二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

【必見】誰も知らなかった日本国憲法の真実|小名木善行

2022年07月14日 | 社会

 参議院選挙が終わりました 悲しい事件もありました

 政治に参加するということは、日本国民として大事なことです。

 そして、その判断をするための一つの方法は、正しく歴史を知るということでもあります。

 この動画をじっくり視聴いただければ「憲法」について、なるほど~と理解できます。

 

 この動画では言ってませんが、多くの日本で使用されている漢字を組み合わせた言葉は、やまと言葉の意味に漢字を合わせていったものであり、漢字がひらがなに変わったわけではありません。漢字伝来前より日本には文字があったんですよね。

 日本で最初の憲法は、憲法十七条ですが、やまと言葉の「いつくしき(憲)のり(法)とおあまりなな(十七)をち(条)」に漢字を当てはめて用いたそうです。

 その漢字の意味も興味深いものがあります。

 

 現在の日本国憲法は、憲法という字を当てはめるには似て非なるものがあるということです。

 大東亜戦争終結においてGHQに押しつけられた「日本国憲法」は、以後、日本国民の葛藤を生む原因となりました。

 英語で、The Consititution of Japanの訳には、当時の日本の状況を踏まえ、Occupied Japan(占領された日本)戦後7年間の占領時代につくられた法律という意味を入れるべきであり、本来なら、”占領統治下日本の基本規定”でも訳すのが適当であったということです。

 そして日教組は、このGHQ統治下の法律を守る役目がありました。

 また、同じ敗戦国であるドイツは戦後、60回にもわたる日本の憲法にあたる法律を変更している事実もあります。

 国が違うから~ではないのです。

 

 そして現在、選挙が終わり、これから憲法改正の論議がされます。

 現在の憲法改正については慎重に政府や官僚の皆様の議論を注視していないといけません。

 それは、現在も再び感染症が増加している日本国内ですが、実は、パンデミック等が発生した際は、その対応や権力をすべてWHO(世界保健機関)に委ね、コントロールするように、いわゆる当時国にその面での主権をなくすような方向にしていこうという動きがあります。

 そのためには憲法改正が必要です。

 周辺各国の脅威に備えるための憲法改正には私は賛成ですが、国の主権をどこがコントロールしているか分からない国際機関に委ねるのは、全く愚の骨頂だと心から思います。

 

 憲法の歴史から、日本国憲法の成り立ち、現代の憲法改正議論を、私たち日本が歩んで来た時間的経緯や歴史から、その意味を知ることができる動画ですので、ぜひご覧いただき、皆様で一度考えて欲しいと思います。

 

 まずは正しい歴史を知ることで、今の景色が違ってみえてくることもあります。

 そして、未来をつくるのは私たち国民であるので、一人一人が考え実践しないといけない時期がやってきています。

 

【必見】誰も知らなかった日本国憲法の真実|小名木善行

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございます

 

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安倍晋三 元内閣総理大臣ありがとうございます

2022年07月09日 | 社会

 令和4年7月8日(金)、この日は記憶から消し去ることのできない日になりました。

 

 安倍晋三 元内閣総理大臣が、奈良市での参議院議員選挙候補者を応援するための街頭演説中、銃撃され、その場で心肺停止の状態となりました。

 迅速に、そして懸命な救急医療スタッフの対応でしたが、神様には届かず、尊い命が失われるという事件が起こりました。

 

 第一報を受けた時は、誤報だろう 日本で政治家が銃撃 という思いで確認したところ衝撃が走りました。

 あってはならないことです。許されざる行為です。

 悲しく、空しく、悔しく、憤りが込み上げてくる、今まで経験したことのない感情かもしれません。

 涙が溢れてきました。

 

 まずは、安倍晋三さん、長い間の🎌日本国🎌の舵取り、ありがとうございました

 心からの感謝と、心からのご冥福を祈り、日本の政治家としての功績を労い、安らかに笑顔で私たち国民を、日本を、本来の世界から見守ってください本当にありがとうございました と感謝の意を表したいと思います。

 

 日本国政府、官僚、警察をあげて、今回の本当の犯人と事件の真相を白日のもとに晒していただきたいと心より願います。

 

 安倍さんは、平成、令和を通じて、世界の様々な仕組みを知り、その大きな力の中で、日本国として世界の中でどう振る舞っていったら良いのか、どこに向かっていったら良いのかということを、見えないパワーと戦いながら、ギリギリのところで政策や対応を実践されてきた、近年では傑出した政治家、内閣総理大臣だったと私は心から思っています。

 

 政治家もそうですし、様々な業界でもそうですが、完璧な人や行動なんてありませんし、完璧ではないから、その道にかける情熱と信念で自分の理想や目的達成に向けて進んでいけるのだと私は理解しています。

 国を動かし、富を動かし、世界の表から裏まで様々な勢力の思いや欲が渦巻く政治の世界では、自分の思ったとおり目的を達成するには、あらゆる力に立ち向かう強い信念と忍耐力が必要ですし、深謀遠慮で政治を実践する必要があります。

 安倍さんは、そんな力に全て迎合することなく、自分の保身や富や権力、利権を得たい勢力に国民の財産を売り渡さないようにギリギリのところで政治を実践されてきた政治家であったと、私見ではありますがそう思っています。

 

 大東亜戦争(第二次世界大戦)が終了して2022年の今年で77年が過ぎます。

 多くのことを国民も知ることができる時代になってきました。

 冒頭でも書きましたが、今、参議院議員通常選挙が明日、執り行われます。

 政治は国民が中心であり、私たちの人生や生活を、豊かに、健康に、安心して、安全に過ごすことができるように行われるのが本来の政治の姿です。

 それを利用して、自分だけ、自分たちだけが権力や富を得て、やりたいことをやり、人々を支配したい人たちが存在するのも事実です。

 

 私たち国民の生活に政治は密着しており、それを知り、そこに関心を持ち、その上で意見や要望を出しながら政治に参加することがこれからは重要なのだと、今回、安倍さんのこの事件が教えてくれているのかな~とも感じます。

 確実に大きな変化の波が来ているのでしょう。

 政治や政治家がこの変化を捉える必要があります。

 国民が政治や世の中の仕組みや世界や日本で行われているシステム、その真実を知る必要があります。

 その中にあって、古来から変わらず受け継がれてきている日本の伝統や心の在り方(精神)を再認識、再検討する必要もあるのだと思います。

 

 今回の蛮行は許せない行為です。もう暴力や圧力で人の行動や思いを押さえつける時代は終焉を迎えるのだと感じます。

 そして、人を思い、世の中を思い、その中で自分が生き活かされているという和の精神、日本人が本来持つ大和の精神が今後、世界に広がっていくことで、世界は温かいものとなり、それこそSDGsなんてのは、その精神が根底にあればすぐに実現できることなのだと感じます。

 

 安倍さんは、本当に日本を愛しながら、自分の仕事に信念と情熱を持ち、筋が通った政治を行ってきた素晴らしい人物です。

 どうぞ、心を安らかに、ゆっくりとお休みいただき、日本や世界の行く末を見守っていただければと心より思います。

 ありがとうございました。合掌

 

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最澄さん と 空海さん

2022年04月29日 | 社会

 少し面白い話を聞いたので、日本昔話風で書いてみます

  

 むか~し、むかし、最澄さんと空海さんという偉い仏教僧がいました。

 最澄さんは、空海さんの年齢が7つ上で、身分も高かったのですが、空海さんはあまり身分は高くありませんでした。

 ある時、二人は、お隣の国である”唐”へ派遣団の一人として仏教の勉強に行くことになりました。

 当時の航海技術は貧しく、唐への旅は、死を覚悟しての旅であり、行けるか帰ってこれるか分からなかったそうな~。

 二人は、それぞれ2隻の船にのり、唐へ向かいました。

 2隻、いわゆる二人は、唐の違う場所に行き着き、そこで2年かけて仏教を学びました。

 最澄は「天台宗」という仏教を、空海は「真言宗」という仏教を学び日本へ帰ってきました。

 

 日本へ帰国した二人は、それぞれの仏教を深め広めました。

 空海さんは、「お経」を学び持ち帰りました。

 これは天台宗にはなかったものでした。

 最澄さんと空海さんは仲間とともに、交流を深め情報交換を行いながら、それぞれの仏教を極め、良いものを取入れていきました。

 

 最澄さんと、空海さんは手紙のやりとりもするほどの仲でした。

 ある日、ストイックな性格を持つ最澄さんが、空海さんに聞きました。

        

 「私も真言宗を極めてみたいのじゃが、どれくらい時間がかかるものなのか」

 「ある程度の仏教僧なら半年ほどで極めることができます」

 「そーなのか、そーなのか、では私はどれくらい時間がかかると思われるか」

 「三年はかかりましょう」

 「さ、さ、さ、三年」

 「はい、三年かかるでしょう。最澄さんは、一つの山を極めた存在です。その極めた山を一度下山して、それから山へ向かい、さらに私の山をもう一度、登らなくてはならないからです」

        

 最澄さんは、弟子を空海さんのところへ行かせ、真言宗を学ばせたということじゃ~。

  

 なるほど~、何か世の中の真理の一つであるかな~と感じました。

 道を極める時は、素直さと覚悟が必要なのかなとも思いました。

 最澄さんの世の中の真理を学びたい、極めたいという情熱と、空海さんの冷静に正しく物事をみつける真摯さを垣間見る出来事でした。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

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日本国国歌『君ヶ代』の意味

2021年02月16日 | 社会

 日本国の国歌は、『古事記』『日本書紀』の神話に由来します。

 

君が

 国造りを行った、イザナノミコト と イザナノミコト の「キ」と「ミ」を表します。

 イザナとは「誘う」ということであり、イザナギは「男」、イザナミは「女」のすべてを表し=日本国民を意味します。

 「成り成りて、余るところのある男」と「成り成りて、足らざるところのある女」が一つになることが君です。

 成り成りてとは、完璧に成長した姿。そんな中にも完璧でないところを補いあうことです。

 誘(いざな)い愛し合い成長した男と女、のことです。

 

代は

 愛し尊敬する人のは時代は、時代が代わっても、それを超えて、という意味です。

 

千代に、八千代に

 八千代とは極めて長い年月、永遠を意味します。

 「八」は八百万の神という表現もされますね。

 千年、万年が経過し、生まれ変わっても永遠に、という意味です。

 

さざれ石の巌となりて

 さざれ石の正式名称は「礫岩(れきがん)」といい、細かな石が長い年月かかり固まり巌となった岩石です。

 今、地震で話題となっていますが日本列島は四つのプレートがぶつかりあっています。

 このプレートが下層に沈み込み、一方は隆起し大陸をつくっています。

 この時、細かな石が、そのプレートの圧力等でひっつき固まり大きな巌を形成していきます。

 そのような日本独特の地形の成り立ちから生まれた石、さざれ石です。

 男女が結ばれ、生まれてくる子どもたちや家族、人々が結束して協力し合い団結して、という意味です。

 

苔のむすまで

 苔は乾燥し冷たいところでは生育しません。

 適度に濡れていて、水はけの良いところで生育します。

 固いものにしっかり結びつき苔は生えます。

 苔の「むす」とは、天地に最初に現れた神3柱のうちの2柱である、タカミムスヒカミムスヒの「むす」をさします。

 「ムス」にコを付けると息子、メを付けると娘となります。

 「ムス」を漢字に直すと「生す」となり、子供を養い育てる意味です。=子孫繁栄

 新しい生命と、死に土に返る自然の摂理、徐々に広がって行く様を表します。

 固い絆と信頼で結びついて行こう、という意味です。

 

 どうでしょう。様々な解釈はあるかと思いますが、国が造られてから約2700年の間、一度も絶えることなくオオミタカラの心で国が治められてきた日本ならではの国歌、その内容だと思います。

 そんな意味を思い浮かべ、国がつくられた太古に思いを馳せ、今、刹那を捉えながら、国歌をうたうと、いつもと違った気持ちが湧いてくるかもしれません。

 

 捉え方も、考え方も、自由であり、自分次第ですから、このように考えると心も清らかになりますよね。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

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人間性とは何でしょうか

2020年04月23日 | 社会

 私の住む石川県でも新型コロナウイルス感染症の拡大防止に向け、緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出が自粛されています。

 多くの店舗や施設が一時的に閉鎖を余儀なくされている状況です。人の動きがないということは経済活動も停滞している状況です。

 すべての人が大小はありますが苦痛や不便を強いられています。

 そして現在、家にじっとしていても情報だけは、様々なメディアから多くのものが目や耳から入ってきます。

 このような不安や恐怖が蔓延する困難な状況の時に、色濃くその人の「人間性」が出てくるのかもしれません。

 様々な人間模様、心の動き、その心を反映した行動や言葉、今まで作り上げてきた人格をコロナによって試されているような・・・そんな気さえして来ます。

 

 自分自身を振り返り、その言葉や行動をみても、嫌な自分もいれば、好きな自分もいるし、認められない自分もいれば、よくやっていると認めてあげたい自分も存在します。
 人生はこのような感情との葛藤の繰り返しなのかもしれません。

 最近、よくメディアでも、何でも「人間性」「人間力」という言葉を耳にします。

 人間性は、星稜高校野球部時代山下 智茂監督東洋医学研究所®での鍼灸修業時代の師匠 黒野 保三先生には、口が酸っぱくなるほどご指導いただきました。

 さて、いろんな角度から自分と言うものの「人間性」「人間力」というものを俯瞰すると、「それは何なんだ 」と迷ってしまうことがあります。人間性とは何なんだろうと考えることは禅問答になってしまうのかもしれません。いつまでも探求していく道なのかもしれません。

 今の時点の「人間性」をどう評価していったらいいのか・・・悩みます。

 

 江戸時代初期の陽明学者で、中江藤樹さんという方がおりました。

 藤樹さんは、当時の寿命としては普通だったのかもしれませんが、40歳でこの世を去られました。

 陽明学者でありましたが、晩年は、仏教や道教、神道も受け入れて、私塾を開き、持病の喘息と闘いながらも門人の教育に費やされました。

 また藤樹さんの生まれは近江国でした。学問を教えるばかりでなく、目の前の一人ひとりの悩みや苦しみに耳を傾け向き合い、真心を込めて導かれました。
 いつの間にか藤樹さんは、近江聖人と称えられるようになったということです。

 

 藤樹さんが常々、実践していたことがあります。

 それは「明徳仏性(めいとくぶっしょう)を明らかにしていく」ことです。

 明徳=儒教用語、仏性=仏教用語で、同じ意味の言葉を重ねて言っております。

 その意味は、全ての人に生まれつき備わっている良心のことでです。それを人生の中で実践して明らかにしていくということなのだと思います。

 

 また、これを実践していく上での人生の戒めとしていた「五事を正す」があります。

 それは明徳仏性を実践する上での平素の心掛けと捉えることも出来ます。

  貌(ぼう)・・・穏やかな顔つきをする

  言(げん)・・・思いやりのある言葉を使う

  視(し)・・・・澄んだ目で物事を見る

  聴(ちょう)・・耳を澄ませて人の話を聴く

  思(し)・・・・真心を込めて相手を思う

 

 この現代の社会状況の中、あるいは今後予測される社会の中では、藤樹さんのような、このような生活実践に対する心掛け、戒めが大切になってくるのかもしれません。

 良心の実践という素敵な「種」を植えていきたいですね。

 私も、五事を一つでも正していくよう心掛けたいと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

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新型コロナウイルス感染症 日夜尽力いただいている医療関係者に感謝!

2020年04月11日 | 社会

 令和2年、この年を語る全てと言ってもいいほど新型コロナウイルス感染症が世界を席巻しています

 日本においてもクラスターが各地で確認され、また感染地域は岩手県を残して全県に及んでいます。石川県内も4月10日には20名の感染者が発生し92名の方が感染されました。

 この感染症による日本の死亡者は徐々に増加していますが、まだ世界に比べれると少ない状況です。イタリアやスペイン、アメリカ合衆国では1万人規模の死亡者が出ております。

 そんな中、先日の報道でイタリアにおいては感染症に携わった医師105名がお亡くなりになっているという事を聞き愕然としましたし、悲しかったです。
 一番危険と隣り合わせの中で、患者の回復のため、感染症を広げないために日夜、究極のお仕事と言える医療の最前線で活躍いただいている医師や看護師の皆様には、もう感謝しかありません

 救急や隔離病棟(診察室)、ICU等で従事しただいている皆様がいるからこそ、そのような医療があるからこそ、私たちは安心して生活できます。罹患した場合に対処する方法があります。

 

 そんな医師や看護師、病院関係者の皆様が感染症に感染し、尊い命を落とされています。

 悲しんでも、悔やんでも、現場に行って援助できるわけでもなく、どうしていいか分かりません。

 

 だったら、感謝の念を言葉で祈りで伝えればいい

 直接、会うことができれば伝えることはできますが、この状況でもありますし、遠く離れていても応援していることを、毎日、時間があれば感謝を示せばいいんだと思います

 

 その氣や波動は、人の思いは必ず伝わると思います。

 世界の一人ひとりが、前線で戦っている皆様に、そんな温かい思いを伝えることができれば、感染症も早期に終息していくだろう ・・・と願っています。

 

 そんなことで、私も本日より、日本で、世界で、この感染症と戦っていただいている医師や看護師、病院関係者の皆様に、波動砲 感謝の念を送りたいと思います。

 

 大事なことは、心で、深い意識で、温かい心を繋げ合うことなのではないかと感じます。

 

 最後に、第二次世界大戦(大東亜戦争)が終戦してもなお、フィリピンのジャングルの中で30年間任務を遂行し、最後は一人だけになっても生き抜いた、小野田寛郎(おのだ ひろお)さんの書籍『生きる』より抜粋。

 

 ルバング島に着任してすぐの昭和二十年三月一日のこと。森林で四方を敵に包囲され、絶体絶命のピンチに立たされることがあった。敵との距離は五十メートルほどの、いわゆる近接戦である。そのときこちらは二百人ほどの集団だったが、指揮をとれる者が私以外にいなかった。

 私はどうすればその窮地を脱することができるか全身全霊で考えた。周囲の状況を観察しているうちに、突然、悪寒がして脳みそが大きくなったような感覚にとらわれた。夕闇近いというのに、周囲が昼間のような明るさに見え、数十メートル先に葉っぱの葉脈までもがはっきりと認識できた。敵の居場所や地形の高低がくっきりと頭の中に浮かんで、どこまで這っていき、どこから走ればいいのか逃走経路がイメージできた。

 と同時に、なぜか、「絶対成功する」という確信が心の中から湧いてきた。なんとも不思議な感覚だが、実際にその確認通りに、全員無事にその場を離脱することができた。

 長い戦場経験の中でも、こんな体験をしたのはこの時だけである。人間、絶対絶命のピンチに陥っても、必死で生きる道を探れば、眠っていた潜在能力が目を覚まし、思いもよらぬ力が出るのだということを現実に体験した出来事であった。

 

 私たちは有難いことに戦争体験したことはありませんが、今が小野田さんが体験した状況に似た状態かもしれません。
 コロナウイルス最前線で尽力される皆様を心より尊敬するとともに応援いたします

 最後までお読みいただき、ありがとうございます

 

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本庶 佑さんのノーベル生理学・医学賞 受賞

2018年10月05日 | 社会

 台風が週末ごとに日本を縦断する平成30年の秋です。

 お腹いっぱいで~す

 気温や気圧の変化で皆様、体調を崩されていませんか

 何か気になる症状、急に発症した症状がありましたら、二葉鍼灸療院へいつでもご相談ください。お待ちしております

 星稜高校野球部トレーナー活動記に関しては、なかなか書けませんが、北信越地区高校野球大会が始まる前に一気に書かせていただきます。

 

 本庶 佑(ほんじ たすく)さんが、ノーベル医学・生理学賞を受賞されました。

 素晴らしい研究だと思います。

 新聞の記事に書かれていた本庶さんの経歴をみていると、お父様と黄熱病研究で知られる 野口英世さん に憧れて医師を志し、大学医学部で目にした生物学者の一言で臨床医ではなく、研究の道に進んだとありました。

 何がきっかけや引き金になるかは分かりませんが、目標や夢を目指して一所懸命やっていると、いろんな道へ進む出会いがあるのだと思います。それを感じ、どう行動するかは自分の直感や、もしかしたら自分ではどうすることもできない大いなる力を受け取っているのかもしれないな~なんて思いました。

 

 その新聞記事の中で、なるほど~というワードがいくつかあり自分の学びとなりましたので記しておきたいと思います。

 

 「科学は多数決ではない。既存の概念を覆す少数派の中からこそ新しい成果が生まれる」

 

 本庶さんの信念であるとのこと。何だか分かりませんが勇気づけられる言葉です。

 私の師匠は鍼灸医学解明のため、再現性や科学性を50年からの臨床や研究の中で多く集積、実践をされました。

 奈良時代に伝来した鍼灸は約1400年、いろいろな形はあるにせよ現代に継承されてきている、そして、各症状に効果を出し喜ばれています。NHKで放映されてきたように、科学的にもその一端を証明されてきています。

 また医療機関との連携で患者中心の医療に貢献したり、米国では軍事病院にはすべての施設で鍼治療ができるようになっています。

 科学的ではない、エビデンスがないと言われていますが、その研究や実績の集積に努力もしてきている。先輩方の努力により医療の一端を担う国家資格として位置付けていただきました。

 古典医学を科学的に発展していない人々が書いたなどと理解することは大きな誤解で、いろんな記述を見ると現代科学が何千年も前の人々の叡智に追い付いてきているのではないかということも多くあるかと感じます。

 分子や原子、素粒子など物質を細かく追求していけばしていくほど全体性(宇宙)に繋がっていくのだと感じます。そして宇宙の中に地球があり、その中でヒトは生かされている・・・まさしく東洋哲学に繋がっていきます。

 

 「”知りたいという好奇心”と”簡単に信じない”ことがモットー」

 

 私たちの仕事にも通じる大事なことだと思います。

 世の中、自分の知らないことのほうが多いです。こと患者さんの状態を良好に改善する、健康に導くという私たちの鍼灸という仕事は分からないことだらけです。=勉強することがた~くさんあるということです。

 「この患者さんの、この症状を改善するには、どうしたら良いか?どんな治療がいいのか?」

 「この治療方法で良かったのか?違う経穴(つぼ)のほうが効果があったかもしれない」

 などなど、患者さんを患者さんではなく健康人に戻すために、ない頭をひねるわけです(私の場合です)。だから、引き出しはたくさんあった方がいいし、常に、「その他には」「これで良かったか」という振り返りをするわけです。

 過信になっていいけませんが自信を持つことは大事です。より良い鍼灸を後世に伝えていくために、約1400年の間、日本人の健康を担ってきた医療の一つである鍼灸をやらせてもらっているという自負とともに、”その好奇心””疑問”は常に大切な心の在り方だと思っています。

 

 ”肺がんの患者から「最後のラウンドだと思っていたが、あんたの薬のおかげで、また良くなってゴルフができる」と言われたエピソードに

 「何の賞をもらうより、それで十分だと思っています」

 

 これに尽きると思います。

 鍼灸に限らず仕事をするって、こういうことかなと感じます。世の中に貢献するということです。臨床医のような研究者だなと記事を読んでいて思いました。

 がんを治してあげたい 幸せな人生を送ってほしい 少しでも症状を緩和したい 目的や方法や環境は違えど、世の中のために医療や科学という分野で貢献したいという方向性は、私たちの道にも通じるところがあります。

 

 免疫療法はこれからまだ発展する分野のようですが、本庶さんの研究から生まれた”がん治療薬「オプシーボ」”も免疫のほんの一側面を標的としたものであり、さまざまな問題も抱えています。が、着実に今まで分からなかったことが分かるようになってきたということは事実ですね。

 

 ノーベル賞の創設者”アルフレッド・ノーベル”は科学者であり発明家です。多くの特許を取得していました。その中でも有名であり、彼の資産を生み財を築いたものに「ダイナマイト」があります。

 委細は分かりませんが、建設用・採掘用の爆薬として不安定であったニトログリセンを使った爆薬に珪藻土を使用することで安定化に成功し「ダイナマイト」が生まれたようです。彼は工業を発展させて、戦争を終わらせようとしたという話もあります。

 私には分かりませんが、良心から生まれた発明も、後世において悪用されれば、世の中には害となったり勘違いされてしまうのだと思います。

 ノーベルは、「人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」として、この賞の創設のため莫大な資金を提供しました。

 

 本庶さんのノーベル生理学・医学賞の受賞にあたり、本庶さんの記事を読んで清涼な気持から感じたことを書かせていただきました。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます

 

   二葉鍼灸療院 田中良和

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天皇皇后両陛下のパラオご訪問のニュースをきいてオモウ

2015年04月08日 | 社会

本日、4月8日はお釈迦様の生まれた日(灌仏会)とされています。

日本では現在使用されているグレゴリオ暦の4月8日となっておりますが、他のアジア各国は中国暦(太陰太陽暦)の4月8日をお釈迦様が生まれた日としているそうです。

そんな4月8日そして9日にかけて、天皇皇后両陛下が戦後70年を迎える年にパラオへご公務に行かれております。先の大東亜戦争で尊い命を落とされた英霊の皆様への慰霊のためです。そして、それは日本人ばかりではなく、現地の住民の人たちにも、アメリカ軍人の中にも、同じく尊い命を落とされた方は多かったのではないかと思います。

そのような英霊すべての慰霊などのために両陛下はパラオに向かわれたのだと私は理解しております。

先の大東亜戦争、第1次、第2次世界大戦など戦争に明けくれた世紀の中で、多くの犠牲と戦争の悲惨さを目の当たりにしながら人間は未だ戦争や紛争をやめようとしません。

誰のために、何のために行われている戦争や紛争なのか、報道各局のニュース等の番組を見ても全く真実が理解できず、逆に間違った認識やフィクションを植えつけられることも多くあるのではないかと思っています。

日本の学校での歴史教育においてもそれが言えるのではないでしょうか

私は近現代の歴史教育を学校でしっかりと習った覚えがありません。私は学生時代、地理や歴史など社会科が好きでしたのでしっかり勉強したほうかな(自己申告ですが)とは思うのですが、このあたりの歴史を勉強したのも、東洋医学研究所において東洋哲学思想や歴史を勉強するようになってからです。

日本は、世界に冠たる万世一系の天皇家が脈々と約2700年(少なく見積もっても約1500年)の間、日本国を日本国民を思い見守ってき来られました。王族、皇族がこれだけの長きにわたり受け継がれている国はどこにもありません。 そして、天皇家の本来のお仕事は国や国民の幸せを願い神事を行うことです。そして現在では国の象徴として多くの書類に目を通されたり、外国に行かれたりと様々なご公務をこなされておられます。伊勢神宮にお参りに行かれた方も多いと思いますが、神事も大小様々な行事があり、それを毎年行っていただいているのが天皇という存在であります。

さて、現在、神武天皇を初代天皇と定めると今上天皇は125代となります。その天皇皇后両陛下が英霊の慰霊のためにパラオに向かわれたのです。

大戦後においても、現在においても、世界が紛争やテロ、戦争が多く勃発していることは前記しました。そして多くの人たちが命を失っています。日本は戦後70年、実際、戦争を行っていないし参加しておりません。そして戦死者もいません。平和憲法があったからでしょう。

現在では日本海や東シナ海においての諸島の領有権争い、または歴史認識等で隣国のアジア各国ともめており、危うい雰囲気すら感じられます。また、不安や緊張を促すようなどっちつかずの大国の駆け引きも見えたり見えなかったりします。

しかし、アジアの国々お互いが争い、いざこざを起こすことで、どこかのどなたかが利益、利権を得るのが現在の大きな社会や世界の動きです。お隣同士、アジア同士は仲良く、協力して行けるのがアジア、いえいえ一部の人たちを除く世界の人たちにとって幸せなことなのだと思います。

話は脱線しておりますが、

  これは日本の国旗です。

 こちらはパラオ共和国というミクロネシアの国の国旗です。

すごく似てますよね。そんな国旗にまつわ戦中、戦後の真実があります。私も「似てる国旗だな」という程度で関心がなかったのですが、こんな事実があるのです。

日の丸とパラオの国旗の由来

戦争という手段は最悪の手段であり、これを肯定する事は全くありません。しかし、当時の世界的歴史の潮流において、各国が奪う側、奪われる側にあったあの戦乱の時代、どのように国や国民、国益を守っていったらいいかと考えながら常に選択を迫られていた状況は察しがつくのではないかと思います。

ハッキリ言って何でもありの戦争において、日本の軍人や政治家、官僚はどう考え、どう動いたのか、天皇陛下はどういう思いでこの状況を見守り決断されたのか、戦争という負の遺産から推察し、考えていかなきゃいけないのではないかと思います。

そして、植民地においての日本の軍人の皆様の行動はどうであったか。全て自国の国益つなげるため植民地から全てを奪取していた時代に日本軍や日本軍人はどのような方針と行動をとったのか。今までは日本が悪い、日本軍人が悪いと教育を受けてきました。本当にそうなのか・・・その一端のお話が上の動画の事実なのだと思います。ここも日本が統治した植民地の一つです。パラオでは住民とともにパラオの進展のために現地の人たちとともに働き、教育を受け、韓国や中国では残虐非道を働いたそんな筋の通らない話はあるでしょうかもしかしたら日本人の違う考え方の人たちがお隣の国々では狼藉を働いていたのでしょうか 

  こんな記事も参考にしてください ☞ 一般財団法人 日本太平洋島嶼国交流協会

歴史の流れはもしかしたら、スペイン、ポルトガルが大航海時代を迎え、世界に次々と植民地をつくっていった頃からの流れをみないといけないのかもしれません。(あのキリスト教布教に種子島に辿りついたフランシスコ・ザビエルも何が目的で日本に来たのか・・・その話は置いておいて)、そして、江戸末期から明治、大正、昭和初期と激動の時代の世界や日本の戦乱の歴史や各国の思想(一部の人たちの思想かもしれませんが・・・)を考慮して、大東亜戦争、第二次世界大戦を捉えないといけないのだと思います。

また日本が統治した植民地政策において、中国や韓国だけではなく各国(台湾、インドネシア、インド、ビルマ、ミクロネシア諸島の国々、等々)の政治家や人々がどのように思っていたのか、ということを知らなくてはいけないのだと思います。また様々な情報から知ることができる時代なのではないでしょうか。
そして、それが本当の歴史教育であり、永い悠久の歴史を持つ日本人の大切にしなくてはいけないことなのだと思います。

上の動画を見て、現在の日本の礎を築いた先人の規律行動、そしてそれを動かすの素晴らしさに奮えました。なんでもかんでも信じるわけではなく、このような事実は客観的に見ると歴史の事実の中にたくさんあることは、資料等を調べればわかることです。

そして、日本人で良かったと思います

と同時に、そのようなことを私たち現代の日本人はできるのか またできるようになるのか 先人に対して恥ずかしい思いもありますが、昔に戻ることはできませんので、正しい歴史の事実を知りつつ、未来に活かしていくことが必要なのだと感じました。

 

天皇皇后両陛下がパラオへご訪問というニュースにあたり私が感じたことを書かせていただきました。

長文お読みいただきありがとうございます 

 

    二葉鍼灸療院 田中良和

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2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 3

2012年08月24日 | 社会

時間が経ちましたが、終戦記念日に考えたことの続きです。

天皇陛下とマッカーサーGHQ最高司令官のことについて少し書いて、この話題を終了したいと思います。

終戦後、連合国総司令部(GHQ)最高司令官 ダグラス・マッカーサーは、1945年8月30日に厚木飛行場に到着しました。その映像は時々メディアに出てきますね。

その後、マッカーサーは、9月27日に天皇陛下(昭和天皇)と初めての会見を行います。

マッカーサー回顧録によると、その時の模様を記しています。その中に…

  『私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか
   という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろ
   という声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、
   天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果
   を招くことになるかが、よく分かっていたので、そういった動きには強力に抵抗した』


  『ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも
   百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に
   処せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、
   まず間違いないと私は見ていた。結局、天皇はリストから外されたのだが、こういったいきさつ
   を、天皇は少しも知っていなかったのである』

そんな事情があるなか、天皇のお言葉は、

  『私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、
   全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるために
   おたずねした』

と仰られました。その言葉に対してマッカーサーが思ったことは、

  『私は、大いに感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実
   に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた
   態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私は、その瞬間、私の前にいる天皇が、個人の
   資格においても、日本の最上の紳士であることを感じとったのである』

と書いてあります。マッカーサー司令官は、会見に天皇陛下が来る時も、帰る時も、玄関には出ない予定でしたが、この35分にのぼる会見の中で何が変わったのか、天皇陛下がお帰りの際には、思わず玄関までお見送りしてしまい、慌てて引っ込んだことが目撃されている、と、『吉田 茂 回想十年』にあるそうです。

この会見を行うにあたり、GHQは天皇のこと、日本人の天皇に対する感情などを調べあげています。また、マッカーサーも早期に日本の統治を終了させたいと思っていたのでしょう。1948年には、大統領選挙に出馬しています(トルーマンが大統領に選出されましたが)。そのことを差し引いても、天皇陛下のお人柄に何かを感じたことは違いなく、後々の様々な決定に影響したと思います。

調べあげていると言えば、第二次世界大戦の発端、経緯は様々なものがあります。資源が少ない日本にとって、諸外国との貿易は産業発展、国民生活には不可欠なものでした。今も同じです。そんな中、海路が分断され、石油、鉄をはじめ生活必需品の輸出入を行うことができなくなりました。いわゆるABCD包囲網(アメリカ・イギリス・オランダ・中国による海上封鎖)です。
これも戦争に突入する大きな要因となりました。昭和天皇は、この戦争を「石油にはじまり石油に終わった戦争」とも話されていたようです。

しかし、しかし、この日本包囲網を含め、太平洋戦争に関る計画は、戦争が始まる以前に計画されていました。アメリカという国は、常に仮想敵国、または仮想敵を示して、それに対する戦略を練り、必要であればそれを実行してきた国です。今もそうです。

対日戦争計画として作成された計画は「オレンジ計画」と言われるものです。当時、あらゆる場合を想定し、仮想敵国ごとに色で現して計画つくっていました。その色が日本はオレンジだったということです。ちなみにアメリカはブルーです。太平洋戦争はおおむね、この計画に沿った形で遂行されました。
なんと、この計画は、1906年~14年の間に作成されました。ということは、太平洋戦争が始まるかなり以前から戦略方針が決定されていたということです。その後、随時、改訂されますが基本の骨子は変わることがありませんでした。そして、太平洋戦争が勃発するや、24時間ごとに戦艦の現況を反映して、次にどう動いたらいいか、ということが計画の中で随時更新されていたそうです。

アメリカのいくつかの仮想敵国の戦争計画の中で、日本に対するオレンジ計画は、最も卓越したものであったということです。アメリカのアジアへの植民地拡大の足がかりとして、戦略的に日本は重要であったということでしょう。また、このオレンジ計画が練られた頃、米国内では人種差別が凄まじく、奇しくも日本から数千人単位でアメリカへ移民として渡った、そんな状況もあったようです。

ようは、今のアメリカと同様に「どうしたら戦争を始めることができるか」ということを常に考えていたということになります。

アジアは確かに、日中戦争が起こっていましたが、アメリカは、さらに、それを上回る戦略と情報収集能力で、自国の利益をさらに強く、そして、そんな意味の大きな視点からアジアを注視し、そして、我がものにしようと計画を実行していたということになります。

第一次世界大戦後、戦争による反省から「国際連盟」が1919年、パリ講和会議により結成されます。その連盟規約に、日本が提案し、是非とも加えて欲しかったのが、”人種あるいは国籍の如何により法律上あるいは事実上なんら差別を設けざること”いわゆる「人種差別撤廃条項」でした。何度も反対されたので修正案を何度も提出したにも関わらず、欧米列強の反対にあいました。決議は多数決で決定するにも関らず、議長のアメリカ大統領 ウッドロー・ウィルソが「大事な決議は全会一致で…」ということに変えて、あえなく日本の提案は否決されました。
その後、様々な経緯があり、日本は国際連盟を脱退します。「こしゃくな日本」ってな感じで、対日戦争計画ができる下地はあったのでしょうね。
第二次世界大戦の日本の大きな目的の一つが人種差別撤廃と大東亜共栄圏の構築です。日本は敗戦国となりましたが、戦後、東南アジアやアフリカ各国の植民地が独立していきました。

現在、尖閣諸島や竹島の問題が世の中を賑わしています。ここで領土問題をとやかく言うことはしませんが、ここは日本だ、ここは韓国だ、ここは中国だ、と言っている間に、実はそれより高い立場(いや、裏の立場からと言ったほうがいいのか)から、国際戦略的にどこかの国が操っているのかもしれませんよ…と私は、そんな見方もしています。

ついでに言うと、戦後、日本は韓国にも中国にも、アジア各国に賠償金を払っています。そして何度も謝ってきています(本意、不本意は別にして)。韓国とは日韓基本条約により、取り決めを行い、当時の日本の国家予算の10分の1にあたる額の賠償金または、有償支金を払っています。世界の中で、敗戦国、また、植民地であった国に対して賠償金を払った例はありません。さらに、日本は朝鮮統治の中で整備したインフラなどの資産をすべて譲渡しています。
お金の問題ではない…などと言われるかもしれませんが、いつまで政治にこのような問題を持ちあげて、騒乱を生み出すのでしょうか。今回は毅然とした態度を貫き、問題解決をして頂きたいと思います。そのせいで経済や人的交流に支障が出ることは、お互いの国にとって得策ではないでしょう。お互い改めるところを改める。そんなことが大切だと思います。

あっと、話はそれましたが

日本は、戦うべくして戦い、残るべくして残っているのだと思います。戦争や紛争はあってはならないことです。しかし、起こってしまったことを教訓として、大切な部分はどこにあるのか、中心としなくてはいけない考え方はなんなのか、何のために(誰のために)、どのように決断しなければならないのか、そして、敵味方を越えて感じるものとは何なのか、そのようなことを、天皇陛下(昭和天皇)は、敵国の司令官であるマッカーサーの関係から、私たちに残して頂けたのではないかと思いますね。

日本をよりよい国にしていくために、世界の人々みなが平和で、愛の満ちた世界で過ごせるために、現在、物質的に余裕のある日本人がもっと考えていくことが大切なんでしょうね。

それを子孫へ伝えていくためには、「今」 自分が何を考え、思い、どう行動するかが、すべてなのだと思います。

あーーーーーー、また長くなった   最後まで読んで頂けた方、ありがとうございます

これで、2012年 終戦記念日に考えたことを終わりたいと思います。

 
  二葉鍼灸療院 田中良和

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2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 2 

2012年08月17日 | 社会

2012年、終戦記念日にいろいろ考えたことを綴っています。その続きです

もう一つ、なかなかポツダム宣言を受け入れられなかった理由は、その条文にあるようです。

◆ポツダム宣言は、13の条文からなりますが、作成はトルーマンの側近で知日家である人物が中心となり作成されました。その中で、日本を早期に降伏させるためには、日本人が最も大切にしている「天皇の地位保全を保障」することだとし、起草文にはそれが書かれていたようです。

トルーマンは、その「天皇の地位保全の保障」に関する部分を削除しました。
日本には、早々に降伏してもらって欲しくなかった理由があったからだと言われています。

原爆です。

原爆投下はマンハッタン計画やアメリカの対日戦略の中で、投下の相当前から計画されていたようです。どうしても人体実験をしたかったようです。戦後、そのマンハッタン計画の設備やブレーンが、そのまま原子力発電へチェンジしていきました。それが現在の日本の原子力発電を支えています だから日本にある原発なのに、その事故の詳細が国民に伝わるのが遅いのです。お伺いを立てなければいけない所があるからではないでしょうか

話は戻して…和平への仲介役をお願いしていたソ連が突如、参戦したり、満州で多くの開拓民の方々がソ連の兵士に虐殺、連行され、略奪、暴行され、ましてや、広島、長崎に原爆を投下されまいた。そんな中でも、ポツダム宣言を受け入れるかどうかという結論には至りませんでした。しかし、1945年8月9日、宮中の地下防空壕において、歴史的な御前会議が開かれることになり、天皇陛下のご英断により、受諾が決定されました。

その御前会議に内閣書記官長として列席されていた、迫水久常 氏の証言があります。
以下、長いですけど引用。

~引用開始~

 第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内のみならず、あるいは、北海の地に、あるいは南溟の空に失いました。それにも関らず、当時の最高戦争会議においてはポツダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分かれて、どうしても決まらなかったのであります。そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るしかなしと、当時の鈴木総理は決意して、昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議を開くことになりました。

 陛下は足取りも重く、お顔は上気したるごとくにて、入って来られました。今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛数本額に垂れておられたことです。会議は総理が司会致しまして、まず私がポツダム宣言を読みました。日本に耐えがたい案件をのむのでありますから、まったく、たまらない事でした。
 次に外相が指名されて発言しました。その論旨は、この際、ポツダム宣言を受諾して戦争を終えるべきであるということを、言葉は静かながら、断乎申されました。次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、荘重に涙と共に今日までの軍の敗退をお詫びし、しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗と決まっていない。本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得べく、もし事、志たがう時は、日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史にとどむることこそ本懐であると存じます、と言われました。次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります、と言われました。平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問された後、外相の意見に同意であると言われました。参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。この間、二時間半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は本当に至近の距離に陛下の御心配気なお顔を拝して、涙の滲みでるのを禁じ得ませんでした。
 一同の発言が終わった時、私はかねての打ち合わせに従って、総理に合図いたしました。総理が立ちまして、おもむろに、「本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、只今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれおおいことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います」と述べられ、静かに陛下の御前に進まれました。
  (中略)
 陛下はまず、「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて、
 「自分の意見では外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。

 陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙が滲みました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。次の瞬間、すすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
 涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬をしきりに、お手をもって、お拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。

 陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったに違いありません。みんなが号泣しているうちに、なお陛下は、絞り出すようなお声で、念のために理由を言っておくと、次のような意味のことを仰せられました。

 「太平洋戦争が始まってから、陸海空軍のしてきたことをみると、予定と結果がたいへん違う場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを先ほども述べたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士に銃剣さえも行き渡っていないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、非常に心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのではなかろうか。そうなったら、どうしてこの日本を子孫に伝えることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受け継いだ、この日本を、子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦い続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干渉の時のお心もちを考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍び難いことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である。…」

 陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。日本国民と、さらに世界人類のために、自分はどうなってもかまわないという、陛下の広大無辺なる御仁慈にたいし、ただひれ伏すのみでありました。陛下のお言葉はさらに続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者にたいするお心もち、また遺族のこと、さらにまた、外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者にたいしまして、また戦災にあった人にたいして、御仁慈のお言葉があり、一同は、また新たに号泣したのであります。
 陛下のお言葉は終わりました。総理は立って陛下に入御を奏請し、陛下は、お足取りも重く室をお出になりました。時に午前二時でありました。
  ~「終戦の真相」 迫水久常 述より~

~引用終了~

昭和天皇は立憲君主制を誰より自覚されていたため、陛下のお言葉による政治的決断は、この終戦の時と、2・26事件の時の2回だけであったそうです。どちらも辛いご英断をされました。

天皇陛下は当時、大日本帝国憲法下では、国家元首であり、「神聖にして侵すべからず」存在でした。ですから、ポツダム宣言に「天皇の地位保全の保障」がなかったことが、日本人にとっては我慢できなかったのでしょう。ですから、このような戦況にも関らず議論が分かれてしまったのでしょう。

しかし、天皇陛下が自ら、わが身を犠牲にしてでも、日本国民と国土を子孫に伝え続けるための御英断をされたわけですね。
天皇にとっては、昔も今も、「国民が大御宝」なのです。そこが、単なる皇帝や将軍などとは違うところなんです。このような天皇であるからこそ、日本国民は天皇陛下、天皇家を尊ぶわけです。

ちなみに、天皇陛下のお仕事は、学校の教科書で勉強するように、国会や内閣での任命、認証など、栄典に関して、外交文章の認証、外国大使・行使の接受、等々様々であり、書類の署名・押印などの仕事は年間1000件を超えるということです。その他に、国民や国土、または世界の幸せを願う皇室祭祀は年間30回にのぼります。

上記のような経緯があり、終戦に至ったわけです。そして、天皇陛下の切なる願いが届き、残った日本人の皆さまが一所懸命、この国をよくすべくご尽力頂き、現在は、世界第2位の経済大国となり、飢餓で苦しむこともなく、豊かな生活を営むことができています。

やっぱり長くなりますね~

ではでは、パート3では、天皇陛下とマッカーサー元帥のことを少し話し、現在の状況を踏まえて「これから…」を書きたいと思います。

  二葉鍼灸療院 田中良和

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2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 1

2012年08月17日 | 社会

今年、2012年は、1945年8月15日の終戦から67回目の夏でした。少し遅れましたが、そんな終戦記念日に、いろいろ自分なりに考えてみたことを書いておきたいと思います

 終戦とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)の終結です。この戦争により、世界で約6000万人の方々が、アジアでも2000万人の方々が尊い命を落とされました。この戦争における悲惨なことは、一般の方々の犠牲が多かったということです。

先の戦争により命を落とされた、日本の、そして世界のすべての方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

大きな戦争における反省により日本は、直接的には戦争を起こすことなく現在に至っています。しかし、世界では中東、アフリカをはじめ多くの地域で今も紛争や戦争状態に陥っており、おおくの一般市民の方々が犠牲になり、不自由な生活を強いられています。
シリアでの内戦は連日、報道されていますが、どこに真があるのか一般の報道だけでは分かりません。気をつけなければならないのは、大手マスメディアから流れる情報を鵜呑みにしてはいけないということです(と、私は思っています)。少し前にアメリカ軍が引き上げたイラクでは、石油の権益はメジャーが握り、復興という名のもとにインフラ等を整備した会社は、ほとんどがアメリカの有力者の系列の企業が行いました。一般の市民はどうかというと、戦争により、職も、家も無くした方々が、難民となりイラクの国境沿いに100万人規模で暮らしているそうです。良いか悪いかは分かりませんが、フセイン政権ではこのようなことは無かったそうです。ですが、これが戦後の現状の一面です。

ちょっと、話は逸れましたが…

この時期になると、靖国神社参拝問題や領土問題で世の中が賑わうようになります。
ここの所も、竹島や尖閣諸島の問題で、韓国や中国政府とのやりとりが報道されています。先日は、4年に一度のスポーツの祭典であるロンドンオリンピックが幕を閉じました。日本は過去最多の38個のメダルをとり、種目により明暗がはっきりと現れたな~なんて思いました。
日本サッカーでは、女子の「なでしこジャパン」が銀メダル、男子は3位決定戦で惜しくもメダルを逃しました。惜しかったですが、よく頑張ったと思います。日本のサッカーのレベルもどんどん上がっているなと感じました。

しかし、この試合で問題が…試合後、韓国人選手が「竹島(独島)は韓国の領土である」というようなプラカードを掲げて会場を走り回りました。
国同士、いろんな問題はあるにせよ、これはオリンピック精神(オリンピズム)に反する行動です。オリンピック憲章には、宗教、人種、政治をオリンピックの場に持ち込んではいけないことがうたってあります。この問題はイデオロギー云々以前の問題です。ルール違反です。陸上の為末 大さんがツイッターで書いているように、IOCがオリンピック憲章に基づき、粛々と処分、対応することが必要だと思います。安易に、これにより国同士のイデオロギーの主張に進まないほうがいいでしょう。ルールを守れないならオリンピックに出場しなけりゃいいのです。

また、話が脱線しましたが…

8月15日の終戦記念日は、日本がポツダム宣言を受諾した日です。ポツダム宣言は、アメリカ・トルーマン、イギリス・チャーチル、ソ連・スターリンがドイツ、ベルリン郊外のポツダムに集まり、日本に降伏するように、アメリカ、イギリス、中華民国の名で出された共同声明のことです。7月26日にポツダム宣言が発表されました。この宣言に関して、日本では、戦争続行か降伏かについて、激論が交わされ、なかなか答えが出ませんでした。

日本は、この段階に来て、戦争を続行することは不可能でした。が、どうしてすぐに降伏しなかったのでしょうか

◆7月26日、ポツダム宣言が発表された当時、ソビエト連邦とは「日ソ中立条約」を結んでいたため日本へ参戦していませんでした。そこで日本はソ連に和平の斡旋をお願いしていました。その間、宣言を黙認していたのですが、世界からは無視していると捉えられたようです。

そして、8月6日、アメリカは、広島へウラン濃縮型原子爆弾、続けて、8月9日に長崎へプルトニウム型原子爆弾を落としました。22万人もの命が失われ、後遺症に苦しむ人が現在もおられます。

この8月9日、何を血迷ったか、これが戦争時の空気なのか?、自分たちだけ、この戦争で得るものがないと思ったのか、ソ連は中立条約を破り、満州と樺太、千島列島へ攻撃を開始しました。8月15日にポツダム宣言を受諾してからも、瀕死状態の、無抵抗の日本、日本人を攻撃しました。その結果、満州では多くの人が捕虜となり、シベリアへ連行され、過酷な環境のもと強制労働を強いられました。約60万人の方々がシベリア抑留され、昭和30年代には全員帰還することができましたが、約5万5千人の命が失われました。

また、満州への攻撃は過酷を極め、略奪、暴行など凄かったということです。日本へ逃げようと必死の中、どうしても小さい子どもを連れていると、皆、つかまって死んでしまうということで、現地の中国の方に泣く泣く子どもを預けて、逃げまどいました。それが中国黒竜江省に多くの残留孤児をつくることになりました。しかし、中国の方には、子どもを預かり、育てて頂いて感謝です。生きているだけでも幸せなのですから。

ソ連の攻撃は、先ほど書きましたように8月15日を過ぎても続行。9月5日、千島列島、現在の北方領土まで制圧して終了しました。ですから北方領土は、無抵抗の日本に対して土地を略奪したという経緯があるのです。それが戦争なのか ソ連(現 ロシア)では、9月2日が日本に対する先勝記念日です。9月2日に戦艦ミズーリの甲板にて日本が降伏を受け入れる調印式が行われ、完全に戦争が停止したわけです。が、ソ連は9月5日まで日本の領土を略奪し続けました。まんまと自分の国で法律を制定して、北方領土はソ連のものだとしてしまいました。

9月2日に行われた、戦艦ミズーリでの日本の降伏に関する調印式ですが、共同声明をともに出している、中華民国の蒋介石は出席すらせず、イギリスのチャーチルは選挙に敗戦し、母国へ帰り、出席していたのは、トルーマンだけだったそうです。
また、蒋介石は日本との戦争後、中国共産党との闘いに負け、その身を大陸から追われ、台湾に身を移します。戦後、日本の植民地から解放された台湾で、着実に力を伸ばし、中華民国を建国。その間、台湾の多くの方々が犠牲になりました。その数たるや日本との紛争時を遥かに超える数だということです。台湾の現地の人々は「アメリカは日本に原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落としていった」と言われるくらいです。

こりゃまた、話が逸れてきた…

その後、様々な戦後処理が行われ、1951年、サンフランシスコ講和条約が発表され、翌年1952年4月28日に調印式が行われ、ここで戦争の一応の終結となりました。

いろんな細かい経緯があるのですが、ポツダム宣言を受諾する決断は、天皇陛下、自らがご決断をされたそうです。

だいぶ長くなりましたので、パート2では、ポツダム宣言をなかなか受諾できなかった、もうひとつの理由と、天皇陛下について書きたいと思います。

 
  二葉鍼灸療院 田中良和

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パンダの赤ちゃん誕生!で考える、世界と不妊症?! 2

2012年07月11日 | 社会

上野動物園のジャイアントパンダのシンシンから、新しい命が誕生しました。

なぜ皆さん、パンダが好きなんでしょうかね。嫌いという話はあまり聞いたことがありません。

パンダは中国四川省西北部を中心に、陜西省南部・甘粛省南部にまたがる高山地帯が生息域です。
中国語名は「大熊猫 ターシェンマオ」。台湾では「猫熊」。
フランス人宣教師で、博物学に長けていた、アルマン・ダヴィドが中国奥地を探検中に発見し、彼がパンダを初めて西洋に紹介したということです。

中国は現在、パンダを「国宝」としています。

日本には、1972年、日中国交正常化を控えたその年、1972年に中国から日本につがいが贈呈されました。その時のパンダがメスの「蘭蘭 ランラン」と、オスの「康康 カンカン」です。
私が上野動物園で迷子になりながら観に行った記憶があるのは、このパンダたちですね

いつ頃から、パンダが外交に使われていたか。

古い記録によると、西暦685年、則天武后(ソクテンブコウ  唐の高宗の皇后で後に即位)が日本の天武天皇(飛鳥時代 ?~686年 日本の国号、天皇の称号は天武天皇から始まったとされています。また、『日本書紀』や『古事記』を編纂し完成させた)へ、つがいのパンダ2頭と毛皮70枚を贈呈したというものがあるようです。

1975年に、ワシントン条約に基ずいて、パンダのやり取りは、外国の動物園へ貸与という形式にするか、科学研究のための交換の名義でしか入手は不可能となりました。ということで、中国は外国へ貸与という形をとることになりました。

パンダのつがいを貸与した場合の年間の料金は 100万ドルです。簡単に1ドル100円とすると、年間1億円ということです。さて、この値段どんなもんでしょうかね。シンシンとリーリーの貸与期間は10年間ですから、為替レートの変更もありますが、だいたい10億円ということになります。

さて、先ほど冒頭で生息域の話がありました。中国四川省西北部…と。この地域はチベット問題で非常に話が複雑化している地域でもあります。陸続きでない日本では、あまり領土問題については意識がありませんが、近年は尖閣諸島や竹島、北方四島の問題で意識せざるを得ない状態ではないでしょうか。

1911年、清国が滅亡するとともに、もともと民族が違うチベットは1912年、独立を主張。この時のチベットの土地は現在のチベット自治区の2倍以上でした。現在の中国四川省、甘粛省、雲南省にまたがる広大な土地でした。日本の面積の6.5倍、インドの0.8倍もの広さがあったそうです。中国四川省西北部、陜西省南部・甘粛省南部の高山地帯一帯は、実はチベットだったんですね。近代史をみると、パンダの原産地は実はチベットということになります。

その後、中国共産党(人民解放軍)が中華人民共和国をつくり、1950年、チベットに侵攻。
戦争の善悪は別として、日本も様々な国の事情で満州へ侵攻しました。中国本土にも列強とともに駐屯しました。それを悪いと言うなら中国も同じことをやっているわけです。

また、第二次世界大戦(大東亜戦争)における日本人の犠牲者は80万人とされています。中国のチベット侵攻により犠牲になった人々は120万にのぼるとされています。人数のことを言うと、多い少ないの問題になりますが、もし日本の大陸侵攻、戦争が悪とするなら、中国のチベット弾圧も非情な行為、悪ということになります。

この問題を書くと、長~~~~~~~~~~~~~くなってしまうのでこの辺りでやめときます

パンダの生息域における地域の歴史には、このような問題も秘めているわけです。

題名のように、パンダから世界をみるとは、そんなことです。

パンダからしてみると(通訳)
  
  「チベットのものや、中国のものやって言ってるけど、あたしたちの方が長くここに住んでいる
   わけだから失礼な話よね。人間って何でも、自分たちの思い通りにしたいのかしらね。
   私たちは、私たちの住んでいる土地は、中国のものでも、チベットのものでもなく、誰のもの
   でもないの。白と黒の色をした生き物であり、この土地は、私たちが生活する場所なんよね。
   ただそれだけ。ほっといて欲しいわ

耳を澄ますと、そんな言葉が聞こえてきそうな感じです

ということで、パンダの赤ちゃんが誕生を機会に、パンダ外交、パンダから歴史や世界を眺めてみました。

  二葉鍼灸療院 田中良和

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戦争に関する問題…独り言

2012年07月09日 | 社会

先の戦争に関する問題は、戦争への経緯、当時のそれぞれの国の内情、諸外国との力関係、戦後の交渉におけるそれぞれの解釈の違いなど、難しい問題が山積していて、単純に判断が難しい状態になっていると私は理解しています

まして現在のそれぞれの国の情勢、経済状態、それを含めての外交などが絡むとさらに複雑化していってます。それでも、未来の子どもたちや子孫によりよい世界を残していくには、しっかり話し合い、議論していかないといけないことなんだと思います。

24面体の立体構造の1面、2面を観て判断したのでは、偏った見方しかできず、全体を把握することすらできないと思います。


 

日本大使館にトラック突入=慰安婦問題で抗議、けが人なし―韓国

時事通信 7月9日(月)7時53分配信

 【ソウル時事】在ソウル日本大使館の正門に9日午前5時ごろ(日本時間同)、60代の男が運転する小型トラックが突っ込んだ。正門の一部が破損したが、負傷者は出なかった。聯合ニュースが伝えた。
 男は警備中の警察官にその場で取り押さえられた。6月に同大使館前の従軍慰安婦を象徴する少女像に、日本の右翼活動家が「竹島は日本の領土」と書かれたくいを縛り付けたことに抗議するため犯行に及んだと話しているといい、警察が詳しい動機などを調べている。 


 

解決策として、力に訴え出る。心情は分からないでもありませんが、力や武力では何の解決にもなりません。このような行動は、良識や社会人としての見識を疑いたくなります。

これは日本側も、対する相手国側も同様だと思うのです。

当院へはよく韓国や中国出身の方が鍼治療に受けにご来院されます。皆さんいい人です そして、すごく素敵な人たちです ここに国や歴史が絡んでくるとおかしいことになるんですよね。

武力で力で物事を解決してしまう…現在でも世界で行われている戦争、紛争…本当に問題の解決になっているでしょうか 日本をはじめアジアの東洋哲学の心が民心に根付いている国々が、このような行動をとると悲しくなります。アジアや中東で、アフリカで罪もない人たちに犠牲を強いている戦争、紛争を行っている、かの国々と同列になってしまいます。

現在進行形で、北方領土、竹島、尖閣諸島などの領土の問題、従軍慰安婦に関すること、沖縄の米軍基地問題など様々な戦争が残した遺産があります。日本の政治は国内では混乱しておりますが、このような問題の外交に関しては毅然とした態度と、未来を見据えた話し合いをしてもらいたいと思いますね。

日本は敗戦国であります。今、原子力発電に関して問題になっていますが、もともとは原子力爆弾の開発から移行して、その開発プロジェクトチームがそのまま原子力発電の開発につながっていきました。わが国は原子力爆弾の唯一の被爆国です。終戦間際、長崎・広島に相次いで、ウラン濃縮型とプルトニウム型の2種類の原爆が投下されました。合わせて22万人の人がその犠牲になりました。その後も、原爆症で多くの人が病気になり命を落とし、そして今もなおその症状に苦労されています。
本当に戦争終結に原爆が必要だったのか これは原爆完成ための人体実験であり、大量虐殺ではないのか この問題も解決すべきではないのか 敗戦国だから何も言えないのか そんな思いが込み上げてきます。原爆開発・製造のためのマンハッタン計画に携わった中心事物は、広島で原爆の体験を風化させないよう語り部となっている被爆者を前にしても、原爆投下は必要なことであった、謝る気はない、アメリカは悪くないと言います。

話はそれてしまいましたが、歴史というものは塗り替えることはできませんが、未来はこれから描くことができます。それぞれが歴史を踏まえ、未来志向で明るい未来を築いていく、模索していくことが大切なのだと思います。

地球の陸地を借りて住んでいる人類、一人ひとりが、少しの優しい心と、相手を思いやる心、そして、少しの譲歩の気持ちをもって話しあっていけば、素敵な未来が待っているのだと思います。

「無理」 「あり得ない」と言うことなら、人類は、一回、すべてをリセットされるべきなのかもしれません。身体にもホメオスターシスという生体の状態や機能を一定に保とうとする働きがあるように、地球という生き物にも自浄作用があるとしたら、悪くなった環境を正常に戻すための自浄作用が働くのかもしれない…なんてことを考えてしまうのでした。

ちょっと、戦争の遺産に対しての独り言でした


    二葉鍼灸療院 田中良和

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東日本大震災 被災地の瓦礫処理について

2012年03月19日 | 社会

今年の3月11日(日)、報道各局は特別番組を組んで震災の特集を行っていました。

追悼式典では天皇陛下も体調の悪い中、国民に向けてのメッセージをお話になりました。被災に遭われた方、そして遺族の方々、さらに国難を迎えている日本に対して、どうしてもメッセージを伝えたいという天皇陛下の御心が画面を通じて伝わってきました。

その言葉を真摯に受け止めて政治家や官僚は動くべきでしょう。動いていると信じていますが…。

そんな3月11日、ある局のテレビ放送を観ていて非常に違和感を覚えました。
ちょうど瓦礫処理について、処理が進んでいない現状を伝えるものでした。そして住民の方が、

  「絆、絆と言っていたのに、瓦礫処理になると協力しないとはおかしい」
  「絆なんて言葉、安易に使わないほうがいい」

といった内容の言葉でした。そういう気持ちの被災者もいるかもしれませんが、果たしてそんな意見ばかりなのだろうかと疑問に思いました。

また、基本的に瓦礫は、居住区や商業地、工業地だったところにそのまま放置してあるわけではなく、特定の場所に集められています。岩手や宮城では90%以上の瓦礫がそのように処理されています。しかし、福島となると放射能の問題があるので別問題です。同じ時期では50%強ほどしか処理されていないということでした。そんな放映で瓦礫の山を放映すると何も処理されていないと勘違いするのではないかという疑問もありました。

私はフェイスブックでコメントしました。瓦礫処理に対して、多くのメディアが報道していたように各自治体の瓦礫処理受け入れも被災者の受け入れと同様、支援として必要なことだと。そして放射能の問題さえ、安全、安心に管理できるのであればいいのではないかと。しかし、実際、調べてみると、私の短絡的な意見では測れないことだと感じました。

これはあくまでも私見です。そして、大手メディアの報道が一斉に同じことを言っている時は、状況にもよりますが、一歩引いて広いところから報道をみるようにしています。

まずは、 ゴミ処理の問題。

ゴミを減らすことは環境に良いことです。これは誰が考えても分かることです。しかし、日本のゴミ処理場は「ゴミ不足状態」にあるというのです。

日本には約1600のごみ処理施設があります。な~んと、世界のゴミ焼却場の約7割が日本にあるそうです。人口で約2.5倍強のアメリカを凌いでいます。また、ゴミ焼却場は国が建設費のほとんどを負担し、一基 数百億円です。その後の運営費などの維持費は焼却場のある自治体が持ちます。
そして、現在、多くが最新鋭のごみ処理施設となっています。有害なダイオキシンなど煙が外部に出ないように処理されます。この施設の欠点は24時間、一定の温度で、それも高温で燃やし続けなければいけないということです。それには燃やすゴミが必要となるわけです。
そんなことで、これが全国にあるわけですから、ゴミ不足となるようです。そのような事実があります。

土建業者も世界の約6割が日本にあるということですから、何か偏りを感じますね。
常に燃やし続ける…原子力発電と同じです。

国は維持費のうちゴミ処理場の減価償却費分を国が負担するから、瓦礫を受け入れてくださいということを自治体側に申し出ているそうです。

この瓦礫の処理について、被災した地方自治体側は、違う見解を持っており、瓦礫処理専門のプラントを地元に建設し、何年かかっても地元で処理していく。そこで雇用を生んで、地元にお金が落とされていく。そう考えていたようです。これは農業の地産地消ではありませんが、地域を活性化させる方法の一つですよね。
しかし、国には却下され、門前払いだったそうです。

瓦礫は、全国にトラックで、船で輸送されるわけです。そして全国の処理業者が関るわけです。それだけ国はコストもかかり、かつ、やりとりにはお金が発生するわけです。被災地で行えることは、被災地で行ったほうがどれだけ効率的であり、地域の人のためになるかと思います。

阪神・淡路大震災の時の瓦礫は約2000万トン。国の指示で産業廃棄物、一般廃棄物ともに「持ち込むな、持ち出すな」ということで地元でほぼすべて処理されたそうです。東日本大震災の瓦礫は約2300万トン。放射能の有無や被災が3県にまたがる以外、この二つの震災での瓦礫処理について何が違うのか、国はどうして違う指示を出すのかがよく分かりません。

さて、全国に瓦礫を拡散させるということは、そこにお金が発生し、だれかがそれを請け負って仕事をします。そこに 政治家や官僚と結びついた利権 がないことを願います。

瓦礫の焼却ゴミについて東京都が受け入れましたが、その受け入れ先である、東京臨海リサイクルパワーという会社は東京電力が95%以上株式を有する会社だとか。また、自治体として東京あるいは近隣県以外で初めて瓦礫受け入れを正式表明し、センセーショナルに報道された静岡県の島田市。その市長の全職は産廃業者であり、現在は親族が経営しているとか。いい悪いは別にして、胡散臭い火種はないに越したことはありません。

世の中、お金を稼がなきゃ生きていけませんが、一部の人が特権的に、仕事を請け負う、それも秘密裏に。そんなシステムはないほうがいい。あっても今後、どんどん公開していけばいい。世の中や国民が審判すればいい。今回の瓦礫のことを調べていて、明確に、分かりやすく説明していたのが、新党日本のオフィシャルホームページで田中 康夫 代表が書いている文章でした。興味のある方はご覧ください。

放射能に関しては、もっと慎重を期すべきですね。ということを広島での原爆被爆者であり、医師である肥田舜太郎さんが、原爆症その後に起きた内部被曝の患者の体験を綴った書籍 『内部被曝の脅威―原爆から劣化ウラン弾まで』(ちくま新書)を読むとその事実に驚かされ、かつ勉強になります。
ちなみに、共著は、私も何度か直接お会いして少しですが話をさせて頂いたことのある、『六ヶ所村ラプソディー』『ヒバクシャ』などのドキュメンタリー映画を製作し、その真実を伝えようと世界を奔走している 鎌仲ひとみ さん です。

著書にも書いてありましたが、外部被曝については研究が進んでいても、内部被曝に関してはほとんど研究が進められていません。それは広島、長崎に原爆が投下された後、原爆にあっていないのにどんどん原爆症で亡くなって行く人を目の当たりにしたそうです。そして現在でも、そのような症状を訴える人、原爆症からガンや肝臓障害を患う人がいます。アメリカ軍は一切の公言、写真、絵など記録に残すことを禁止しました。原子力発電に繋げるためです。

これが世界を覆う原子力利権の始まりですね。日本もその対象であり、日本にお金を落としていったことも事実です。その話は置いておいて。

自然が創り出す放射性物質(放射線)と人間が創り出した放射性物質は同じものなのか。除染なんて言うが、おのおの放射能は半減期というものがあり、それは簡単になくなりません。どこかにも書いてありましたが移染です。いくら自然に自浄能力があるにしても、どこまでそれに甘えていいのか、どこまで人間の身勝手で自然を破壊していいのか、そのツケは返ってこないのか、いろいろ考えるべきことがあります。

内部被曝は、チェルノブイリ原発事故があった周辺、秘密裏に原爆製造のためのプルトニウム抽出や原子炉建設が行われていたアメリカの地域でも健康被害として事例が出ていますし、内部被曝の研究は始まったばかりといっても過言ではないようです。

だから何が安心か、ということは分かりません。もしかしてガンが死亡原因の第1位の日本では、これも原因の一つになっているのかもしれません…推測です。

ということで、長々と書きましたが、私は、瓦礫処理を日本の他の地域が行うことは反対です。

そんなことを、東日本大震災後1年のテレビ放映を観て考えていました。

 二葉鍼灸療院 田中良和

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死ということ

2012年01月26日 | 社会
東日本大震災では多くの方がお亡くなりになりました。もうすぐ一年が経とうとしています。

今回は「死」について考えてみたい…というより私自身が考える時を得たので書いてみたいと思います。

いつも歩いて来院されていたご近所の女性が年末に転倒され、その女性の往診へ行っていました。その方は、年末にお嬢様をガンで亡くされました。転倒したのはその疲れもあったのでしょう。
年末からの鍼灸治療(往診)で、捻挫、打撲もほぼ治り、一昨日の病院診察では骨には全く異常なく大丈夫ということでした(病院にも行けないほどでしたので)。

本日往診で、その女性と治療中に話をしていました。

 「○○町の、○○さんって言う人が、私の娘より若くして亡くなったみたいよ。おそらくガンだろうね」

 「へ~そうなんですか」

と話しながら、その○○さんって言う人は、私の治療院へ通院していた方でした。少し動揺してしまいました。病院に入院中も様々な症状の改善に往診へ行き、病気の治療で体力が弱り、その副作用でいろんな症状が出て、その治療に当院へ来院されていました。昨年12月にも病院へ2回ほど往診へ行きました。

その後、連絡がなくたいへん気になっていました。

そんな時の、往診先の患者さんとの会話でした。治療院へ帰り、新聞の死亡欄をもう一度確認しました。その方の名前がありました。新聞を閉じて…もう一度確認しました。やっぱり、その人の名前でした。

その時、頭をよぎったのは、往診へ行った時の最後の顔、そして笑顔、本当に最高の治療をしてあげることができたかという疑問、もっといい方法があったのではないかという後悔、本当に○○さんの力になれたのか、など様々なことが頭をよぎりました。すごく心が重くなると同時に、もっと頑張らないといかん!という煮えたぎる何かも湧きあがってきました。

そんな時に「死」ということは何だろうということを思ったのです。

私の治療院では、不妊症の患者さまが多く来院され、命の芽生え、誕生、「生きる」について多く体験させて頂きます。赤ちゃんが生まれました!二人目が出来ました!という具合にです。そこでは本当に素晴らしい感動あり、鍼灸師をやっていてよかったなと思い、感動する瞬間です。

さて、私のところは「ガン」の患者さまも、ほぼ病院での治療後の身体ケアの一方法として鍼灸治療を利用するために来院されています。人数は多いとは言えませんが。中には、副作用が強く、あるいは病状が進んでおり、どうしようもない方も来院されますが、症状の軽減、あるいは免疫力の増強のため治療しています。

そこでは、この方のように、どうしようもない身体の状態で「死」を経験することもあります。鍼灸治療で「死」というものを直接体験するということはどういうことなのか、そこから何を学ばなければならないのか、それが今後の私の課題でもあるように思えます。

飯田史彦 先生は、その著書『生きがいの本質~いつまでも、いつまでも一緒~』の中で、このように書かれています。

☆人間は、いつか必ず死ぬ存在だからこそ、「人間として生きて死んでいく」という貴重な体験を学ぶことができます。誤解を恐れずに極論すれば、私たちは、「いずれ死ぬために生まれてきている」のです。

なぜなら、あまりにも当然すぎて見落としがちな真実ですが、そもそも「生まれて来なければ、死ぬことができない」ためです。死を通じて学ぶために、私たちは、死という現象が存在するこの世に、生まれて来ているのだと言えるでしょう。

「死」というものは、決して、価値や意味のない現象ではありません。いかなる人がどのような死にも、必ず大きな意味があります。自分の死を通じて、自分自身が何を学ぶのか。自分の死を通じて、自分の家族や周囲の人々に何を学んでもらおうとするのか。そして、自分の家族や周囲の人々の死を通じて、自分は何を学ぶべきなのか・・・・このように自問する時、私たちは、自分や人々の死というものを最高に生かすことができ、死というものに最大の価値を与えることができるのです。

しかし、私たちは「死」が人生最大の試練であるからこそ、死という状況に直面することを極度に恐れます。現代社会では、私たち人間にとって、死ぬことは悲劇であり、挫折であり、損失にすぎないと考えられているためです。―☆


飯田先生は、そのように書かれています。

確かに命が誕生しなければ、死というものはありません。飯田先生は、著書の中の他の部分では、それは学びだから悲しまなくていいと言っているのではなく、その時の自分の感情のままに悲しみ、泣くことも大切であると言っています。そして、その悲しみを乗り越えていく時に、お亡くなりになった方からの「学び」あるいは「教訓」「メッセージ」を思い、意味づけることで、そこに光を見出せるのではないかとも感じます。

私も、そんな死はいくつか体験しました。

また、飯田先生は以下のようにも書かれています。

☆すべてのことには意味があり、「死」にさえも貴重な価値が込められているということ、そして、先立ったその人が与えてくださった宝物のような価値を受け取るのが、あなたの使命だということ…最愛の人を亡くされた方に、このような発想を受け入れて未来へ向いて頂くためには、

 「また必ず会えるのだ」
(魂で考えると、家族や夫婦という身近な存在は、形を変えて過去世ではいつも出会っているということ…未来も。この文章は、私の説明です)
 
 「自分で計画した問題集なのだ」
(魂で考えると、生まれる時は、自分がこの両親を選んで生まれてくるようです。また、人生には様々な分岐点があり、いい事あり、悪い事あり、山あり、谷ありですが、分岐点でどのように判断し、決断したかによって運命は変わりますが、大きな人生の流れと、その時々に起きる出来事「魂や自分を成長させる問題集〉は自分で決めて生まれてくるようです。この文章も私の付け足しです)

という二つの大前提が、大きな役割を果たしてくれるのです。―☆



この辺りになると、それぞれの宗教観や人生観があります。ものの捉え方が違いますので、これが正しい、これが間違っているということはなく、それぞれが信じていることを信じればいいと思います。私は、上記の飯田先生のような捉え方をすると、「死」というものに関しても、悲しみが薄らぎ、ある時期が来ると、気持ちが楽になり、前向きになってくると思うのです。

「死」というのは「生まれた」時に宿命づけられた100%起こる最終行事です。その最終行事をどのような形で行うか、終わりよければすべて良し、ではありませんが、そのためには、どう生きるかだと思います。

「葉隠」という書にも「武士道とは、死ぬこととみつけたり」という一文があります。当たり前のことかもしれませんが、死にざまは、生きざまで決まるのだと思いますね。

死というのは、その人との別れであり悲しく、辛いことではあります。また、その人との別れには自分へのメッセージが含まれており、死にさえも学びがあるということ。そして、お別れする人の生きてきた人生を振り返り、感謝し、称え(その逆の反面教師的な学びもあるかもしれません)、そして自分の成長に繋げていくことが大切なのかもしれません。

身近な人の死…それを悲しむだけ、悲しんで、泣くだけ、泣いたら、次には、そこからのメッセージをくみ取り、自分の人生に活かしていくことができればベストなのだと思います。私の場合は、今回のことで、またさらに鍼灸道あるいは、病める人が健康になるために精進しなければ!と再確認し、腹を据えていきたいと思いを新たにさせて頂きました。

お亡くなりになられた患者さまのご冥福をお祈りいたします。

そして、このようなことを深く考えさせて頂き、深く感謝いたします。


二葉鍼灸療院 田中良和
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