穴の反応など)の流れで話が進んでいきました。

     

舌の機能というのは、味覚、触覚、嚥下、咀嚼、構音、唾液分泌、歯並びの保持、歯列など多くの機能に関与します。12本ある脳神経のうち5本が枝を出しているのが舌です。機能をみると、消化、耳や鼻などの感覚器など多くの身体機能に関っています。

舌はいろんな診方がありますが、色、潤い、苔の状態、動き、形、厚さなどを診て、身体の状況の把握に用います。脈診や腹、背診は、その人の感覚と練磨が必要であり、非常に修得するまでに時間がかかるのですが、舌診は視覚を使った診察方法なので、知識さえ持っていれば、初心者からベテランまで広く患者の病態把握のための情報として用いることができます。

講習会でも話があったのですが、視覚から得られる情報は知識があれば初心者もベテランも変わらないのですが、そこから証を立てたり、それを患者へフィードバックする時は、明らかにベテランの方が有効に利用しているというデータもあります。臨床経験が豊かなのですから、当たり前といえばそうなのですが。

しかし、病態把握としては、初心者も知識があれば有効ということが重要かなと思います。舌診は病の深さ(表裏)、病の状態(寒熱)、病の趨勢(虚実)のうちの、病の状態(寒熱)を診るのに適しているようです。



和辻先生は舌診の本を書かれているほどに、研究に中でも舌診を重点的に行っているようです。講義の中では、舌診の締める時間的割合が多かったですね。
でも、勉強になりました。

その後、問診、腹診、背診、そして脈診の話がありました。

脈診で面白かったのは、脈診の研究は非常に難しいという話でした。以前、全日本鍼灸学会の金沢大会の時に東北大学での脈診の研究に関する発表がありました。脈波を調べるだけでは捉え難く、カオス分析やフラクタル分析など難しい解析をやらないと捉えることができないという話しでした。

また東洋医学の脈診方法はシュクホウ脈診と言って、豆の重さに例えて、手首から離れるほど脈を押さえる指の圧を強くしていく方法です。しかし、これは本当に解剖学的や生理学的に合っているのか ということがあったり、脈の状態の「浮」とは橈骨動脈の位置が変わっているのか など疑問もたくさんあるということの話がありました。

大学としても以前は脈診の研究を行っていたのですが、画像診断装置など調べると「双管脈」といって、脈診を行う部分から左右に動脈が分かれている、または、その前から左右に分かれている、その分岐が左右ではなく、上下に分かれている脈が意外に多くの割合で存在することが分かったそうです。

その割合は36.3%だそうです。

その辺りを脈で判断して診察、治療行う場合どのように判断、評価すればいいのかということで、暗礁に乗り上げ研究が停滞していたそうです。しかし、最近はまた大学で脈診の研究が始まったようです。一つ、脈診という不思議な診察方法の何かの真実が解明されるきっかけが生まれますように祈るばかりです。

数字や目に見える形で表現できないものがある、東洋医学を客観的に実証していくのは無理、など東洋医学の古典を近代科学で解明するのは無理だと話す人も多々おられますが、それじゃ~江戸時代の人が飛行機が飛ぶと思ったか?指一本で洗濯や掃除がができると太古の人は思ったか?パソコンなんてものを考えたか?ということですね。

思考の限界をつくってしまったら、そこが自分の限界になりますよね。

  
 司会の中田先生

また、和辻先生が台湾に行かれ、病院の中で鍼灸・漢方治療がされている様子をパワーポイントで紹介されていました。

近年、中国や韓国は鍼灸を含めた自国の伝統医学を世界標準にしようと、国がバックアップとなり世界に打って出ています。日本は、最近、学会が中心となり「日本鍼灸」というものが何なのかをまとめ、昨年の東京大会で宣言しました。しかし国のバックアップはありません。
世界との対応は外交ですから、国が後ろにいるのといないのとでは、天と地くらいに開きがあるでしょうね。その辺りの話は置いておいて…

今後は、日本の伝統医学としの診察、治療方法として、できるだけ統一的に説明ができるように研究、あるいは皆がまとまっていかなければならないという結びでした。困難なことは分かっているがということでした。

伝統医学としての鍼灸治療、患者を中心とすることは根本ですが、「効けばいいやろ」では、医学の中では、今までとなんら変化がありません。患者を診るものとしては、ミクロに観る現代医学的あるいは科学的な視点と、マクロに観る伝統医学的、太極的視点を持って、広い視野と多角的なものの視方、捉え方で、鍼灸医学を検証していくことが大切だと思います。

結局は、師匠の黒野先生の言っていることに辿りつくのかな~と感じた研修会でした。

二葉鍼灸療院 田中良和

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